附属高校や大学など東海大学関連施設の東側には、「泉岳寺」がありますが、今回は省略。
旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。
突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。
(いさらござか)
明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。
「魚籃坂」。
(ぎょらんざか)
坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。
こちらの坂が「旧伊皿子坂」。
「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。
(ゆうれいざか)
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。
お寺の塀越しに「東京タワー」。
しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
「三田の坂めぐり案内図」。
「聖坂」。「区立三田中学校」の前。
(ひじりざか)
古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。
「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。
(しおみざか)
坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。
今は海は見えないが、かつては。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。
普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。
振り返って望む。
(へびざか)
付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。
来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。
斜面には菜の花が。
右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。
一気に下って行きます。
(あんぜんじざか)
坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。
坂を下りきると、正面は慶應大学。
振り返って望む。
以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。
坂を上がると、視界が広がる、景色が変わる。坂を上ったり、下ったりしながら町の風景の変化を感じるのが、坂巡りの面白いところです。
喧噪の道筋から一歩離れて、坂道をたどることでの発見もあります。
今も息づく路地裏の暮らし。
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