テラス越しに風景を眺めながら、のんびりと。そういえば、軽井沢から横川までの連絡バスの発車が16:10だったことに気がつきましたが、後の祭り、今から下っても間に合わない・・・。ま、いいか。でもちょっと急ごうか。
右手には、「安政遠足」のゴール、熊野神社。社殿がちょうど群馬と長野にまたがっています。
(15:10) 茶店の敷地に「上信国境」線。
右が長野、左が群馬。
そこから群馬県側(上州側)を望む。
さて、これから軽井沢宿までどの道を進むか迷うところですが、いずれにしても旧道はほとんどが道路整備、宅地再開発等のため失われてしまっていると考えると、谷間の旧道は整備されていないようだし、結局、多くは「遊歩道」を下ることになるようです。
「旧中山道碓氷峠跡」
江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津で東海道と合する。
この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
「旅人の身を粉に砕く難所道
石のうすいの峠なりとて」
「苦しくも峠を越せば花の里
みんな揃って身は軽井沢」
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。
現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
谷間の道へ通じる標識。
ともかくさっさと遊歩道を下りました。緩やかに曲がりながら林間を下る道。やがて吊り橋を過ぎると、別荘の建物が点在するところへ。
そのうち、県道に合流します。振り返って望む。
(15:50)峠から下ってくる県道を望む。
合流した県道を進むと、橋に出ます。この橋が「二手橋」。軽井沢宿に泊まって江戸に向かう旅人と見送りにきた飯盛女とが東西二手に別れるところから名が付いたといいます。この先からが「軽井沢宿」ということに。
軽井沢宿(かるいさわしゅく)
中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
(以上、「Wikipedia」参照。)
歌川広重 画。
(16:00)「二手橋」を渡ると、右手にショー記念像と教会があります。
英国聖公会宣教師A・C・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは1885年(明治18年)である。師は翌年この地に暑さを避け、静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。
現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている。
続いて右手には芭蕉句碑。
芭蕉翁
馬をさへ ながむる雪の あした哉
松尾芭蕉(1644~1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書きに「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくとの意。(飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
碑は、天保14年(1843年)当地の俳人 小林玉達によって、芭蕉翁150回忌に建てられたものである。
軽井沢町
芭蕉句碑を過ぎると、いよいよ本格的な「軽井沢宿」へ。観光客がそぞろ歩きしている商店街(旧軽井沢)の入口にあるのが、宿の江戸方枡形の地にある、かつての茶店、現在は旅館になっている「御宿 つるや」。門前に「中山道 軽井沢宿」と記された石塔。
春休み中なのに、思いがけず閑散としています。
「軽井沢写真館」。
軽井沢の古き良き時代にタイムスリップしたような、レトロ調の記念写真はいかがでしょうか。 セピア写真の撮影をメインとしておりますが,ご希望によりカラー写真も承っておりますので、お気軽にご相談下さい。 野外での撮影は午前の開館時より、午後4時半くらいまで撮影可能ですが、 混雑状況、天候により変動致しますので事前にお尋ねくださいますよう宜しくお願い致します。
「土屋写真館」。
軽井沢の歴史が垣間見られる写真店です。 もとは小林一茶も泊まった軽井沢宿の旅籠でしたが、明治39年(1906)に写真館として創業。 軽井沢の昔の写真が手に入る店として有名です。 モノクロの写真が展示、多くの人が写真を見に訪れます。
(以上、二つのお店の紹介は、HPより)
「軽井沢観光会館」。
旧軽井沢商店街の中央には明治44年(1911)に建てられた軽井沢郵便局があったが、建物は現在塩沢湖畔の軽井沢タリアセンに移築されて、跡地には外観を模した軽井沢観光会館が平成7年(1995)に建設された。
(「軽井沢観光協会公式HPより)
すれ違う人々は圧倒的に外国人。なかでも中国人が目立ちます。
「京方枡形」跡。
現在はローターリーになっていて、その面影はありません。旧中山道は、右手に進みます。左手は軽井沢駅方向。
観光案内板。今回はここまで。
軽井沢駅まではけっこうな距離があります。着いたときは、バスの出発時刻をかなりオーバー。しかし、次の「横川」行き最終バスは18時過ぎ。
もともと在来線の上野(都区内)~横川の往復切符(JR東日本「大人の休日倶楽部」会員で「3割」引)だったのです。軽井沢を午後6時過ぎに出たのでは帰宅が遅くなります。そこで、新幹線で「軽井沢」から「高崎」まで利用し、そこから在来線で帰ることにしました。余計な出費でしたが、思ったよりも早く帰宅できました。
次回からの旧中山道歩き。しばらくは在来線のみでの利用しにくくなってきます。「軽井沢」以降は新幹線利用ということになりそうです。その点、「大人の休日倶楽部」は3割引なのでかなり助かりそうですが、・・・。
次回は、さっきのロータリーからになります。
右手には、「安政遠足」のゴール、熊野神社。社殿がちょうど群馬と長野にまたがっています。
(15:10) 茶店の敷地に「上信国境」線。
右が長野、左が群馬。
そこから群馬県側(上州側)を望む。
さて、これから軽井沢宿までどの道を進むか迷うところですが、いずれにしても旧道はほとんどが道路整備、宅地再開発等のため失われてしまっていると考えると、谷間の旧道は整備されていないようだし、結局、多くは「遊歩道」を下ることになるようです。
「旧中山道碓氷峠跡」
江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津で東海道と合する。
この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
「旅人の身を粉に砕く難所道
石のうすいの峠なりとて」
「苦しくも峠を越せば花の里
みんな揃って身は軽井沢」
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。
現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
谷間の道へ通じる標識。
ともかくさっさと遊歩道を下りました。緩やかに曲がりながら林間を下る道。やがて吊り橋を過ぎると、別荘の建物が点在するところへ。
そのうち、県道に合流します。振り返って望む。
(15:50)峠から下ってくる県道を望む。
合流した県道を進むと、橋に出ます。この橋が「二手橋」。軽井沢宿に泊まって江戸に向かう旅人と見送りにきた飯盛女とが東西二手に別れるところから名が付いたといいます。この先からが「軽井沢宿」ということに。
軽井沢宿(かるいさわしゅく)
中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
(以上、「Wikipedia」参照。)
歌川広重 画。
(16:00)「二手橋」を渡ると、右手にショー記念像と教会があります。
英国聖公会宣教師A・C・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは1885年(明治18年)である。師は翌年この地に暑さを避け、静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。
現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている。
続いて右手には芭蕉句碑。
芭蕉翁
馬をさへ ながむる雪の あした哉
松尾芭蕉(1644~1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書きに「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくとの意。(飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
碑は、天保14年(1843年)当地の俳人 小林玉達によって、芭蕉翁150回忌に建てられたものである。
軽井沢町
芭蕉句碑を過ぎると、いよいよ本格的な「軽井沢宿」へ。観光客がそぞろ歩きしている商店街(旧軽井沢)の入口にあるのが、宿の江戸方枡形の地にある、かつての茶店、現在は旅館になっている「御宿 つるや」。門前に「中山道 軽井沢宿」と記された石塔。
春休み中なのに、思いがけず閑散としています。
「軽井沢写真館」。
軽井沢の古き良き時代にタイムスリップしたような、レトロ調の記念写真はいかがでしょうか。 セピア写真の撮影をメインとしておりますが,ご希望によりカラー写真も承っておりますので、お気軽にご相談下さい。 野外での撮影は午前の開館時より、午後4時半くらいまで撮影可能ですが、 混雑状況、天候により変動致しますので事前にお尋ねくださいますよう宜しくお願い致します。
「土屋写真館」。
軽井沢の歴史が垣間見られる写真店です。 もとは小林一茶も泊まった軽井沢宿の旅籠でしたが、明治39年(1906)に写真館として創業。 軽井沢の昔の写真が手に入る店として有名です。 モノクロの写真が展示、多くの人が写真を見に訪れます。
(以上、二つのお店の紹介は、HPより)
「軽井沢観光会館」。
旧軽井沢商店街の中央には明治44年(1911)に建てられた軽井沢郵便局があったが、建物は現在塩沢湖畔の軽井沢タリアセンに移築されて、跡地には外観を模した軽井沢観光会館が平成7年(1995)に建設された。
(「軽井沢観光協会公式HPより)
すれ違う人々は圧倒的に外国人。なかでも中国人が目立ちます。
「京方枡形」跡。
現在はローターリーになっていて、その面影はありません。旧中山道は、右手に進みます。左手は軽井沢駅方向。
観光案内板。今回はここまで。
軽井沢駅まではけっこうな距離があります。着いたときは、バスの出発時刻をかなりオーバー。しかし、次の「横川」行き最終バスは18時過ぎ。
もともと在来線の上野(都区内)~横川の往復切符(JR東日本「大人の休日倶楽部」会員で「3割」引)だったのです。軽井沢を午後6時過ぎに出たのでは帰宅が遅くなります。そこで、新幹線で「軽井沢」から「高崎」まで利用し、そこから在来線で帰ることにしました。余計な出費でしたが、思ったよりも早く帰宅できました。
次回からの旧中山道歩き。しばらくは在来線のみでの利用しにくくなってきます。「軽井沢」以降は新幹線利用ということになりそうです。その点、「大人の休日倶楽部」は3割引なのでかなり助かりそうですが、・・・。
次回は、さっきのロータリーからになります。
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