葛飾区指定史跡 立石(葛飾区教育委員会による説明文)
古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。
ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。写真は、その部分。児童公園の中にあるが、鳥居があって地元の方からは大切に扱われてきたことが伺われる。ただ、もう少し整備した方がよいのではないかとも。
一般的に、立石(りっせき)は、遺構の一種で、大きな(河原)石を地面に穴を掘って立てたものを言い、世界的には、ストーン・サークルやストーン・ヘンジ、モアイ像など、巨石建造物は多く存在している。
日本では縄文時代とくに後期の墓域によくみられる。秋田県鹿角市の大湯環状列石の「日時計様組石」が有名である。ある種の記念物・墓標あるいは何かの目印として立てられたものと考えられ、巨岩を組み合わせて何らかの目的を持たせる。また、単独で用いられた巨石も多く存在している。
モアイ像などもそうであるが、時代が下がって、そうした技術やそれを支える集団がいなくなり、まったくの伝承もないまま残された巨石に地元の人間が畏怖の念を持つのも当然ではある。
まして、ここ立石付近、すでに室町時代には農村地帯として田んぼが続く低湿地帯にこの巨石がどうしてここにあるのか、実に不思議な存在だったのだろう。
古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。
ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。写真は、その部分。児童公園の中にあるが、鳥居があって地元の方からは大切に扱われてきたことが伺われる。ただ、もう少し整備した方がよいのではないかとも。
一般的に、立石(りっせき)は、遺構の一種で、大きな(河原)石を地面に穴を掘って立てたものを言い、世界的には、ストーン・サークルやストーン・ヘンジ、モアイ像など、巨石建造物は多く存在している。
日本では縄文時代とくに後期の墓域によくみられる。秋田県鹿角市の大湯環状列石の「日時計様組石」が有名である。ある種の記念物・墓標あるいは何かの目印として立てられたものと考えられ、巨岩を組み合わせて何らかの目的を持たせる。また、単独で用いられた巨石も多く存在している。
モアイ像などもそうであるが、時代が下がって、そうした技術やそれを支える集団がいなくなり、まったくの伝承もないまま残された巨石に地元の人間が畏怖の念を持つのも当然ではある。
まして、ここ立石付近、すでに室町時代には農村地帯として田んぼが続く低湿地帯にこの巨石がどうしてここにあるのか、実に不思議な存在だったのだろう。
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