おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「落語鑑賞教室」その16。古今亭志ん朝「船徳」。

2021-08-29 20:29:32 | 落語の世界

夏にふさわしい「船徳」を、今は亡き、古今亭志ん朝師匠で。「youtube」にUPされていましたので。

国立劇場にて。

名人芸。何度視聴してもあきません。

三代目古今亭志ん朝。1938年(昭和13年)3月10日 - 2001年(平成13年)年10月1日。

東京都文京区本駒込出身の落語家。本名∶美濃部 強次。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。

五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。

獨協高等学校でドイツ語を学んだ。噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。

同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。

一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。

所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。

父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。

最後の高座は2001年8月11日~20日までの浅草演芸ホール「住吉踊り」。公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し続けた。

2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。

(この項、「Wikipedia」参照)

船徳

船宿に居候している若旦那。船頭になると言い出す。

親方「若旦那、あなたみたいな細い体で、船頭なんぞになれやしません」

徳兵衛「なれやしねえったって、おんなし人間じゃねえか、みんなにやれてなぜ俺にできねえんだ」と食い下がる。親方は船頭の大変さをくどくどと説くが、

徳兵衛「そうかい、親方のとこが駄目だって言うなら、よそへ行って船頭になるよ」と強情だ。

親方「若旦那、”竿は三年、艪(ろ)は三月”と言いやすが、本当に辛抱できますか?」、「もちろん、するとも」で、そこまで言うならと親方は承知して船頭たちを呼び、徳兵衛を船頭仲間へ紹介する。

            

 集まった船頭たちはてっきり親方から小言を食らうと思って、叱られる前に謝ってしまおうと、それぞれの不始末をあれこれと白状するが、全部親方の知らないことばかりでかえってやぶ蛇に。

親方は船頭に”若旦那”の呼び名は似合はないので、これからは「徳」と呼ぶことにすると言って徳兵衛を船頭の仲間入りをさせる。

            

 さて、今日は、暑い盛りの浅草観音様の「四万六千日」。船頭たちは出払ってしまい、船宿には徳一人。そこへなじみの客が、船が嫌いな友達を連れてやって来て大桟橋まで行ってほしいと言う。

 船宿のおかみは今日は船頭は出払ってしまっていないと断るが、客は柱に寄りかかって居眠りをしている徳さんを見つける。おかみさんは断り切れずに、徳さんが船を出すことになる。

徳は出てこない。聞くとひげをあたてていたと。

さて、船を出そうとするが、舫(もや)ったまま。

竿を流してしまったり、同じ所を三回も回ったりして、「ここんとこはいつも三度ずつ回ることになってまして・・・」なんて言いながらも、なんとか大川へ船を出した徳。

船の嫌いな相客は心配する。

徳「この間、赤ん坊連れのおかみさんを川に落としてしまったけど・・・」

大川に出たは出たが船は揺れすぎて、たばこ盆を寄せて吸うのも大変。

そのうち、石垣の方に寄って行ってしまい、石垣にくっついて身動きがとれない。

徳は客のこうもり傘で石垣を突かせ船は離れたが、こうもり傘が石垣の間に挟まってしまう。もう二度とそこへは着けられないと言われ、客はこうもり傘をあきらめるしかない。

 漕ぎ疲れてきた徳、暑くて汗が目に入り前が見えない。客に「前から船が来たらよけてください」なんて言い出した。ようやく大桟橋の近くまで来たが、浅瀬に乗り上げ、それ以上進まない。

客は一人を背負ってやっとのことで岸に上がる。客が船の方を振ると、徳はぐったりしている。

客「おーい、若い衆、大丈夫か」

徳「上がりましたらね、柳橋まで船頭ひとり雇ってください」

枕も船遊びのおもしろさにちょっと触れただけで、いきなり本題へ。枕、それも楽屋話が長すぎて本題になかなか入らない最近の落語とは異なり、このへんのテンポは実に巧み。羽織を脱ぐと、話にふさわしく、夏を感じさせる、爽やかな着物。

徳、船宿の主人、おかみさん、船頭達、お客の二人(相客は船が嫌い)とそれぞれ役どころが異なる人物を演じきる。船をこぐ仕草など、名人芸でした。

ところで、舞台の場所はどこなのか?

 話のオチにもあるように神田川と隅田川の合流付近の柳橋が船に乗った所です。今でも船宿があり、神田川には船がたくさん浮かんでいます。

                     現在の柳橋付近

 到着したところは、駒形橋の西詰めにある駒形堂。ここに隅田川(大川)に突き出た大桟橋があったようです。明治期入ってからも船の発着場がありました。そこから上がると、雷門、浅草寺にと繋がります。

名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」(広重)。

駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。

 駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。現在の堂宇は平成15年(2003)に再建されたもの。

  (「浅草寺の駒形堂」由来より)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「落語鑑賞教室」その15。春... | トップ | 「落語鑑賞教室」その17。八... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

落語の世界」カテゴリの最新記事