坂下から「東京大神宮」に沿って左に進みます。「早稲田通り」を越えると、目の前に大きな建物群。「飯田橋サクラテラス」。かつてのこの付近のイメージは一変。
昨年10月に完成、オープンしたようです。テナント、商業施設、オフィスビル、住宅と・・・、複合施設。
山野勝さんの書では、もちろん記載されていません。それを頼りに歩いていって、ビックリ! さて「幽霊坂」は?
「飯田橋サクラテラス」の先を左に折れると、道筋はかつてのまま。この辺りは、「富士見1丁目」、「2丁目」。ここに「幽霊坂」が三個所ある、とのこと。このネーミングは、地元の方にとっては、迷惑至極、・・・。
「幽霊坂」①。
「幽霊坂」②。
「幽霊坂」①を振り返る。
左手は「東京逓信病院」敷地。大きな空き地も。
「幽霊坂」③。但し、私有地につき、通行止め。
ぐっると回り込んで坂下から。
「白百合学園」のところを右折します。
「富士見坂」。西に向かう坂道。
「靖國神社」の裏手にあたる道。ここにも機動隊員が待機して警戒に当たっています。
かつては富士山が見えたのでしょうが、現在は見ることはできないようです。右手が「法政大学」、左手が「三輪田学園」。
蔓もどき情はもつれやすき哉 虚子
この句は高濱虚子の作品で。1947年に詠まれ、1948年10月の「ホトトギス」に掲載されました。その後、1958年12月に、虚子の集大成である「虚子百句」が出版され、これを機会に、終生の友情の証しとして、三輪田元道校長にこの句が贈られ、1959年6月に校内に、句碑が建立されました。
現在の句碑の位置は、1901年9月から1909年12月にかけての虚子の住居、及び「ホトトギス」の発行所(麹町区富士見町4丁目8番地)筋向かいに当たります。高濱家と三輪田家が、松山市が縁で、筋向かいに住み、親しく付き合っていたことから、校舎改築を機会に、この場所に句碑を移設しました。
虚子は1920年12月から鎌倉市に転居しましたが、三輪田眞佐子と養子の元道も鎌倉市に別宅を持っており、親しい付き合いが、そこでも続いていました。
また、虚子の長女の眞砂子は、本校、高等女学校を1915年に卒業しました。
三輪田学園
何だか意味深長な句です。
坂下から振り返る。長い直線の坂。
左に折れると、「一口坂」。
坂上から。
来た道を振り返る。
「一口坂」は、「靖国通り」とぶつかります。「靖国通り」には「一口坂」というバス停があります。
交差点名は、「ひとくちざか」。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
↓が「富士見坂」、→が「一口坂」。
この地域。「冬青木坂(もちのきざか)」「二合半坂」、「一口坂(いもあらいざか)」、「幽霊坂」、」と曰く因縁のある坂道歩きを堪能できます。
忘れてならないのは「帯坂」。それに「九段坂」。この二つは、次回に。
今日の大災害。「政(まつりごと)荒ければ、天怒る」という昔から言われていることばをつい思い出した。
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