古い建物を生かした店家などがあります。
北側にはすてきな赤松と土蔵造り。
(11:35)「奈良屋呉服店」。白壁が素晴らしい。
「新町」解説板。
江戸から奥州街道をたどり、白河城下の入口にあたる町が新町です。一番町・二番町・七番町・九番町の五つに分けられています。
江戸時代初期、会津領時代の絵図には「鉄炮(砲)町」とあり、初代白河藩主となった丹羽家時代には「足軽町」とあります。
このことから、当初は新町が江戸側の防御の役割を担っていたことが推測されます。後に町人が中心の町になっても足軽屋敷が点在していたのは、その名残りと考えられます。
町名の由来は、「白河風土記」(1805年完成)によれば、新しく取り立てられた町と推測していますが、いつ頃よりこう称されるようになったのかは不明であると記しています。また家数は202軒とあります。
白河市
「国道294号線」が旧街道そのものになっています。
「一番町」を過ぎて「天神町」交差点を右に直角に曲がります。その角に「月よみの庭」という庭園があります。
石英安山岩質の凝灰岩(火砕流堆積物)の為、色が白く東京・京都の神社仏閣では珍重されたそうで、クッション性に富み、内部に水を含み蒸散作用で足元が涼やかに感じられるそうです。
何だか割れた石を無造作に置いてあるだけ(建物を取り壊し終わった敷地という印象)という感じで、「月よみの庭」という名称のいわれが知りたくなります。
「関山満願寺」。
詩人の詠に古への連想床し都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河や
我が白河の名ぞかおる
その郷に関の山ぞありける
西郷村谷地中の道場窪にある笠松より関山を東南東に望む。
笠松の場所が白河石黒目の産出地である。
古代は関山の見える処が人の住める処のようです。
脇の石には「霞が関の名の由来か」とありますが。詳細不明。
足元にさりげなく置かれた解説プレート。・・・「江戸時代の踏石」。
奥に樹齢100年、明治中期に植えられた赤松の「優陽の松」があります。
赤松は白河の市民木。西日に当たると若々しく優しい艶を出すといわれ、北西(北極星)に向かって斜めのラインをもつこの赤松は、「雄飛の松」とも呼ばれているそうです。
その右奥には古い建物。
(11:41)「天神町」バス停。国道194号線。
白壁造りのおうちが目立ちます。
歴史的風致形成建造物 今井醤油店建造物群
今井醤油店は、江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業された。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、天保年間(1830~44)には「肴屋清吉」と記されている。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数える。
建造物群は、旧奥州街道に面した漆喰塗りの座敷蔵と切妻・平入りの伝統的町屋建築の店舗が一体となって特徴的な景観を呈している。座敷蔵は、明治26年(1893)に建築されたもので、店舗・主屋は、魚屋を営んでいた江戸時代の建造物を増・改築し、現況の外観は昭和30年代の改修によるものである。
白河市
この家も増改築はしてあるが街道筋らしい建物。
その奥には白壁造り。
(11:46)「白河提灯まつり・みこし格納庫」。
白河提灯まつり
2年に1度(西暦偶数年)開催される「白河提灯まつり」は、新潟県の「弥彦灯篭まつり」、愛知県の「諏訪神社大提灯まつり」と並ぶ日本三大提灯まつりの一つに数えられます。
神社みこしが町内に繰り出した後を、各町のみこしや提灯が従い、粛々とすり足で進む行列と、宵闇に揺れる幻想的な数千個の提灯が見物客を魅了します。別名「儀式まつり」といわれるほど、武家社会の格式が導入された独特の行事で、伝統文化として白河の地に受け継がれています。
歴史的風致形成建造物松井薬局建造物群
松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861~64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1870)当地に移転した。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めている。
建造物群は、旧奥州街道に面した店舗と並立する蔵を先頭に4棟の蔵、2棟の倉庫の計6棟の蔵、倉庫群が連担する景観が特徴的である。蔵の建築年次は、手前から明治43年(1910)、明治13年(1180)、明治33年(1900)、明治17年(1184)となっている。また、敷地東側にも大正2年(1913)建築の蔵が配置されている。
白河市
その先、突き当たりを左折し、すぐ右折します。
振り返って望む。
奥州街道と白河城下
小峰城跡は、慶長年間頃に 城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。
城郭の改修と合わせて、奥州街道沿いに城下町も形成され、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。
城下町は「通り五町」と呼ばれた天神町・中町・本町・横町・田町を中心とし、これに平衡して南東側に裏町が配置されていました。
記録によれば寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。福島県内では、会津若松城下に次ぐ規模を誇っていました。
市街地には、多くの歴史遺産とともに、当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を偲ぶことができます。
白河市教育委員会
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