「忍川」は不忍池東南部で池から流出する水を集め、上野広小路を横切って、上野三橋町と広小路の間の横町、御徒町から「昭和通り」を横切って東に流れていきました。
1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
その先で、二つに分かれ、一つは東に向かい、浅草七軒町付近で南折して(「新堀川」)、「鳥越川」と合流し、もう一つは現「春日通り」沿いに東流、竹町付近で南に折れて、「三味線堀」に流れ込みます。
「鳥越川」は、「三味線堀」の水が流れ出る地点からはじまり、「清洲橋通り」の東側を南流して、「蔵前橋通り」と交差する辺りで東に折れ、鳥越一丁目、向柳原二丁目、浅草橋三丁目の間を流れ、蔵前一丁目辺りで南下してきた「新堀川」を合わせ、「江戸通り」を横切って、隅田川に流れ込んでいました。
「鳥越川」は、流域にある「鳥越神社」に由来しています。その名の起こりは、奥州の安部貞任らの反乱(前九年の役)鎮圧のためこの地を通った源頼義,義家父子は名も知らぬ鳥が超えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付け、このあたりを鳥越の里と呼ぶようになった、ということです。
台東区の震災復興小学校、公園を散策中、行く先々でその存在が気になり、今回出かけてみました。
「江戸通り」に架かっていた橋が、「須賀橋」。
1880年代のようす。(「同」)
「鳥越川」と「隅田川」との合流点。遠くにスカイツリー。朱塗りの欄干の橋が目立ちます。
水門。この辺り西側一帯が「蔵前」。
蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社にあった丘を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
御米蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御米蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した。・・・(以上「Wikipedia」より)
明治以降も隅田川の水運を大いに活用した物流の本拠地でしたが、関東大震災で焼失。以後は堀も埋め立てられ、倉庫が建ち並ぶようになった。その頃までは、鳥越川を通じて三味線堀と行き来も盛んだったようです。
テラスには、なまこ壁が長く続いて当時の雰囲気を伝えるモニュメントになっています。
下流は、JR総武線の鉄橋。
なかなか見事な景観です。
対岸は、両国。同愛記念病院、旧安田庭園、・・・。
西側の道路側からの水門。
「蔵前1丁目1番」。ここから西(上流)に向かってたどります。
須賀橋への道。
道の北側(右手)榊神社境内にある「蔵前工業学園の蹟」碑。現「東京工業大学」の前身。関東大震災で焼失した後、現在の目黒区・大岡山へキャンパスを移転しました。
台東区教育委員会の説明板。
碑文(碑の裏面)。
「須賀橋」交差点。
正面が、「須賀橋交番」。中央奥が隅田川方向。
「江戸通り」の西側。まっすぐな道路(鳥越川跡)が続きます。
「加賀美久米森神社」脇の古碑。
道路が細くなり、少しカーブしています。水路跡の雰囲気。
先の交差点が、「甚内橋」。
「甚内橋遺跡」碑。
「昭和55年3月 台東区教育委員会再建」とある。
碑文。
甚内橋はこの四ツ角にあった橋。東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ。(現在の神社は、少し西に行ったところにある。)
高坂 甚内(こうさか じんない) ? - 慶長18年(1613年)8月12日)
戦国時代から江戸時代初期にかけての忍者。苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)とも。
武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。
徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。
しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。なお、瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。
高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともされるが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、怪談『番町皿屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
(以上、「Wikipedia」より)
なお、「www.rekishijin.jp/ninjya-blog/第七回 向坂甚内・鳶沢甚内・庄司甚内/」に詳しく掲載されています。
また、にも洒脱な文章で載っています。
ついでに「瘧(おこり)」。
「世界大百科事典 第2版」の解説。
おこり【瘧】
1日とか2日おきというように周期的に悪寒戦慄と発熱を繰り返すという特徴のある病状によって紀元前から中国で知られていた病気である。夏の風邪や山間の悪気などの外邪によって起こされるとされ,湿瘧(しつぎやく)とか痎瘧(がいぎやく),瘴瘧(しようぎやく)など多くの病名が記載されている。他の病気も含まれていたであろうが,主体はマラリアと考えられる。〈おこり〉はこの病気の日本名で,江戸時代まではよく発生した記録がある。
マラリアは、熱帯に生息するハマダラカが媒介する病。とすると、江戸時代は今よりも暑かった! しかし、今年のような暑さが続けば、ハマダラカが大量発生して、再び大流行するかもしれない。
マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化、稲作法の変化などによる発生数の減少や、日本の住宅構造や行動様式の変化により、夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどがあげられる。しかし、これらの状況が温暖化や自然災害などにより変化した場合は再び流行を起こす可能性もある。
と、「Wikipedia」でも警告しています。
1880年代のようす。(「同」より)甚内橋の上方に「鳥越神社」。
現在の西側のようす。
このあたりには、古い趣のある建物が目立ちます(現役なのがすばらしい)。
窓(?)のデザインが面白い。
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