「芥坂」を戻って、今度は左に曲がります。
「芥坂」上から下を望む。
西に向かって急角度で曲がりながら一気に下りていく坂。「鼠坂」。
鼠坂(ねずみざか)
細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。
坂の途中から見上げる。
坂下は「中根坂」につながります。工事中のフェンス。石垣がかつてを偲ばせます。この坂も周囲が大きく変化すると、雰囲気がずいぶん変わるはずです。
そこに向かう途中、「大日本印刷市谷松柏寮」のところに、
「浄瑠璃坂の仇討跡」。
新宿区指定史跡
浄瑠璃坂の仇討跡 指定 昭和60年11月1日
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。
平成3年1月 東京都新宿区教育委員会
興味深いお話です。
浄瑠璃坂の仇討
寛文8年3月2日(1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要において、奥平内蔵允)と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。
居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
そのためこの処分は不公平である、と追放された源八とその一族に同情に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ。
源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。
寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、源八は隼人と対決し、討ち取った。
源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。
流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、のちには彦根藩井伊家に召抱えられた。
源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多い・・・
(以上、「Wikipedia」参照)
ここに登場する「伊賀越の仇討ち」。
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)
寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。
激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらったが、源太夫の兄・渡辺数馬は、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいたので、脱藩する。
剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。
数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。
(以上、「Wikipedia」参照)
この「伊賀越の仇討ち」は、「東海道」を歩き、沼津宿にさしかかり、「狩野川」沿いの道に進んで、「黒瀬橋」の下を通り抜けるたところにある「平作地蔵の祠」で関わりがありました。(以下、再掲)
「平作地蔵の祠」と解説板。
日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来
この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。
沼津千本浜の場面
平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。
山王前自治会
ここでは「日本三大仇討の一」となっています(この場合は、「曽我兄弟の仇討ち」と「忠臣蔵」と合わせて、そのように称するようです)。また、芝居では、「沼津(千本松)」の場がけっこう上演されるようです。
「泉岳寺」付近や「本所松坂公園」も散策しましたので、これで「江戸三大仇討ち」に関わる史跡を訪れたことになります。
「鼠坂」を戻り、そのまま直進し、突き当たりを右折し、その先を左折すると「鰻坂」。この辺りは、「牛込払方町」
緑濃きおうち。「払方」という地名。
払方町は、隣接する市谷砂土原町、市谷船河原町と並び江戸期に大名屋敷を持ち、明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。(「Wikipedia」より)
江戸時代には、この区域のほとんどは、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。
納戸町、払方町、細工町、これらは、居住していた武士(同心)の役職名に由来して命名されたものです。
納戸役は、将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品を取り扱っていたもので、その内の下賜品を取り扱ったのが、払方です。御細工は江戸城内建物・道具の修理・製作にあたっていました。
また、二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来しています。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となりました。
(HPより)
鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。
広い通りを横切った先がその名の通りの「鰻坂」という雰囲気。
坂下から。 坂上から。
「鰻の寝床」のように長く細く曲がっている。
「芥坂」上から下を望む。
西に向かって急角度で曲がりながら一気に下りていく坂。「鼠坂」。
鼠坂(ねずみざか)
細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。
坂の途中から見上げる。
坂下は「中根坂」につながります。工事中のフェンス。石垣がかつてを偲ばせます。この坂も周囲が大きく変化すると、雰囲気がずいぶん変わるはずです。
そこに向かう途中、「大日本印刷市谷松柏寮」のところに、
「浄瑠璃坂の仇討跡」。
新宿区指定史跡
浄瑠璃坂の仇討跡 指定 昭和60年11月1日
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。
平成3年1月 東京都新宿区教育委員会
興味深いお話です。
浄瑠璃坂の仇討
寛文8年3月2日(1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要において、奥平内蔵允)と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。
居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
そのためこの処分は不公平である、と追放された源八とその一族に同情に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ。
源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。
寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、源八は隼人と対決し、討ち取った。
源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。
流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、のちには彦根藩井伊家に召抱えられた。
源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多い・・・
(以上、「Wikipedia」参照)
ここに登場する「伊賀越の仇討ち」。
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)
寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。
激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらったが、源太夫の兄・渡辺数馬は、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいたので、脱藩する。
剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。
数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。
(以上、「Wikipedia」参照)
この「伊賀越の仇討ち」は、「東海道」を歩き、沼津宿にさしかかり、「狩野川」沿いの道に進んで、「黒瀬橋」の下を通り抜けるたところにある「平作地蔵の祠」で関わりがありました。(以下、再掲)
「平作地蔵の祠」と解説板。
日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来
この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。
沼津千本浜の場面
平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。
山王前自治会
ここでは「日本三大仇討の一」となっています(この場合は、「曽我兄弟の仇討ち」と「忠臣蔵」と合わせて、そのように称するようです)。また、芝居では、「沼津(千本松)」の場がけっこう上演されるようです。
「泉岳寺」付近や「本所松坂公園」も散策しましたので、これで「江戸三大仇討ち」に関わる史跡を訪れたことになります。
「鼠坂」を戻り、そのまま直進し、突き当たりを右折し、その先を左折すると「鰻坂」。この辺りは、「牛込払方町」
緑濃きおうち。「払方」という地名。
払方町は、隣接する市谷砂土原町、市谷船河原町と並び江戸期に大名屋敷を持ち、明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。(「Wikipedia」より)
江戸時代には、この区域のほとんどは、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。
納戸町、払方町、細工町、これらは、居住していた武士(同心)の役職名に由来して命名されたものです。
納戸役は、将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品を取り扱っていたもので、その内の下賜品を取り扱ったのが、払方です。御細工は江戸城内建物・道具の修理・製作にあたっていました。
また、二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来しています。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となりました。
(HPより)
鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。
広い通りを横切った先がその名の通りの「鰻坂」という雰囲気。
坂下から。 坂上から。
「鰻の寝床」のように長く細く曲がっている。
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