おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その1。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-30 21:41:49 | 水戸街道
 年明けて久々の街道歩き。1月28日(土)。快晴。風も無く少し寒いですが、歩きやすい一日。

 (9:46)前回の「丁字屋」さんまで戻って再開。


 火災後の昭和5(1930)年から6年にかけて建てられた登録有形文化財の建物が3軒並んでいます。
 手前から「福島屋砂糖店」。昭和6年に建てられた木造2階建ての伝統的な商家意匠建築。
 真ん中の建物は「久松商店」。昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。
 一番の奥が「十七屋履物店」。昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった。
       「久松商店」と「十七屋履物店」。 

     
 「すがや化粧品店」。
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つである。
注 ペディメント:西洋建築における切妻屋根の妻側屋根冑水平材に囲まれた三角形の部分
  コリント、イオニア様式:古代ギリシャ建築様式


        「森戸文四郎商店」
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
 他にもまだまだあるようです。それぞれがコンクリート製ではなく、すべて木造(一部銅板)なのがすごい!

「パンとケーキの店 ビィオレ」。
 この付近に「府中宿本陣」があったようです。

 その付近から通りを望む。
    

 まだまだ「常陸国府」にまつわる「国分寺」「国分尼寺」「国衙」跡など見所満載ですが、先を急ぐことにします。
    

 「国分町府中3丁目」交差点を右に折れて、常磐線を越えて行きます(10:11)。

「跨線橋」に「水戸街道」の解説板。
 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、街道の整備を始めました。東海道・中山道・日光街道・奥羽街道・甲州街道は「五街道」と呼ばれ、江戸幕府が直接支配していました。それに次ぐ「脇街道」の一つとして水戸~江戸間に開通したのが。この水戸街道です。石岡は当時、府中松平家の陣屋の所在地であり、水戸街道の宿駅「府中」として繁栄しました。

「杉並木」。
 昭和30年まで、ここから先約2㎞にわたり由緒ある杉並木がありました。徳川幕府時代、街道の並木として松並木は各所に見られましたが、杉並木は日光以外にはこの府中だけに許されたものでした。これは「御三家」の一つ水戸徳川家の分家である府中松平家の当時の地位の高さを物語っています。

「泉橋」。国分寺と筑波山。

 この跨線橋には「泉橋」という表示があります。現在、常磐線が敷かれているところには、かつて橋が架かっていたようです。旧街道当時の橋名が残されているのかもしれませんん。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。まだ鉄道が敷かれる前。←の部分。
 
 行きませんでしたが、ここで「国分寺」と「国分尼寺」について。

 国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
 『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]。
 国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
 なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
                                      (以上、「Wikipedia」参照)
「跨線橋(泉橋)」から「石岡駅」を望む。

 かつて「石岡」から「鉾田」まで「鹿島鉄道」線がありました。すでに廃線となっています。正面奥から鉾田方向に進んでいました。現在はどうなっているのでしょうか? 「石岡駅」も大きく変貌し、近代的になっています。見た目にはまったくその存在はわかりません。廃線マニアとしては一度訪問してみたいと思います。しかし、全長27㎞以上もあるようなので、はたして?

鹿島鉄道線
 かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線である。2007年(平成19年)4月1日に廃止となった。
 茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を横断する路線で、霞ヶ浦北岸を通る。地図上ではJR常磐線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで1km以上離れており、大洗鹿島線とは接続していない。この点は、旅行者などが徒歩で乗り換えるケースは少なからず存在していたが、一時期路線バスが運行していた以外、特に接続改善は見られなかった。
 鹿島鉄道は旅客収入だけでは鉄道を維持できないほど利用者が減少していたが、航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送の収入によって経営が成り立っていた。しかし、2001年(平成13年)8月に、鉄道に高く依存していた燃料輸送を榎本駅から百里基地へのパイプラインの老朽化と、安全保障上の対策から中止したため深刻な経営悪化が確定的になった。これに対し親会社である関東鉄道による経営支援と沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われることとなり、廃線の危機は一旦回避された。しかし2005年(平成17年)のつくばエクスプレスの開業により、自社の常総線(特に取手 - 守谷間)や高速バスの利用者が減少し減収となった関東鉄道は、2007年度以降の経営支援を行わない方針とした。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、鹿島鉄道は2006年(平成18年)3月30日に廃止届を提出した。なおこの時点で2007年度以降の自治体と県による公的支援をどうするかは白紙状態であった。その後ぎりぎりまで存続の道が模索されたが状況は好転せず、2007年(平成19年)4月1日に廃止された。
 廃線後の線路や駅舎は順次撤去されることになっていたが、現在は撤去作業は途中で中断され、今も線路・駅舎が一部で残っている。車両は、旧形式5両のうち4両、新形式4両のうち2両が、個人に売却され保存されている。

    

                             (以上、「Wikipedia」参照)



1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東南に向かって弧を描く線路。

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