「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。
一直線に伸びる「旧日光街道」。
(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。
「スーパーボーヤ」。
「増田橋」。今は暗渠。停留所名にのみ?
「淵江小学校」を過ぎると、一直線に進んだ道にも変化が。
(9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。
左手角の「セブンイレブン」から見たところ。右手奥の道が旧道。ここで買い物をして、小休止。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
「大曲」という地名は「旧水戸街道」にもあります。綾瀬から東に行ったところ、街道が大きく曲がっています。こことよく似ている道筋です。
わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。
(10:24)草加市入り。
東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。
「広報そうか 第363号 昭和56年6月20日号」より。
孝行娘の哀れな最期 <6> 火あぶり地蔵(瀬崎町)
旧4号国道(県道足立・越谷線)沿いの瀬崎町と吉町との境に、「火あぶり橋」という橋があります。橋の際に通称“火あぶり地蔵”と呼ばれる地蔵堂が建っており、昔の処刑場跡と伝えられています。今回は、この地蔵堂にまつわる悲しい話を紹介します。
昔々、千住の掃部(かもん)宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生けんめい働きました。生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。
ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。
お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。
幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。
しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。
お地蔵さんは現在、旧4号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。
(以上、「」HPより)
ここにも旧日光街道にまつわるお話が残っているというわけです。
「東海道」や「中山道」でも見かけた石造り。
(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。
「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。
小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。
目の前の信用金庫のベンチでおにぎりを食べながら小休止。
さて、その先の左手に立派なお屋敷。
「草加神社」案内板。神社は東武線を越えた西側にあります。
宿内のようす。
駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
黄色いポールのある道が「葛西道」。
交差点の歩道の真ん中付近にある「草加町道路元標」。
その先の左手には、「八幡神社」。
「獅子頭雌雄一対」という草加市指定有形文化財があるそうです。
・・・大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として神幸に供奉したものである。しかし、現在では山車に乗せて曳いたという以外に伝承は残っていない。
かかる大型の頭では、重量の関係もあり彫技に変化をつけることは至難であるが、江戸末期の平面的な技法によって構成されている。この彫工も男獅子の角には、かなり苦心したらしく宝珠との釣り合いもあり、中央に一角の太い角は、獅子の頭部の一部が岩のように盛り上がったごとく彫り込んであるが、獅子の角としては珍しい手法である。塗りは、布着せ黒漆塗りとし、唇・鼻の穴・舌は朱漆塗り。巻毛・耳・宝珠等は金箔押しとし保護のため生漆をかけてある。本体は寄木工法からなり、材は檜であろう。歯は上顎から二本の牙がでて歯の並びに変化を与える古い手法を用いている。
このような大型の獅子頭は、遺構も少なく貴重なものである。
昭和56年3月 草加市教育委員会
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