おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

保土ケ谷一里塚~権太坂。・・・(戸塚宿その1。)

2014-09-04 21:16:39 | 旧東海道
 「保土ケ谷一里塚跡・上方見附跡」(保土ケ谷2丁目)から「権太坂」へと向かいます。案内図に沿って、国道1号線から脇道に入ります。

旧東海道。激しく車が行き来する国道1号線とJR東海道線に挟まれた道路。静かな住宅街。
 この途中に、「元町橋跡」の標柱が立っているらしいが、見落としてしまった。バス停「元町橋」近く?
 名のごとく、この辺りが、「元・保土ケ谷」地区。
     
「元町ガード」という標識のあるT字路を左折して、「今井川」に架かる現「元町橋」を渡り、しばらく行き右折すると、「権太坂」に。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い○が現在の「元町ガード」交差点。

「旧東海道・権太坂改修記念碑」。坂を登りはじめてすぐ左。

けっこう急な上り。ママチャリのご婦人は自転車を引いて上っていました。下りは危ないほどスピードが出て若者が通りすぎて行きました。

前に見えるのが、「保土ヶ谷バイパス」の「新保土ヶ谷IC」と「狩場ICとの間」を渡る陸橋。
保土ヶ谷バイパスは丘陵地帯を切り開いて造った道路。

 「権太坂」は急坂の難所であったため、1894(明治27)年には、新しい権太坂経由の幅の広い東海道が開通している。
国道1号線。「権太坂上」交差点付近。

明治末期ころ(「今昔マップ」より)↓が旧東海道、赤い線が新東海道。

現代(「同」より)。

竹藪。

 「横浜光陵高校」の石垣の角に「権太坂の石柱と説明板」が立っていました。




横浜市地域史跡(平成15年11月4日登録)「権太坂」
 この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
 日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
 「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。
     平成16年3月 横浜市教育委員会

振り返って望む。左手が「光陵高校」。
 もともとこの高校、横国大の付属国立高校として計画されたようです。県立の進学校。 

 ところで、校名の由来:
 山手分校時代の学生・職員達によって命名された。県立高校で地名に由来しない校名が付けられたのは1960年代当時は非常に珍しかった。権太坂に因んだ「権太坂高等学校」という校名も候補の一つであったが、女子生徒陣の猛反対に遭い実現しなかった。(以上、「Wikipedia」より)

 「女子生徒陣の猛反対」というのが、興味深い。「陣」というから集団で猛反対したのでしょうか? ほぼ真向かいには、「権太坂小学校」があります。

広い敷地をもつ学校。

下校中の女生徒。最寄りの交通手段は坂上か坂下のバス路線? 毎日この坂を上り下りするだけで、体力も精神力もつきそう。

「歴史の道 権太坂」の説明板。

歴史の道【権太坂】
 権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。松並木が続く景色もよかったため多くの浮世絵にも描かれています。しかし、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開通により 旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて、宅地開発が進むまで往時の街道のおもかげを残していました。

「権太坂」の名前の由来に2つの説

その1 「老人の返事」説
 ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったということです。
その2 「本当は権左坂」説
 昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。
さて、あなたはどちらを信じますか?(調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生)
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 しばらく緩やかな坂道を10分ほど進むと、丁字路に突き当たる。その正面に「境木中学校・境木小学校」がある。右角には「境木中学校前バス停・折り返し場」。



「投込塚之跡」の碑。
 T字路を左折ししばらく行くと、投込塚の碑があり、碑文の他に庚申塔など三基の石碑が建っている。

 投込塚之跡

 此の地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって、往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り、多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て之が菩提を弔ひしもの也
      昭和39年4月建之

 「碑」の前の通りをそのまま進むと、新道(「国道1号線」)の「権太坂上」という標識の交差点に出る。左折して新道を進むと、「保土ケ谷」方向になる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「水戸街道・四つ木陸橋」での逆走車との遭遇。

2014-09-02 18:36:28 | 世間世界
実録・高速道で逆走車と直面した! 生死を分けた5つのポイントとは!?(産経新聞) - goo ニュース

 もう何年か前、明るくなりはじめた早朝(ライトを点灯するほどではなかった)。水戸街道と平和橋通りとの「四つ木陸橋」の長い上り(「日本橋」方向)にさしかかった時、二車線(中央の車線の色は車線変更禁止の黄色)の右側(私の車の右側前方)を走っていた車が突然、私が走っている左車線に移った! おいおいルール違反だぞ、と。上りなのでスピードは出てはいなかったので追突の心配はなかったが。

 すると、陸橋の頂の向こうから走ってくる車があった。逆走車。
 こちらは左側車線だったので難を逃れた。もし右側を走っていたら正面衝突、間違いなし! なぜなら、車線変更禁止を忠実に守り、自分はその車のように車線変更することはなかっただろうから。
 陸橋上は低く厚い壁を挟んで、上り・下り(「水戸」方向)二車線。幸い早朝で、右側車線を通る車もなく、他の車を巻き込むようなことはなかった。

 すれ違いざまに走り過ぎた一瞬、逆走車の、若そうな運転手の顔は引きつっていた。何しろ、壁を挟んで自分が本来進むべき道路が見えるのだから。
 こちらもびっくり、少しスピードダウンしてバックミラー越しに見ると、その車は陸橋を下りて、あわててすぐ右の路地に曲がった。車がいたらさぞかし驚いたことだろう。・・・

 それから何度もそこを通る。
 逆走車。おそらく下り線を行くつもりが、「四つ木陸橋」の上り車線にどうして誤って入ってしまったのか? 腑に落ちない。自転車で通った時、じっくり観察しても、まず紛れ込むことはありえない路面標示。京成「四ツ木駅」方向からの道で来たとしか考えられないが、道路の流れからも普通は、間違いようがないはず。

 いまだに怖い、それでいて、表現はおかしいが、夢のような不思議な体験でした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本陣跡。一里塚。・・・。(保土ケ谷宿。その5。)

2014-09-01 19:05:07 | 旧東海道
 直線道路をしばらく進むと、JR東海道線の踏切。
「東海道踏切」。


明治後期(「今昔マップ」より)。「元町」の地名があるようにこの辺りがもともとの「保土ケ谷」。

現代。

 現在、この付近の東海道筋の住居表示は「帷子町」「神戸町」等。「保土ケ谷宿」は、「元町」→(「古町」)→「新町」と北に広がっていったと思われる。
 ちなみに「元町」と表記してある付近では、標高約16メートル、北側は高いところで約50メートル、南側は40メートルとなって、まさに「狭間」である。
 北から進んできた東海道は、「本陣」付近で、西にほぼ90度右折し、今井川に沿って進む。今の「国道1号線」、「東海道本線」も同じルート。

「本陣跡」から北を望む。前の通りは「国道1号線」。

「本陣跡」。

歴史の道【本陣跡】
 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

「本陣門」。

 この辺りから「保土ケ谷宿」の核心部で、「脇本陣」大金子屋、藤屋、水屋などの跡碑が置かれている。


歴史の道【脇本陣(藤屋)跡】
 天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模
 建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m) 室数14 玄関付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所



歴史の道【脇本陣(水屋)跡】
 天保年間の水屋(与右衛門)の規模
 建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所



歴史の道【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】
本陣・脇本陣

 公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。

茶屋本陣

 正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。

旅籠屋

 はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。

茶屋

 往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所




歴史の道 【旅籠屋(本金子屋)跡】
 天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
 建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所
格調の高い構え。
 
 国道を渡った右側には「茶屋本陣跡」碑。

「今井川」。国道(東海道)に接する付近のようす。

 その先の川沿いの緑地にあるのが、「一里塚跡・上方見附跡」。

歴史の道 

一里塚跡
 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。

上方見附跡
 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」説明板。

保土ヶ谷宿の松並木
 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
保土ヶ谷宿の一里塚
 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
     平成19年3月 東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ヶ谷区役所

東海道分間延絵図(1800年頃)

榎。松並木。

 こうして「保土ケ谷2丁目」から横浜駅西口行きのバスに乗り、戻ってきました。歩いた道筋を遠目で確認しながらのバスでした。
 「品川」「川崎」「神奈川」「程(保土)ケ谷」と、これでやっと4宿。次から武蔵国から相模国へと移る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする