今回は、「藤沢宿」。昼過ぎに出かけたので、「茅ヶ崎」までは行けず、途中まで。
藤沢には、ほとんど縁はない。江ノ島や片瀬海岸には、何度も行ったことがあるが、鎌倉経由、あるいは大船経由。そういう地域が「藤沢市」に属していたとは、初めて知ったしだい。
住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。1940年(昭和15年)市制施行。保健所政令市に指定されており、人口は政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(約42万人)である。全国の市では42位。
藤沢市内の駅では、JR、私鉄(小田急・相鉄・江ノ電)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、モノレール(湘南モノレール)の駅が存在し、比較的交通の利便性が高い事から、東京・横浜の通勤・通学圏として発展し、湘南海岸の温暖且つ穏やかな気候を求める人々やサーフィンなどマリンスポーツ愛好者をはじめとして、良好な自然・住・教育環境を求める人等により戦前より人口が増加し続けている。
江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町・藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。
明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。
第二次世界大戦後は東京のベッドタウン化が進み人口が急増すると共に、JR(東海道本線、湘南新宿ライン)、小田急(江ノ島線)、江ノ電の3つの鉄道が集まる藤沢駅を中心に商業施設が集積している。また、慶應義塾大学、湘南工科大学、多摩大学、日本大学を有する文教都市でもある。
(以上、「Wikipedia」より)
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。藤沢宿の繁華街・中心部。右上にあるのが「清浄光寺(遊行寺)。東海道は一番右端に見える道。清浄光寺門前でカギ型で曲がって藤沢宿の中心部に入る。
明治末(「今昔マップ」より)。青い↓が宿場の中心部、赤い↓が「藤沢駅」。古い街ではよくあった鉄道駅は離れた場所につくった。
ちなみに、JR東海道線は保土ケ谷駅を出ると、しばらくは東海道と並行して走るが、東海道が新旧どちらも丘陵地帯の上部を通るのに対して、鉄道は、谷間の低いところに敷設したため、戸塚駅付近で東海道と交差した後、大船に南下し、西に転じて藤沢駅に至る。(東海道線はほぼ旧東海道の宿場町をなぞるように駅ができたが、「大船」は宿場町ではないのに、駅が出来ている。)
昭和初期。次第に駅方向に市街地が増えていく。
現在。賑やかな街の中心は、「小田急」「江ノ電」と私鉄二社も乗り入れているJR藤沢駅の周辺に。
こういう浮世絵が随所に描かれている。
現存しているのは、寺院が多く、宿場そのものにまつわる施設の跡の説明板が道ばたに立っている。また、繁華街にある「銀座通り」などには、かつての建物や催しのものなどの写真が随所に掲示されていて歩きながら楽しめる。市としての文化的な側面での取り組みが感じられる。
「昔あった映画館」(於:「銀座通り」)。
「藤沢駅」で下車、まずは「一里塚」跡から探索(「原宿一里塚」からの4㎞は部分は省略)。
崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていました。
藤沢市教育委員会
「一里塚跡」説明板。
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4㎞)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会
藤沢橋方向を望む。右手の小高いところにあるのが、「遊行寺」。
昔の「東海道」。一里塚跡付近の標高は約50メートル、藤沢橋付近は約15メートル。現在の道路と比べて、、そうとう急な坂道であったことがわかる。
現在の「遊行寺坂」。
「見附跡」。
「江戸方見附」だった所。
「藤沢敵御方供養塔」国指定史蹟
この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。
基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。
応永23年(1416)10月6日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。
この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。
敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
平成20年(2008)2月 藤沢市教育委員会
「フジ・ロード案内図」。藤棚を背景に。「藤沢」の名のごとく、「フジ」の花が街の彩りとしてたくさん植えられている。
大きな広告板。
この看板の角を右に曲がっていくのが、旧東海道。
「藤沢橋」。
ついまっすぐ進み、「藤沢橋」を越えてしまった。「藤沢橋」は関東大震災後つくられたが、1990年(平成2年)8月の集中豪雨で落橋。現在のものは、その後に建設されたらしい。奥に少し見える朱塗りの橋が「遊行寺橋」
旧東海道は、遊行寺坂を下って「境川」の手前で右折し、門前の広小路を通ってすぐ左折、次いで遊行寺橋を渡って再び右折して、藤沢宿中心部に入っていった。
1880年代のようす。
藤沢橋のたもとにある浮世絵。安藤広重『東海道五拾三次之内・藤沢』。銅製の鳥居は江ノ島弁才天の入口。後ろの山には遊行寺が描かれている。
背後の「境川」に落ち込む遊行寺坂方向からの水路はは落差があって激しい滝のような落口であった。「境川」は、集中豪雨のたびによく氾濫することもあるらしい。
「藤沢橋」から「遊行寺坂」方向を望む。
「藤沢橋」のたもとにある「藤沢市自動車排出ガス測定局」の建物。
東海道と国道467号線が交差するこの地点は、交通量も多い。
建物の右手に『東海道五十三次 藤澤宿』の浮世絵、『東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ』という説明板がある。
「東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ」
「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。
藤沢宿
藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。
①藤沢御殿
藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。
②本陣と脇本陣
江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。
脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。
③問屋場
職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。
④見附
見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。
⑤高札場
高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。
⑥旅籠屋
一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。
⑦枡形
宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。
藤沢地区郷土づくり推進会議
国道467号線沿い(「遊行寺橋」付近から「白旗交差点」付近まで)が旧宿場の中心地。駅前から来る道案内表示と合流しての散策となります。
実際は、この藤沢橋で道を間違え、そのまま直進してしまいました。県道「湘南新道」をそのまま。
後から調べると箱根駅伝のコースそのもの。延々と歩いて「富士見橋」を越え、東海道線を跨線橋で渡り、警察署を右に曲がり、工場跡地の新開発中のモダンな住宅地を横目で見て、と・・・まさにマラソンコースをたどった次第。さすがにおかしいと思って(気づくのが遅い!)、バスに乗って藤沢駅に戻ってきて、本来の道(宿場町)を歩き直した、というわけです。
藤沢には、ほとんど縁はない。江ノ島や片瀬海岸には、何度も行ったことがあるが、鎌倉経由、あるいは大船経由。そういう地域が「藤沢市」に属していたとは、初めて知ったしだい。
住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。1940年(昭和15年)市制施行。保健所政令市に指定されており、人口は政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(約42万人)である。全国の市では42位。
藤沢市内の駅では、JR、私鉄(小田急・相鉄・江ノ電)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、モノレール(湘南モノレール)の駅が存在し、比較的交通の利便性が高い事から、東京・横浜の通勤・通学圏として発展し、湘南海岸の温暖且つ穏やかな気候を求める人々やサーフィンなどマリンスポーツ愛好者をはじめとして、良好な自然・住・教育環境を求める人等により戦前より人口が増加し続けている。
江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町・藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。
明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。
第二次世界大戦後は東京のベッドタウン化が進み人口が急増すると共に、JR(東海道本線、湘南新宿ライン)、小田急(江ノ島線)、江ノ電の3つの鉄道が集まる藤沢駅を中心に商業施設が集積している。また、慶應義塾大学、湘南工科大学、多摩大学、日本大学を有する文教都市でもある。
(以上、「Wikipedia」より)
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。藤沢宿の繁華街・中心部。右上にあるのが「清浄光寺(遊行寺)。東海道は一番右端に見える道。清浄光寺門前でカギ型で曲がって藤沢宿の中心部に入る。
明治末(「今昔マップ」より)。青い↓が宿場の中心部、赤い↓が「藤沢駅」。古い街ではよくあった鉄道駅は離れた場所につくった。
ちなみに、JR東海道線は保土ケ谷駅を出ると、しばらくは東海道と並行して走るが、東海道が新旧どちらも丘陵地帯の上部を通るのに対して、鉄道は、谷間の低いところに敷設したため、戸塚駅付近で東海道と交差した後、大船に南下し、西に転じて藤沢駅に至る。(東海道線はほぼ旧東海道の宿場町をなぞるように駅ができたが、「大船」は宿場町ではないのに、駅が出来ている。)
昭和初期。次第に駅方向に市街地が増えていく。
現在。賑やかな街の中心は、「小田急」「江ノ電」と私鉄二社も乗り入れているJR藤沢駅の周辺に。
こういう浮世絵が随所に描かれている。
現存しているのは、寺院が多く、宿場そのものにまつわる施設の跡の説明板が道ばたに立っている。また、繁華街にある「銀座通り」などには、かつての建物や催しのものなどの写真が随所に掲示されていて歩きながら楽しめる。市としての文化的な側面での取り組みが感じられる。
「昔あった映画館」(於:「銀座通り」)。
「藤沢駅」で下車、まずは「一里塚」跡から探索(「原宿一里塚」からの4㎞は部分は省略)。
崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていました。
藤沢市教育委員会
「一里塚跡」説明板。
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4㎞)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会
藤沢橋方向を望む。右手の小高いところにあるのが、「遊行寺」。
昔の「東海道」。一里塚跡付近の標高は約50メートル、藤沢橋付近は約15メートル。現在の道路と比べて、、そうとう急な坂道であったことがわかる。
現在の「遊行寺坂」。
「見附跡」。
「江戸方見附」だった所。
「藤沢敵御方供養塔」国指定史蹟
この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。
基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。
応永23年(1416)10月6日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。
この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。
敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
平成20年(2008)2月 藤沢市教育委員会
「フジ・ロード案内図」。藤棚を背景に。「藤沢」の名のごとく、「フジ」の花が街の彩りとしてたくさん植えられている。
大きな広告板。
この看板の角を右に曲がっていくのが、旧東海道。
「藤沢橋」。
ついまっすぐ進み、「藤沢橋」を越えてしまった。「藤沢橋」は関東大震災後つくられたが、1990年(平成2年)8月の集中豪雨で落橋。現在のものは、その後に建設されたらしい。奥に少し見える朱塗りの橋が「遊行寺橋」
旧東海道は、遊行寺坂を下って「境川」の手前で右折し、門前の広小路を通ってすぐ左折、次いで遊行寺橋を渡って再び右折して、藤沢宿中心部に入っていった。
1880年代のようす。
藤沢橋のたもとにある浮世絵。安藤広重『東海道五拾三次之内・藤沢』。銅製の鳥居は江ノ島弁才天の入口。後ろの山には遊行寺が描かれている。
背後の「境川」に落ち込む遊行寺坂方向からの水路はは落差があって激しい滝のような落口であった。「境川」は、集中豪雨のたびによく氾濫することもあるらしい。
「藤沢橋」から「遊行寺坂」方向を望む。
「藤沢橋」のたもとにある「藤沢市自動車排出ガス測定局」の建物。
東海道と国道467号線が交差するこの地点は、交通量も多い。
建物の右手に『東海道五十三次 藤澤宿』の浮世絵、『東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ』という説明板がある。
「東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ」
「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。
藤沢宿
藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。
①藤沢御殿
藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。
②本陣と脇本陣
江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。
脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。
③問屋場
職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。
④見附
見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。
⑤高札場
高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。
⑥旅籠屋
一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。
⑦枡形
宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。
藤沢地区郷土づくり推進会議
国道467号線沿い(「遊行寺橋」付近から「白旗交差点」付近まで)が旧宿場の中心地。駅前から来る道案内表示と合流しての散策となります。
実際は、この藤沢橋で道を間違え、そのまま直進してしまいました。県道「湘南新道」をそのまま。
後から調べると箱根駅伝のコースそのもの。延々と歩いて「富士見橋」を越え、東海道線を跨線橋で渡り、警察署を右に曲がり、工場跡地の新開発中のモダンな住宅地を横目で見て、と・・・まさにマラソンコースをたどった次第。さすがにおかしいと思って(気づくのが遅い!)、バスに乗って藤沢駅に戻ってきて、本来の道(宿場町)を歩き直した、というわけです。