おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

本陣。問屋場。平塚の由来。京方見附。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その4。)

2014-09-30 18:47:12 | 旧東海道
 商店も少なくなった東海道本通りを西に進みます。

「平塚宿本陣旧跡」碑。

「平塚宿本陣旧蹟」碑。

海道宿駅の高級旅館で 徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚2104番地 神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約30米奥行約68米、東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御在所は上段の間であったという。
記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している また明治元年十月と同二年三月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された 
 このたび、平塚支店改築にあたり、旧跡碑を建てて、永く記念とする
昭和四十七年の秋
神奈川相互銀行取締役社長半田 剛撰


信用金庫の支店名は「本宿」。こういうところにもこだわりを感じる。

消防団の建物脇にある「平塚宿問屋場跡」。ここは西組の「問屋場」。

説明板。

 慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。
 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行なわれるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安四年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。
 この両問屋場は十日目交替で執務したという。

消防団の建物を右折した先、「要法寺」の左隣にあるのが「平塚の塚」。
 



平塚の塚由来
 江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
 平塚市

「平塚の塚」。右側の囲い部分。

(以下「Wikipedia」による)

《伝承》
 新編相模国風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある。)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。
 土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。
 真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高望王の妹、平国香(平氏嫡流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。
 高望王は寛平元年(889年)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898年)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遥任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。
 平塚の塚の左側には平塚市長戸川貞雄揮毫による由来碑(昭和32年 1100年祭に際し建立)と共に大正9年、神奈川県知事有吉忠一撰文、徳川頼倫題額揮毫の「平塚碑」が建てられ、その銘文に「桓武天皇孫高見王之女政子(原文のまま)下東國天安元年(857年)二月二十五日薨因葬墳此塚也」との記述がある。(併設されている平塚市設置の説明板も同様の記述である。)当地の伝承が事実とするならば、真砂子は兄高望が上総介として下向する41年も前に東国へ下り、当地で亡くなった事になる。

《現況》
 平塚の塚とされる場所は旧東海道平塚宿の一隅、現在の平塚市平塚四丁目、日蓮宗要法寺の西隣である。現在は石造りの囲いに囲まれた高さ1mほどの塚が築かれ、傍らに真砂子が葬られて以来三代目とされる松の巨木が植えられている。周辺は平塚市により「平塚の塚緑地」という公園として整備されている



 正面の道が旧東海道の本来の道。しばらく西に向かう細い住宅地の中の道を「高麗山」の方向へ歩く。

左に少し見えるのが「高麗山」。

振り返る。


 この先で合流する広い道が国道1号線。「高麗山」も指呼の間。



 「平塚の郊外を流るる花水川に架せる花水橋の此方(こなた)より高麗山及び富士の遠景を眺めたる光景」と『東海道』(大正7年刊行,保永堂版『東海道五十三次』と当時の現状写真を対照した図書)にある。左側中景に小さく見えるのが花水橋である。写真で見る高麗山は,図のように左右非対称で(左側がゆるく右側がやや急な)こんもりと趣のある形ではなく,はるかにゆるくほぼ均一な弧を描いている。道も,図のように雁木状ではなくほぼ真っすぐである。もし,実景により近く描いているとしたら,はるかに平板な絵になっていたに違いない。
『浮世絵を読む5広重』(平成10年)
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

 通りの向こうに見える「高麗山」。ここまで眼前に山が登場しなかったせいか、視界が開けると同時に、独特の山容が目を引く。

    
  現在のようす。                       大正時代のようす。(「知足美術館」HPより)
 今も昔も「東海道」から眺める山のようすは変わらない。

「平塚宿 京方見附跡」説明板。

 東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったものと思われます。
 初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗(こま)山の姿に往時の風情が偲ばれます。建設省(注:当時。現・国土交通省)等の東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
平成十三年(二〇〇一年)三月 平塚市


「従是東 東海道平塚宿」碑。

「東海道五三次平塚京方見付跡」碑(左側)。

                       


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「花水橋」付近。左手の山が「高麗山」。

 「花水橋」を渡って大磯の町なかに入ります。
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