さて、「戸塚宿」の北東のはずれ。
「江戸方見附跡」碑。ファミレス「フォルクス」の前に建っている。
「旧東海道・江戸方見付跡」
江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。
貴賓の送迎はこれから行わ(は)れ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。
見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。
(戸塚区役所)
写真を撮っていると、食事をしている人たちがこちらを見ている。お客の顔が写ってもまずいし、ちょっと撮影には逡巡する感じ。
※ 戸塚宿
相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町ダイエー前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
(以上「Wikipedia」より)
戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。
(以上、HPより)
早朝に日本橋を出立した旅人が約10時間近く歩いてくると、この宿場が一泊目。道中には「多摩川」の渡し、権太坂などけっこう難儀しそうなところを通過してここまでやってくることに。
「戸塚宿」方向を望む。
「元町」交差点。
「吉田一里塚跡」。ここが、10番目の一里塚。
吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40㎞になります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。
「戸塚一里塚跡」。
旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。
戸塚観光協会
沿道には古い家並みも残っている。
足下には、箱根駅伝のモニュメントがはめ込まれている。現在は、不動橋交差点から「バイパス」を走る。
「柏尾川」に架かる「吉田大橋」。この橋を渡ると「戸塚宿」の中心部に入っていく。
「安藤広重の東海道五拾三次之内・戸塚『元町別道』」。
程ガ谷より2里9町。日本橋を早朝に旅立ち,品川,川崎とあまり急がずあるけば,このあたりで旅の最初の夜がおとずれる。広重のこの図は,現在の東海道線戸塚駅より東へ7,8町いったところで,この‘こめや’の看板は現在も保存されている。図の中央に石の道路標があり,左鎌倉道とあるから,このあたりから鎌倉へ通ずる道があったのであろう。この図には異版があり,ウマからおりようとしている旅人が,そこでは逆にウマに乗る動作に変えられている。これはあきらかに後摺で,ウマからおりる旅人を描いたものが初版である。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「吉田(大)橋」。上の説明文で「左鎌倉道」とあるのは、川沿いに南に伸びる道と思われる。
「柏尾川」。
橋の欄干にはめ込まれた浮世絵。
吉田大橋を渡れば戸塚駅の大踏切に到着する。かつては開かずの踏切として有名だった大踏切を越える歩道橋は2014(平成26)年1月に完成した。
「江戸方見附跡」碑。ファミレス「フォルクス」の前に建っている。
「旧東海道・江戸方見付跡」
江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。
貴賓の送迎はこれから行わ(は)れ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。
見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。
(戸塚区役所)
写真を撮っていると、食事をしている人たちがこちらを見ている。お客の顔が写ってもまずいし、ちょっと撮影には逡巡する感じ。
※ 戸塚宿
相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町ダイエー前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
(以上「Wikipedia」より)
戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。
(以上、HPより)
早朝に日本橋を出立した旅人が約10時間近く歩いてくると、この宿場が一泊目。道中には「多摩川」の渡し、権太坂などけっこう難儀しそうなところを通過してここまでやってくることに。
「戸塚宿」方向を望む。
「元町」交差点。
「吉田一里塚跡」。ここが、10番目の一里塚。
吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40㎞になります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。
「戸塚一里塚跡」。
旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。
戸塚観光協会
沿道には古い家並みも残っている。
足下には、箱根駅伝のモニュメントがはめ込まれている。現在は、不動橋交差点から「バイパス」を走る。
「柏尾川」に架かる「吉田大橋」。この橋を渡ると「戸塚宿」の中心部に入っていく。
「安藤広重の東海道五拾三次之内・戸塚『元町別道』」。
程ガ谷より2里9町。日本橋を早朝に旅立ち,品川,川崎とあまり急がずあるけば,このあたりで旅の最初の夜がおとずれる。広重のこの図は,現在の東海道線戸塚駅より東へ7,8町いったところで,この‘こめや’の看板は現在も保存されている。図の中央に石の道路標があり,左鎌倉道とあるから,このあたりから鎌倉へ通ずる道があったのであろう。この図には異版があり,ウマからおりようとしている旅人が,そこでは逆にウマに乗る動作に変えられている。これはあきらかに後摺で,ウマからおりる旅人を描いたものが初版である。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「吉田(大)橋」。上の説明文で「左鎌倉道」とあるのは、川沿いに南に伸びる道と思われる。
「柏尾川」。
橋の欄干にはめ込まれた浮世絵。
吉田大橋を渡れば戸塚駅の大踏切に到着する。かつては開かずの踏切として有名だった大踏切を越える歩道橋は2014(平成26)年1月に完成した。