おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

本陣跡。一里塚。・・・。(保土ケ谷宿。その5。)

2014-09-01 19:05:07 | 旧東海道
 直線道路をしばらく進むと、JR東海道線の踏切。
「東海道踏切」。


明治後期(「今昔マップ」より)。「元町」の地名があるようにこの辺りがもともとの「保土ケ谷」。

現代。

 現在、この付近の東海道筋の住居表示は「帷子町」「神戸町」等。「保土ケ谷宿」は、「元町」→(「古町」)→「新町」と北に広がっていったと思われる。
 ちなみに「元町」と表記してある付近では、標高約16メートル、北側は高いところで約50メートル、南側は40メートルとなって、まさに「狭間」である。
 北から進んできた東海道は、「本陣」付近で、西にほぼ90度右折し、今井川に沿って進む。今の「国道1号線」、「東海道本線」も同じルート。

「本陣跡」から北を望む。前の通りは「国道1号線」。

「本陣跡」。

歴史の道【本陣跡】
 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

「本陣門」。

 この辺りから「保土ケ谷宿」の核心部で、「脇本陣」大金子屋、藤屋、水屋などの跡碑が置かれている。


歴史の道【脇本陣(藤屋)跡】
 天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模
 建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m) 室数14 玄関付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所



歴史の道【脇本陣(水屋)跡】
 天保年間の水屋(与右衛門)の規模
 建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所



歴史の道【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】
本陣・脇本陣

 公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。

茶屋本陣

 正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。

旅籠屋

 はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。

茶屋

 往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所




歴史の道 【旅籠屋(本金子屋)跡】
 天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
 建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所
格調の高い構え。
 
 国道を渡った右側には「茶屋本陣跡」碑。

「今井川」。国道(東海道)に接する付近のようす。

 その先の川沿いの緑地にあるのが、「一里塚跡・上方見附跡」。

歴史の道 

一里塚跡
 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。

上方見附跡
 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」説明板。

保土ヶ谷宿の松並木
 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
保土ヶ谷宿の一里塚
 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
     平成19年3月 東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ヶ谷区役所

東海道分間延絵図(1800年頃)

榎。松並木。

 こうして「保土ケ谷2丁目」から横浜駅西口行きのバスに乗り、戻ってきました。歩いた道筋を遠目で確認しながらのバスでした。
 「品川」「川崎」「神奈川」「程(保土)ケ谷」と、これでやっと4宿。次から武蔵国から相模国へと移る。
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