おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

国府本郷の一里塚。二宮駅。ガラスのうさぎ像。・・・(平塚から二宮まで。その5。)

2014-10-09 18:54:24 | 旧東海道

 そのまま「城山公園」に沿ってカーブする広い道(バス通り)は行かずに、公園入口手前の左手の狭くまっすぐな道が旧東海道。少し間違えやすいので注意が必要でした。
 一人の青年がしきりにその分岐点のところで、手元の地図らしきものと辺りを見回して確認していました。そして、おもむろに左の道をずんずん歩いていきます。「旧東海道探索」の同好の士かと思い、その後をついて行って正解でした。
 しかし、しばらく歩きながら川を眺めたりしているうちに、その青年の姿を見失いました。その人は、ただ「城山公園」近くにある目的地を確認していただけなのかもしれません。でも、助かりました。


 
 ほとんど車も人も通らない住宅地の中を進む道。
「不動川」(「葛川」水系)を渡る。
 緩やかな上り坂。この道でいいのか不安になりそう。


 ゆっくり上がっていくと、民家前の舗装道路。足下にこんなプレートが。
「江戸から十七里」。ここが日本橋から17番目の一里塚があった辺り。


 敷地の一角にあった道祖神。西方を望む。


 来た道を振り返る。静かな住宅街。
 道が再び「国道1号線」に近づいていく。その手前の緑地帯。

 
 「国府本郷の一里塚」碑と説明板。

 ・・・17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。
 この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。

 これで、先ほどの道路に埋め込まれていた「江戸から十七里」プレートが本来の位置だったことがわかります。

現東海道と旧東海道との間にある緑地帯。右が現東海道。

 しばらくは旧東海道は、国道1号線と平行に進みます。

 

 
 道祖神。
  
 来た道を振り返る。右が現東海道、左が旧東海道。

 こうして再び合流します。そして、ひたすら「二宮」を目指して歩くことに。



 左手奥の海岸に有名な?「大磯ロングビーチ」があります。聞いたことがあるだけで、来たことはない。

施設内マップ(公式HPより)。かなり広いんですね。


 街道沿いには、平屋つくりで道路側の間口を広く開けたかたちをした家屋(商家のなごり?)がまだ残っている。


 松並木が再登場して、「二宮」に入る。

「潮海の名残」。
 「葛川」に架かる橋のたもとにあった標識。ここまで潮の満ち引き(浜辺)があったということに。

「葛川」。「大磯ロングビーチ」の北側を流れ、相模灘に注ぐ。

「日本橋まで73㎞」。けっこうやってきました。東海道はまだまだ続きますが、今回はここまで。

来た道を振り返る。

現在(「今昔マップ」より)。赤い○のところが、旧東海道。現東海道の北側をしばらく並行して進む。

大正時代(「同」より)。「一里塚」付近にひとまとまりの集落が確認できる。

二宮駅前ロータリーにある「ガラスのうさぎ」像。

説明碑。

 太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日 ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲となりました
 この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
 この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために 多くの方々のご協力をいただき 建てたものです 
少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです

 ここに平和と友情よ永遠に

 昭和五十六年八月五日 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

 以下は、「神奈川新聞」の記事。
       
 平和の尊さを後世に伝えようと、JR二宮駅南口に建立された「ガラスのうさぎ像」に1日、色とりどりの千羽鶴約11万7千羽が飾り付けられた。作業をした町民らはあらためて、戦争のない平和な世界に思いをはせた。15日まで飾られている。
 終戦直前の1945年8月5日、同駅近くで米軍機による機銃掃射があり、児童文学作家・高木敏子さんは目の前で父を失った。ロングセラー「ガラスのうさぎ」はその体験を基にした児童文学で、作品にちなんだ像は町民の寄付などで81年に建立された。
 千羽鶴の飾り付けは、建立30年を記念して2010年にスタート。折り鶴は7月1~18日の期間、町内だけでなく藤沢や横浜などからも持ち寄られた。それぞれに糸を通して束にする作業は4日間ほど、町民有志が集まった「ガラスのうさぎ像を千羽鶴で飾りましょう実行委員会」(萩原弘子委員長)のメンバーらが担った。
 この日、メンバーらは運び込んだ千羽鶴を像周辺へ飾り付け。細かく丁寧に折られた鶴がびっしりと集まった束もあり、作業の手をしばらく止めて「本当にきれいね」などと話していた。萩原委員長は「今は一見平和な世の中で、平和の大切さを忘れてしまいがち。ガラスのうさぎ像を通して、この小さな町から大切さをアピールしたい」と話していた。
・・・
(2014/8/2)
HPより)

 次回は、小田原宿へ。
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旧島崎藤村邸。上方見附跡。東海道松並木。・・・(平塚から二宮まで。その4。)

2014-10-08 21:36:22 | 旧東海道
 街道筋にしゃれたお店。カレー屋さん。


「旧島崎藤村邸」。
 東海道から「案内」にしたがって路地を入って行く。

前の緑地にある案内板。


 大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。

《島崎藤村(18​72~1943)》

 1872年信州木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)に生まれる。 ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。『落梅集』の一節にある『椰子の実』や『千曲川旅情の歌』は歌としても親しまれている。

《最期の日 昭和18年8月21日》

 朝9時半頃、藤村は廊下に立って庭を眺めながら静子夫人に 「まだあすこを書いているんだよ、しかしこんどは思うように出たと思うがね、あすこが出来てしまえば、あとは雑作ない、和助が東京を立つだけだから…一寸今、読んで見てもらおうか。」
「原稿を読んでしまったら、きょうはお菓子をつくってくれ。」
茶の間で静子婦人が茶棚をうしろに机に向かい、藤村が机をはさんで端座して聞いている。
「青山半蔵には、中世の否定ということがあった…」その行から三四行読んだ頃、
「ひどい頭痛だ」と藤村の小さな声。藤村は茶棚にある常備薬を取りに行くが、静子夫人に倒れかかった。
「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな藤村の声。
「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ…眼まいはちっともしない…涙を拭いて…」
「原稿が間に合うかね、そう 50 枚あるし…あそこで第三章の骨は出ているしね…」 東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」 庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
「涼しい風だね」と……。
 そのまま深い昏睡、意識はかえらず、翌22日午前0時35分に大磯の地で永眠。
『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」までで遂に未完で終わりました。

 町屋園は藤村亡き後静子夫人が住んでいましたが、終戦間近の切迫した状況により箱根に疎開しました。
 町屋園が空家になってしまうことから昭和 24 年から高田保が住み始め、著作の『ブラリひょうたん』は大部分が町屋園で書かれました。
 高田保は昭和27年にこの町屋園、藤村邸で没しました。その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまでお住まいになりました。
(以上、HPより)

 
外壁のつくり                       庭

 

離れ。

 また東海道に戻って西に向かいます。

「上方見附」跡。

バス停「統監道」。
 この付近にあって、大磯宿の西のはずれになっていた。



 「大磯中学校」の前から見事な松並木が続きます。
 
「東海道松並木」。 

解説板。

【東海道の松並木】
 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
 松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。
 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。

【小陶綾(こゆるぎ)ノ浜】

 『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(よろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
 万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。
 平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。

     環境庁・神奈川県

「こゆるぎの浜」への案内板に誘われて向かったが、「西湘バイパス」を地下道でくぐったその先だったので、断念。

 
 見事な景観。道路は車が激しく行き来しているが・・・。

松涛庵。お蕎麦屋さん、ここでお昼のお蕎麦。

 
 植樹してあるクロマツの中で一番背が高い松。高さ25㍍、樹齢150年。

 一方で、枯れてしまった古木。
 

 この切り株は、1994(平成6)年11月、樹齢217年で松の天敵のマツクイムシにやられてしまったそうです。

 松並木も終わって、ひたすら東海道(国道1号線)を西に向かう。

「日本橋から69㎞」との標識。

「伊藤公滄浪閣之旧蹟」。
 今は、結婚式場と中華料理の大磯プリンスホテル別館滄浪閣としてあるが、元々は伊藤博文の居宅。

 さて、しばらくは国道1号線をひたすら歩きます。



 「関東ふれあいの道―大磯高麗山コース―」。
 かつて、職場のOBたちと「湘南平」に行ったことを思い出した。


 「切通し橋」(この下に流れる川の名は「血洗川」というおどろどろしい名前)を越え、「城山公園前」という三叉路を右に上って「大磯城山公園」方向に向かう道が旧街道。



「県立大磯城山公園」。
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大磯港。「松本順謝恩碑」。鴫立庵。・・・(平塚から二宮まで。その3。)

2014-10-07 21:11:19 | 旧東海道
 「照ヶ崎海岸」。シーズンオフで静かな海辺。バーベキュー一組と老父婦らしき一組くらい。大磯港の防波堤では釣り人が釣りを楽しんでいる。

 

「大磯港」防波堤より平塚方向を望む。

「高麗山」に続く大磯の山並みを望む。

江ノ島(↓)を望む。

 「松本先生謝恩碑」(犬養毅 題)。

「海水浴場発祥の地」

 明治18年天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に日本で最初に海水浴場を開いた軍医総監 松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館に泊まらせ海水浴をさせて 大磯町の名を日本中に広めました 昭和59年6月24日
 親しまれて百年 逢いに来て 大磯の夏

 
「祷龍館繁栄の図」。                       「明治中期から後期の海水浴場」。

(以上、HPより)


 1885年(明治18年)初代軍医総監だった松本順氏は、日本人の健康を高めるために西洋で流行っていた「海水浴」を日本に取り入れました。
 当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことで、「泳ぐ」というのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまって「海水につかっている」だけだったそうです。
 海水浴の始まりは、治療のためでした。心身共にリフレッシュできる海水浴。開放感溢れる海で、夏を満喫してみてはいかがでしょうか。


(以上、HPより)
 
 ところが、倉敷市のHPでは「日本最初の海水浴場 沙美海水浴場」と紹介されていました。

 日本で最初に沙美海水浴場を開いたのは健康のために海水浴が良いとの「医師坂田待園」の考えに共感した吉田村長が協力し漁師たちを説得して実現しました。「村長吉田親之君碑」が番所山のふもとに建立されています。

(以上「倉敷市」HPより)

 というわけで、はたしてどこが「日本初の海水浴場」か? 

「アオバト」の集団飛来地としても有名。アオバトは海水を飲むらしい。

 ちょっと見つけられなかったので、「大磯観光協会」のポスターを拝借。



 西湘バイパス下の標識「太平洋岸自転車道」(↓)。スケールが大きい。


 再び、「国道1号線」に戻って、しばらく行くと、左手に「鴫立庵」があります。入口の手前には、しゃれたお店がありました。


 
「鴫立庵」。                              「鴫立沢」。

 

 寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に“著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地と注目を浴びています。
  こころなき 身にもあはれは 知られけり 
     鴫立沢の 秋の夕暮れ  (西行法師) 

正面のお堂は、「円位堂(西行堂)」。

 
「俳諧道場」。
 齊藤寛之氏の作品が展示されている。古代の船にかかる白い帆(あるいはちぎれ雲かさざ波か)に煌めく光の淡い変化・・・。不思議な空間を醸し出している。 

「鴫立沢」標石。
 この裏に「著盡湘南 清絶地」と刻まれていて、これが「湘南」という言葉の始まり、とか。(ただし、この標石は複製で本物は大磯町が保存しているらしい。)
 また、この地域―鎌倉から西側―を「湘南」と名づけられた由来には諸説があるようだ。 

 

 芭蕉(と弟子達)句碑(円筒形の珍しいもの)、西行銀猫碑、佐佐木信綱自作歌碑、比翼塚、歴代庵主の墓碑など庭には90近くの石像物が存在していて、数々の興味深い石碑が所狭しと建っていて、飽きない。

 

 
 外に出ると、葬儀場施設建設反対の幟が。「鴫立庵」と大磯町役場との間に建設されている。その先には、「跡地の黒松を守れ」の幟も。自然環境、地元住民の住環境との調和が難しい昨今ではある。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下、岩礁のある付近が「照ヶ崎海岸」。


1970年代のようす(「同」より)。
 「大磯港」の建設、「西湘バイパス」の完成によって、海岸が狭くなって、海水浴場の中心が西方に移っていく。40年以上経過した現在、海岸線にはそれほど変化は見られないが、陸地は一段と緑が少なくなっている。↓が「照ヶ崎海水浴場」碑が建っているところ。国道1号線と旧東海道との分岐点付近。

現代。(「今昔マップ」より)。
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小島本陣旧蹟。新島襄終焉の地。照ヶ崎海岸。・・・(平塚から二宮まで。その2。)

2014-10-06 21:01:09 | 旧東海道

 今日は、台風直撃で大荒れの天気。午前中の東京地方。雨風が激しくなりました。
 この地域もさぞかし・・・。先日の探訪記を続けます。

 旧東海道の道に沿って建てられている住宅。松並木を借景として、なかなか趣ある静かな街並みになっています。

 

 「国道1号線」と再び合流する、旧東海道・松並木の西のはずれ近くのお魚屋さん。お昼前、大勢のお客さんで賑わっていました。

 
 「魚金」。店先には、地元の新鮮な魚の干物がずらり。

「東海道」。

 現東海道に合流してしばらく進むと、「大磯駅入口」交差点。その先の左側にあるのが「延台寺」。

中央左の奥。
 元は「法虎庵」と称した虎御前の草庵。寺には曾我十郎の「身代わり石」とされる「虎御石」がある、とか。

「北組問屋場」跡。

 
 「大磯宿小島本陣旧蹟」碑。
 大磯宿には本陣が三ヶ所(小島本陣、尾上本陣、石井本陣)あり、脇本陣はなかった。
 この「小島本陣」は、明治元年(1868年)10月9日、明治天皇の東京遷都にあたり、宿泊所になった、という。

説明板。
 大磯では、「東海道分間延絵図(寛永年間)と現在の図を重ね合わせた説明板が随所に立てられている。

その説明板がある「そば処 古伊勢屋」の古風な雰囲気。。

  
 「地福寺」境内にある「島崎藤村の墓」。梅の古木の下にあり、その左隣には静子夫人の墓。

「尾上本陣」跡。
 後に「大磯小学校」の旧敷地にもなった。

旅館「大内館」。左手奥に「土蔵造り」の建物が見える。
 「本陣」の一つ、「石井本陣」は、現在の「大内館」にあった、という。

 「杵新」。
 「大磯名物 西行まんぢゅう 虎子まんぢゅう」とあった。

日本橋まで68㎞。
 東海道を挟んで緑の地が「新島襄終焉の地」。旧東海道はその裏の道を通る。

 



 明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
 その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中、病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。

 徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられた。

 その裏手(旧東海道沿い)には「南組問屋場」跡の説明板。



 角のところに大きな碑。
 
 「大磯照ヶ崎海水浴場」。旧東海道から左手に進む。

 海岸への道の途中には、

「原敬 大磯別荘」跡。



 「西湘バイパス」の下の歩道橋の向こうには海岸が広がる。間近に海を見るのは、今回が初めて。かつての「旧東海道」は、品川、横浜付近など東京湾沿いの道、海岸線に沿っていたが、今は、海は望むべくもなくなった。ここに来てやっと、という感じ。正面は「大磯港」。



 左手に「照ヶ崎海岸」が広がる。


 照ヶ崎海岸
 明治18年(1885年)に初代海軍軍医総監・松本順の尽力により、東日本最初の海水浴場として開設された。
 
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化粧坂。「大磯虎ケ雨」。松並木。江戸方見附。・・・(平塚から二宮まで。その1。)

2014-10-05 20:22:46 | 旧東海道

 このあいだ、台風が来る前にでかけました。平塚・花水橋からスタート。高麗山が印象的。JR「平塚」~「二宮」。

「平成の一里塚」。橋のたもとに設置されている。あちこち作られているわけでなく、ここだけの感じ。紛らわしくなってしまいそうだが、そういえば「茅ヶ崎」にもありました。ただし、もともとあった一里塚跡のほぼ反対側の交差点に。

左手の山が「高麗山」。その山麓にあるのが「高来神社」。明治の廃仏毀釈で神社として成立。音では「こうらい」だが、読みは「たかく」と。

日本橋から66㎞。

国道1号沿いに残された藁葺き屋根の家。
小さなお堂。「虚空蔵」。
 説明板によると、虚空蔵のお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていて、大名行列もここで下馬し東照権現の併祀された高麗寺(神仏混淆の頃)に最敬礼して静かに寺領内を通った、という。
また「御料傍示杭」があり、高麗寺村と大磯宿との境を示す高さ約三㍍の杭があったらしい。

右に入る道が「化粧(けわい)坂」。こちらが、旧東海道。

 
 「化粧坂」の両側は、静かな住宅地で、生活道路になっている。車の行き来の激しい1号線とは大違い。

 まもなく左側に「化粧井戸」。

  

 「説明板」

 「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。

「一里塚」跡。
江戸日本橋より十六里。海側に榎を山側にせんだんを植えた、という。

海側(左手」が小高くなっていたので、行ってみたが特になし。そこから街道を見おろす。

「安藤広重・東海道五拾三次之内・大磯『虎ケ雨』」。

説明板。

 本図は初代歌川広重が天保4年(1883)頃に制作した浮世絵『東海道五三次大磯虎が雨』です。
 空は鼠色に曇って秋雨が降る仲、大磯宿堺の榜示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬ので行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れて寂げです。 画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸とで磯の松、その向こうに広がる相模灘。
 水平線近くの沖合が白く明るく見えるのも、海岸でよく見る風景です。
 大磯の海岸は、「万葉集」にも詠われた「よろぎの浜」、「古今集」でも、「こゆるぎの磯」とよばれる歌枕の景勝地です。また、この辺りは鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名です。
 また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曾我十郎と大磯の廓の遊女・虎(虎御前)が、仇討のため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦五月二十八日、曾我十郎が命を落とした悲恋物語の曾我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったといい、そこから梅雨時のしとしとと降る雨を「虎ヶ雨」とも呼ばれます。いうのである。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由縁する伝説の情趣でしょう。
 画題横に『虎が雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています。



 大磯では5月28日に虎御前の涙雨が降ると云われているそうだ。
 子供の頃、曾我兄弟の仇討ちの話はよく見たり聞いたりしたことがありました。富士の裾野巻き狩りの場面など、絵本のようにしてあった・・・。
 今の若者は知らないでしょうね。

 曾我兄弟の仇討ち

 建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていたことが窺える。

 所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
 祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。

 その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
 文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
 箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
 翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。

 この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。

 工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。

 この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。(以上、「Wikipedia」より)

「大磯八景の一 化粧坂の夜雨〕の碑。

 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音ばかりして 敬之

《大磯八景》
 大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書として出版したのが始まりです。
 その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
 現在は、「小淘綾(こよろぎ)の春嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」「花水橋の夕照」「唐ヶ原(もろこしがはら)の落雁」「化粧坂の夜雨」「鴨立沢の秋月」「照ヶ崎の帰帆」「富士山の暮雪」の7景が現地に残っています。「歴史と緑の散歩路パンフレットより」

化粧坂を振り返る。
 
小休止。


 東海道線をくぐります。
 

 
 「大磯江戸見付跡」「御料傍示杭」。

 ここが、江戸方の宿入口となっていた。石垣(高さ約1.6m)の上に竹矢来を組む。「御料傍示杭」は、大磯宿北組のはずれを示すもの。
 
 松並木が地域とマッチしてすばらしい。
 
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