おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小村井・「香梅園」。ちょっと時期が早いか。それでもメジロが蜜を吸いに。2月12日(土)。

2022-02-13 17:25:17 | 世間世界

東京地方。今年の梅の開花は例年より少し遅いようです。小村井・香取神社にある「香梅園」もそんな印象。

それとも、こちらがせっかちなのか。

梅によっては、まだまばらな咲き具合。それでもメジロが数羽、満開の梅の花の蜜を吸いに来ていました。

   

           遠くにスカイツリー。

 

 

                                      小村井梅園の由来」解説板。(昨年の画像)

小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸511番に3千3百坪の広さを持ち、切り絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。

園内には、築山や池に名石が組まれ、東西に亘り松の大木が二列に立ち並び、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣り堀もあり、花菖蒲に秋の七草と多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には、「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり その傍ら梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の花を穿つ 実に新香の梅屋敷にも倍勝景・・・」と記されています。惜しくも明治43年の大水で廃園となりました。面影を偲び、此處にその由来を記して記念とします。

                        平成二年九月吉日 平成二年度世話人

恒例の「梅まつり」は、2月19日(土)から。またその頃に来てみます。

湯島天神は2022年2月8日(火)からですが、少し早いのでは・・・。

ところで、今年も「向島百花園」は休園中。これで3年連続で梅の季節は×。他の都立公園と同様に一律で閉園、というのは、どうも。

「門前市を成す」というほど混み合うわけではないのに。何とかできないものでしょうか?

東京地方。今日も朝から雨模様。夜には雪に変わるとか。

昨日は、コロナワクチンの3回目の接種。葛飾区立石にある某(有名な)小児科医院。「香梅園」に行く前に。

ジジババが集まってきて普段とは雰囲気が違う。勿論、小児科にかかる小さな子どもたちも診察に来て受付はけっこう忙しそう。

「ここははじめてですか? お名前を確認できるようなものはお持ちですか? 」

1回目、2回目は葛飾区保健所で接種した。今回、たまたま枠があったので、滑り込みセーフ、というわけ。ちょうど2回目の接種から8ヶ月目でした。3回とも、ファイザー社製のワクチン。

年寄り、あまり小児科には縁がない。受付の看護師さんたちが親切にテキパキと処理してくれます。

ジジババが杖を突いてやってきたり、介護の方と一緒に。

時間帯毎に、対象者が呼ばれて注射、待機とスムーズに流れていきます。

80人に1人が感染しているらしいから、今さら、という感じもしないわけではありませんが、こうして無事終了。

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その6。野田スポーツ公園。海から100㎞。キッコーマン醤油。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-12 20:19:55 | 利根川を歩く

のどかな田園風景。

もう少し利根川寄りの道もあるようですが、バス通りを進みます。

  

右に曲がると、いきなり前方が開けてきて、利根川の土手になります。正面に筑波山。

       左がスポーツ公園、右がゴルフ場とグランド。

     

ゴルフ場は「野田市開発協会」の管理施設で、隣接する「野田市スポーツ公園」の施設として運営されています。

「市民特割」、「市民デー」、「レディース&シニアデー」などが「パブリック」という趣旨に沿った催しがあるようです。

河川敷の「ひばりコース」、丘陵の「けやきコース」の二つがあります。

「ひばりコース」。

    「けやきコース」。

左側に「スポーツ公園」広場。

土手を望む。

「海から100.0K」。

河口(銚子港)からようやく「100㎞地点」に到達しました。もう少し感動深い標識かと思いましたが、・・・。

下流方向を望む。

少し先まで歩こうと思いましたが、強風にあおられてここで断念。

    「海から100.5㎞」。

「スポーツ公園」に戻りましたが、風をよけるような施設はなし。親子連れは元気に遊び回っています。テントがいくつか張られ、風よけには抜群、でも小生は、・・・。

こうして「まめバス」をひたすら待ち続けました。

ところで、

この付近、利根川をはさんで対岸も野田市になっています。かつての流れに沿ったかたちです。

                                          

2010年代のようす。右側の三日月状の部分が旧利根川の流路で、現在も野田市になっています。

      

1880年代のようす。大きく右に迂回している。

点線が「北相馬郡」(現茨城県常総市)と「東葛飾郡」(現千葉県野田市)との境。         

長い時間待って、午後4時半過ぎのまめバスに乗り、ようやく東武線「野田市駅」まで。

駅の周囲は「キッコーマン醤油」の工場や関連施設。

遠くに見えるのは、「もりのゆうえんち」の観覧車。

    

野田市といえば、醤油。醤油と言えば、

キッコーマンしょうゆの歴史

しょうゆの郷(ふるさと)で生まれたキッコーマン

キッコーマンのしょうゆづくりの始まりは、江戸時代初期。現在の千葉県野田市で、江戸へのしょうゆ供給地としてその礎を築きました。野田は、関東平野に育まれた良質な大豆と小麦、江戸湾の塩など、原料の確保に最適の土地でした。また、潤沢な水と気候、江戸川の水運にも恵まれ、しょうゆのふるさととして大きく発展と繁栄を続けます。

そして1917年、野田のしょうゆ醸造家一族が合同して設立したのが「野田醤油株式会社」。キッコーマンの前身となる会社です。

野田醤油株式会社は、恵まれた地の利に安住せず、各醸造家の秘伝の技と知恵を結集し、その技術力と団結によって、より高品質で安定したしょうゆの供給をめざしました。設立当時は200以上あったしょうゆの商標も、1940年までに「キッコーマン」に統一され、現在に至るまで、六角形に「萬」の字のマークは「キッコーマン」ブランドのおいしさと品質の象徴として受け継がれています。

 
 

妥協なき品質の追求

日本の伝統調味料として、食卓にすっかりとけ込んでいるしょうゆ。だからこそ、キッコーマンは、その品質を大切に守り続け、一方で、さらなる品質の向上にも努めてきました。
第二次世界大戦とその混乱期には、著しい食糧難から、従来の高品質な本醸造しょうゆをつくることが困難になりました。そうした中でも、変わらぬ品質へのこだわりをもち続けたキッコーマンは、国内の需要をまかなえる新しい技術を開発し、日本の食文化の伝統である本醸造しょうゆを守り抜いたのです。日本が豊かになり、しょうゆ市場も成熟しつつあった1980年代後半、市場を活性化すべく、キッコーマンは新たなしょうゆの開発に乗り出します。

めざしたのは、「特選しょうゆの品質を超えるしょうゆ」でした。そこで、原料に丸のままの大豆を使う伝統的な醸造方法が採用されたのですが、大量生産がむずかしく、高コストという課題がありました。しょうゆのトップメーカーとしてキッコーマンは、品質がよいのはもちろんのこと、多くの方に納得いただける適正な価格でなければならないという考えのもと、高品質と生産性の両立をめざして、何度も技術改良を重ねました。そして1990年、より深みのある味わいがリーズナブルな価格でお求めいただける『特選丸大豆しょうゆ』が発売されました。家庭用しょうゆに新たな定番を送り出したのです。・・・

(この項、「」HPより)

もう一社忘れてはならないのは、「キノエネ醤油」。

時代を遡ること、190年。キノエネの歴史は、天保の時代の幕明けとともにはじまりました。以来、一世紀半の歩み。社会の変動、環境の変化、予期せぬ天災、幾多の障害を乗り越え、一筋に貫いてきたことはしょうゆづくりにかける一途な情熱と信念、そして努力。現在も変わらず守り続けるその姿勢。育て、守り続けているところに伝統の心があるのです。

’この項、「キノエネ醤油株式会社」HPより)

こうして、銚子、野田と醤油醸造の二大拠点を訪れました。

あと2回で栗橋(上流編で歩き始めたところ)に着けそうです。

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その5。クリアビューゴルフクラブ。大利根温泉。道標。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-11 20:24:19 | 利根川を歩く

          利根運河の水門を回り込み、利根川の土手に。

標識を見ると、河川管理境界が「国土交通省 利根川上流河川事務所 目吹出張所」に。管理境界からすると、ここからが上流ということに。

右手にゴルフ場が広がっています。「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」。

        

ゴルフ場脇の道を進む。

「海から97㎞」ポスト。

「海から97.5㎞」。

この先で土手の道は途切れてしまいます。

振り返る。

ホテル脇の道を通って「県道7号線」へでます。しばらくは県道歩き。

このホテルは、宿泊してのゴルフや打ち上げの会場としても利用されているようです。

野田市まめバス停留所「大利根温泉」。

1958年(昭和33年)、住宅用ガス供給のために天然ガスを採掘したところ、温泉が湧出した。

1964年(昭和39年)に地産が経営に乗り出し、温泉プールやゴルフ場が併設するレジャー施設「大利根温泉チサンセンター」が開設された。1972年(昭和47年)には、後に「チサンホテル大利根」となる宿泊施設も誕生した。

しかし1980年代には源泉が枯渇し、現在は温泉の提供はしていない。

地産の経営破綻により、チサンホテル大利根は2005年(平成17年)10月11日に、ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ系列の「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」となった。

ただし、ホテル前のバス停留所名は依然として「大利根温泉」となっており、当時の名残をとどめている。

(この項、「Wikipedia」より)

野田市の「まめバス」の経路になっていて、「野田スポーツ公園」を通りますが、土・日・祝は午前1本、午後2本。午後は、12時43分をのがすと、次は16時31分。

ということは、「野田スポーツ公園」は16時40分くらい。公園でけっこう時間をつぶさなくては・・・。休憩施設などがないとオオゴト。

※「チサンホテル大利根」の後身が「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」。

県道を歩き始めます。

            「野田スポーツ公園」まで、バス停の数では7つ。

 

沿道には田畑などが広がり、大きなおうちも目立ちます。

「福田郵便局」の角を右折します。そのまま県道を進んでしまうと、方向違いに。

「野田市立福田第一小学校」を過ぎた角に道標など石塔がたくさん置かれています。

   

左「下総国葛飾郡保木間 流山・東京道」    右「 右木野崎 左瀨戸・柏」  

※どちらも明治以降の道標で、右は明治10年建立、大正9年再建とあります。明治前の古い石塔もありますが、この付近の道路整備等でこうして一ヶ所に集められたようです。

※現在の「流山 東京道」=「流山街道」は、東武野田線の西側を通る道。「木野崎」は北西一帯、「瀨戸」は南東地区に当たる。

分岐点を振り返る。

左手にゴルフ場の一角が見えます。

  「野田市パブリックゴルフ場 けやきコース」。

この付近の今昔。

1880年代のようす。○が道標などがある地点。利根川はもっと右の方になる。

2010年代のようす。上にゴルフ場。以前からの道筋が残っている。

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その4。つくばエクスプレス。利根運河。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-10 20:20:39 | 利根川を歩く

               鉄橋を電車が通り過ぎていきます。

鉄橋をあっという間に通過。

   「守谷駅」(茨城県)に向かう電車。けっこう早い!

「柏たなか」駅に向かう電車。

      

正面遠くに筑波山。         

つくばエクスプレス

最高速度130 km/h(通常125 - 129 km/h)と高速で運転を行っており、秋葉原駅 - つくば駅間58.3キロメートル (km) を最速45分(快速)で結ぶ。全線で自動列車運転装置 (ATO) による自動運転を行い、運転士は乗務するが、車掌は乗務しないワンマン運転を実施。全駅に可動式ホーム柵を装備するなど、自動化技術を多く採用している

2005年平成17年)8月24日に開業。関東地方の主要幹線の中では最も歴史が浅く、既成市街地の地上における用地買収を避けて約25%の区間が地下に建設された。起点側の秋葉原駅 - 八潮駅間は南千住駅から荒川橋梁(北千住駅 - 青井駅間)までを除いて地下線であり、終点のつくば駅も地下駅となっている。地上区間は全て高架または掘割構造であり、踏切が存在しない

               (この項、「Wikipedia」より)

(「」より)

つくばエクスプレスは、現在、秋葉原駅が起点ですが、これを東京駅まで延伸する計画があるようです。また、「茨城空港」まで延ばすという計画も。

まだ乗ったことがありません。

すぐ上流に「常磐自動車道」。

「海から95㎞」地点。

明治乳業守谷工場。

併設されている「明治なるほどファクトリー」。

牛乳・乳製品のことや、乳酸菌の働きなどを楽しみながら学ぶことができ、いろいろなヨーグルトの製造ラインを見学できます。

先に進みます。

正面に利根運河の水門が見えてきます。

右手の河川敷にはゴルフ場が見えてきます。その対岸に「鬼怒川」の合流点があるはず。

振り返る。

「利根運河」水門。

             

利根運河

 

「利根運河遊歩公園」。

                      解説板。利根川から江戸川までの水路が示されています。

利根運河

千葉県柏市流山市野田市を流れる、利根川江戸川をつなぐ一級河川運河(人工河川)。日本初の西洋式運河である。全長は約8.5キロメートル。明治時代の開削と前後して、東京湾に直接乗り入れる汽船鉄道が整備されたため、太平洋戦争前には舟運の役割はほぼ終えている。現在は行楽地となっており、利根運河にちなんで命名された東武野田線運河駅周辺には、流山市立の運河水辺公園利根運河交流館、工事の中心となったオランダ人技師ムルデルの顕彰碑、大阪・通天閣のものと似たビリケン像などが整備されている過去の経緯から、現在の水量の割には土手が広大となっている。特に東京理科大学野田キャンパス最寄駅の運河駅付近は、春には見事な並木を見ることができる。

        

歴史

1890年(明治23年)2月25日に通水、同年3月25日に通船、同年6月18日に竣工式を開催した。工事期間中、ムルデルは、近隣の民家に泊まりこみ陣頭指揮にあたっていたが、完成の一カ月前に雇用期限が来たため帰国せざるを得なかった。このため式典ではムルデルの祝辞(訳文)が代読されている

1915年(大正4年)の利根運河
 
利根運河を越える千葉県営軽便鉄道の列車(大正時代)

太政官布告に基き、原資償却を目的に、使用料の徴收を内務省が免許し、1887年(明治20年)11月から1949年昭和24年)3月までの免許を、利根運河株式会社は保有していた。

利根運河株式会社の本社は、江戸川口の深井新田に置かれ、利根川口の船戸と、江戸川口の深井新田に、通航料を徴収する収入所が置かれ、付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並んだ。利根運河株式会社は、運河大師の勧請や桜並木の植樹等を行い、運河の観光地化を図り、現在の流山街道付近から江戸川口まで店が並び賑わいをみせた。

1891年(明治24年)の舟運は年間約37,600隻で、1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

1896年(明治29年)12月25日日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。

(この項、「Wikipedia」参照)

「流山市観光協会のブログ」より

流山市は都心から25km圏の千葉県北西部に位置し、利根運河や江戸川が織りなす美しい自然をはじめ、かつて白味琳発祥の地として栄えたことから、今も歴史薫る風情ある町並みが残されています。そんな流山の魅力や周辺のあれこれ…イベント情報等を発信します。

利根運河」全体MAP。            

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隅田公園。2022。梅めぐり散歩道。スカイツリー。早春賦。

2022-02-09 20:19:24 | 隅田川

そろそろ梅の季節。隅田公園の梅はどうかしら? と。昨日(2月8日)夕方、立ち寄ってみました。

       

梅めぐり散歩道 梅と日本文化
 梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
 梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
 江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。

ここには、2019年から毎年訪れています。

一昨年は2月6日、去年は2月3日。今年は例年に比べ、開花が遅いように感じましたが・・・。

2020年2月6日。



                    

2021年2月3日。

スイセン。

        

※去年は、2月4日に「春一番」。例年よりもずいぶん早かった。

さて、今年は?

      

  

午後4時頃。すでに西側の高層ビルの陰になってしまい、日差しも今ひとつ。ちょっと明るさが足りなかったかな。

      

まだ蕾のままの木も。

       

           

明日は、警報が出されるかも知れない、雪模様。

「春は名のみの 風の寒さや。谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず。 時にあらずと 声も立てず。」(吉丸一昌作詞・中田章作曲)と『早春賦』で歌われる如くの日が続きそうですね。

※「早春賦」

長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌っている。(「Wikipedia」より)

※吉丸一昌

1873年9月15日 - 1916年3月7日)は、日本の作詞家文学者教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭東京音楽学校(現在の東京芸術大学教授大分県北海部郡海添村(現臼杵市海添)出身。

旧制府立三中(現両国中・高校)の校歌の作詞者でもあります。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃か
 
 歌詞の「春は名のみの」とは、暦の上での立春のこと。「立春」は、冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが暦の上での「春」となります。節分がその冬と春の境目の日。

作曲者の中田章さんは、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などで有名な中田喜直のお父さん。

隅田公園内「花」碑。

 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂のしづくも花と散る  ながめを何にたとふべき・・・

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その3。柏市サイクリング道路。田中調節池。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-08 20:17:57 | 利根川を歩く

              「柏市サイクリング道路」となります。遠くに柏市の街並み。

風が冷たい!

振り返る。新大利根橋。

「海から91㎞」。

            

サイクリング道路らしく何人も通過。

田畑の中にこんもりした森の一画。

                    何かいわれがあるのでしょうか?

舗装道路で歩きやすい。 

遠くに高層住宅(柏市)。  

「海から92㎞」。   

           遠くに「つくばエクスプレス」の橋脚が見えています。   

ラジコン飛行機が。

視界が広がる。

田中調節池。 

田中調節池は、鬼怒川の合流点にある菅生調節池とともに1926年(大正15年)に鬼怒川改修計画の一環として立案、1960年(昭和35年)に概成した。調節池の敷地は、昭和初期の段階で湿地沼沢地であったが、第二次世界大戦後は食糧難から開拓が進むなど土地利用が進んだ。このため調整池の計画も調整を余儀なくされた歴史がある。その後、利根川の対岸に完成した稲戸井調節池と合わせて利根川本流の調整機能を支えている。 2019年10月の令和元年東日本台風(台風19号)による出水時には、田中調節池内の農地が完全に水没する水量を引き受けるなど、他の2調節池(菅生調節池と稲戸井調節池)とともに東京ドーム約72杯分と過去最大を調整量を記録した。(「Wikipdea」より) 

菅生調節池:今回の終着点・「野田スポーツ公園」の対岸(利根川左岸)にある調整池。野田市に属する。

以下は、「日本農民新聞」の記事です。

台風19号と水田(2019年10月16日)

 今回の台風19号では、千曲川、阿武隈川などの大河川をはじめ各地の多く河川で氾濫、決壊、或はダムの緊急放流などの事態が発生し、大きな被害が発生した。広い範囲での短時間の降雨量のもの凄さに驚く。・・・この地に独特な事態を目の当たりにした。
 台風19号が12日の夜半に通り過ぎた利根川流域の千葉県柏市~我孫子市にまたがる広大な水田地域では、雨の降り止んだ翌13日の朝から利根川の水が溢れ込みはじめ午後には水田や道路や電柱、ハウス群などすべてが水没して、見渡す限りの湖のようになった。遠くに筑波山がくっきり見えて、昨日までとは全く違う景観が出現した。これは利根川の治水システムの一環として設定された調節池(遊水池)で、利根川を挟む堤防の一部を低くして洪水の水位がそれ以上に高まる分を人為的に溢れ出させ、人の生活圏を護るもう一本の堤防との間に水をためることによって、下流の氾濫や破堤への圧力を減じる仕組みが作動したものである。ここは田中調節池(11・75㎡)と呼ばれるが、対岸の稲戸井調節池(4・48㎡)、少し上流の菅生調節池(5・92㎡)の三か所の調節池がこのように機能する。
 水稲の収穫は既に終わっているが、ここ数年来増えたハウス群やその他の施設が水没して農業被害が発生しているであろう。洪水が発生すれば水没するのが当然の治水システムに位置づけられた地域であるとは言え、収穫以前に洪水に対処せざるを得ない事態も想定され、具体的な補償の仕組みがどうなっているのか気になるところだ。
 忽然と現れた広大な濁水の湖を眺めながら、一頃よく見聞きした「水田のダム機能」という言葉を反芻していた。今回の台風がもたらした記録的な豪雨が主たる原因であるとしても、多くの地域で氾濫、決壊等が発生した原因の一面には、中山間地域等での耕作放棄による水田のダム機能の全体的な弱体化があったのではなかろうか。そして、まさに臨時的なダム機能を果たしている眼前の水田のような農地の存在を含めて、改めて国民的な再認識を促すことが重要であろうと思った。(N)

こうした広々と広がる、のどかな田園風景も、洪水・水害による生活圏(市街地)の被害を防ぐための重要な役割を担っているのです。水没時の写真を見ると、湖が出現したかのような一変した景色になっていました。

「田中調節池」の今昔。

                                                                                                                             

2010年代のようす。下方に市街地が広がる。上が田中調節池。     1880年代のようす。湿地帯と畑(微高地)。

 

河川敷には緑の絨毯(牧草)。

       

  ここにも菜の花。

「海より93㎞」。

「海から94㎞」。

        正面に「つくばエクスプレス」の高架線。

                 

       

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その2。菜の花。新大利根橋。七里ヶ渡の碑。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-07 20:13:59 | 利根川を歩く

                       遠くに筑波山が頭だけのぞかせています。

我孫子市方向。

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。一帯は湿地・沼地でした。

                     2010年代のようす。整然とした田畑。

      上部に「田中調整池越流堤」。

前方左手に「新大利根橋」が見えてきます。

砂利道に。

利根川が河川敷の向こうに。

ハウス栽培。

前方左が柏市方向。

ラジコン飛行機を飛ばす準備。

「海から89㎞」。

足もとの土手には菜の花がさきはじめています。この先、斜面には菜の花(もしかしたら「セイヨウカラシナ」? )が群生しています。本格的な開花にはまだ先のようですが。

          満開には見事な菜の花の群生に。

菜の花を見ようと、少年達の歓声が聞こえる河川敷の野球場の手前で土手を下ります。

前方に「新大利根橋」。

    

荒川を遡る。熊谷桜堤は、ちょうど菜の花とサクラの共演のときでした。

4月3日(土)。

        

今回はどの付近の歩きで見ることが出来るか? 

ハウスが並んでいます。    

この付近は水没しない? と思っていましたが、この付近も「田中調節池」の一部のようで、台風・豪雨の時には冠水してしまう場所です。 

新大利根橋。

         

橋のたもとに。

七里ヶ渡跡

七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。

江戸幕府は元和2年(1616)8月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治13年作成の迅速測図、昭和31年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。

幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかたこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には5軒の旅籠があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。

七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を下ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようになりました。

明治23年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、利根運河を通じて江戸川に出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和30年頃まで続けられました。

利根川上流河川事務所

・・・今、このあたりは広々とした田園風景に包まれていますが、その昔は七里ヶ渡しといって、とてもにぎわったと渡船場でした。
なにしろ、ここ布施には、関東三弁天のひとつといわれる有名な弁天様がまつられているのですから、近郷近在はもちろんのこと、遠く関宿や江戸の方からまでも、信者が参詣に集まってくるのでした。

七里ヶ渡しの絵「お客さん、目が悪いようだが、弁天参りかね。」

「ああ、ここの弁天さんはご利益があると聞いたもんでね。」

「福をさずけてくださるだけでなく、目の病気もなおしてくださるんか。」

「ありがたい。ありがたい。」

今日は丑の日、丑の越し番(補足)の船頭と、船に乗るお客たちが、お茶を飲んだり、たばこをすったりしながら、いろいろ世間話をして船の出るのを待っていました。

「船が出るよう。」

船頭の呼び声に外に出てみますと、回船問屋の若い衆たちが、威勢よく船荷を陸揚げしています。七里ヶ渡しは、こんな場所でしたので、回船問屋や宿が十数軒ありました。また、旅人や、若い衆相手の茶店も軒を並べ、それは栄えたものでした。

しかし、のどかで平和な日々だけが続いたわけではありません。
秋の長雨の季節になりました。今日も雨がふり続いています。

「よくふるなあ。そろそろやんでくれねえと、大変なことになるぞ。」

「今日でもう三日もふってるもんな。白馬がこなければいいが。」

村人は、利根川の増水を心配して、見回りに出かけました。このあたりは、今までに何度も何度も、この白馬におそわれています。
上流から濁流が二メートル余の高さで押し寄せるその荒れ狂う波のようすはあたかも白い暴れ馬がおそって来るようだったので、村人は『白馬が来るぞっ』といって、恐れおののいたのです。今では、広さ11.8平方キロメートルもの田中遊水地で守られていますが、このようなもののまったくなかったその昔は、どんなにおそろしかったことでしょう。

(補足)
丑の越し番 子・丑・寅・・・の十二支に合わせ、十二軒の家がそれぞれの日を受けもって、その日の越し番をしました。

(この項、「柏市」HPより)

                     1880年代のようす。「七里ヶ渡」とある。

                     2010年代のようす。

    南にある自然堤防(利根川の氾濫原)の先まで橋脚が続く。

対岸を望む。

 河川敷の舗装道路は管理用道路で立入禁止となっています。

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その1。白雪の富士。田中調整池越流堤。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-06 20:18:47 | 利根川を歩く

2月5日(土)快晴。北西の風、すこぶる強し。

「国道6号線(水戸街道)・大利根橋」からスタートです。日差しは暖かく感じますが、風が冷たい一日。

今回は「海から100㎞」地点を目指して。

    「二号排水路」。

「二号排水路」は、「利根運河」から利根川沿いに右岸の農地を通り、ここまで続きます。

左手遠くに「富士山」(↓)。

白雪の富士。

田畑が広がります。

「海から86㎞」ポスト。

ということは残り14㌔と、軽く考えていました。が、何しろ北西の風に向かって歩くのですから、けっこうしんどい!

遠く、我孫子市の街並み。

対岸は、取手市。

               白い建物は、「江戸川学園取手中学校・高等学校」?

東を望む。

しばらく行くと、土手の道は通行禁止に。その先は「田中調整池越流堤」のようです。ここまでの堤防の高さより一段低くなっていて、堤防が頑丈に造られています。

実は広大な農地は貯水池の役割も担っているのです。

治水対策はダムではなく遊水地で~田中調節池を見学~

(2004年)4月10日、千葉県自然保護連合のメンバーら7人が柏市と我孫子市にまたがる「田中調節池」を見学しました。案内してくれたのは地元の方です。
 この調節池は面積が1175ヘクタールもあり、広大です。ふだんは農地となっています。調節池に接する利根川の堤防は、一部に越流堤がつくられています。越流堤は3メートルほど低くなっており、大洪水のときに利根川から水が流れ込むようになっています。大洪水が起こると、農地が灌水(かんすい)するようになっているのです。実際に、5年に一度とか、10年に一度、灌水します。しかし、今は排水ポンプがつくられているため、灌水しても3日間ぐらいで排水できるとのことです。農地が灌水した場合は、不十分ながら、共済組合から補償金がだされるそうです。
 田中調節池は、周辺にある「稲戸井調節池」「菅生調節池」と一体となって洪水を調節することにより、利根川の下流部における治水安全度の向上を図る施設と位置づけられています・・・

(この項、「房総の自然と環境」HPより)

 

2019年の台風19号では利根川や荒川水域では大きな被害を受けました。その時、この一帯は、堤防を越境させ田畑に流し、下流への被害を少なくした、と。

せっかく丹誠込めて育てた稲などの野菜が、一瞬のうちに水没してしまうことは忍びない感じがします。

が、治水のため、莫大な費用を費やして大型ダムを造成する、それによって多くの土地が失われ、多くの住民が先祖代々続けてきた生活の場の移転を余儀なくされる事態が利根川上流でも起こっています。費用対効果などそうした施策と比較検討する必要がありそうです。

堤を下り、「二号排水路」沿いを進みます。

一羽のシラサギが。

              飛び去っていきます。

気がつくと、一般の(干拓した)田畑では、田畑の他に家屋が点在していますが、この地域には温室などの小さな工作物はありますが、家屋はまったく見当たりません。目的がはっきりしているわけです。

再び土手の道へ。

         

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立春。2月4日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス。雪解け・一茶。

2022-02-04 20:15:16 | 世間世界

                 一重寒紅(ひとえかんこう)

旧暦では、一年のはじまりは立春からと考えられていました。「二十四節気」も立春から始まります。そのため、節分や八十八夜など、季節の節目の行事は立春を起点として定められています。梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます

「七十二侯」では三分割して

・初侯 2月4日〜2月8日頃 東風解凍 はるかぜこおりをとく

暖かい春の風が、冬の間張りつめていた氷を解かし始める頃。

春先に東から吹いてくる風を「東風」といいます。東風は「こち」とも読みます。

「東風」というと、菅原道真の歌を想起します。道真が太宰府に左遷されたとき、邸の梅の花に別れを惜しんで詠んだと伝わっています。道真は学問の神様として「天神様(天満宮)」として崇められています。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(『大鏡』)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(『拾遺和歌集』)
 
※飛梅伝説
梅を愛した菅原道真が左遷で都(京都)から太宰府に送られる際、上記の歌を詠んだところ、梅が道真を慕い、一晩で飛んできたというもの。
 
菅原道真は平安時代に活躍した貴族・政治家・学者。醍醐天皇の時代に右大臣まで出世したが、その才能を恐れた左大臣たちに濡れ衣を着させられたあげく、罪人となり、太宰府という地方行政機関で謹慎し、そのまま都(京都)に戻ることなく生涯を遂げる。

その後、道真が亡くなった後、都(京都)では次々と不幸な出来事が起こり始める。疫病が流行ったり、清涼殿に雷が落ちたり、道真の左遷に関わったとされる者たちが次々と亡くなった。当時の人々は「これは道真公の祟りだ」「道真公の怨霊だ」と考えるようになり、畏怖の対象とされるように。

そこで、「菅原道真公の怒りを鎮めるためにお祀りしよう」ということになり、雷を落としたことから「雷神」、「天神」と信じられるようになった。

道真が亡くなった場所にお墓をつくり、そのお墓を祀っているのが現在の太宰府天満宮(福岡)。左遷されたまま都に戻れなかった道真を鎮魂するという意味で祀っているのが北野天満宮(京都)。

時が経ち、人々の記憶から道真の祟りや怨霊のイメージが薄れる一方で、道真は京都で高名な学者だったことも知られており、左遷後も自分の運命を受け入れて勤めに集中したといわれている。山の頂上に登って7日間篭りながら、自分を陥れた者たちへの恨みではなく「世の幸せと自分の無実を訴えるために祈り続けた」というエピソードも広まる。

そのため「恐ろしい祟りの神」から、少しづつ「学問の神」としての信仰へと変わっていった。

また、「天神とは菅原道真公のことである」という教えが広まり、「天神」=「菅原道真公」=「学問の神」という考え方が一般的になった。

(この項、「・なぜ菅原道真公は学問の神様に。亀戸天神社の禰宜(ねぎ)である大鳥居さんにお話をお聞きすることができました」参照)

「春一番」も、春の到来を告げる風。

春一番は、その年の立春から春分(今年は3月21日)までの間の最初に吹く、強い南風です。風を生ぬるく感じるほど、気温が上昇するのも、春一番の特徴です。
 
「春一番」というと、キャンディーズの歌声が浮かんできます。
 
 
               (「youtube」より)
                
 
穂口雄右作詞・作曲
 
雪が溶けて川になって 流れてゆきます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んで来ました
どこかの子が隣りの子を 迎えに来ました
もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸福(しあわせ)は来ないから
重いコート脱いで 出かけませんか
もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか
 
 
・次侯 2月9日〜2月13日頃 黄鶯睍睆 うぐいすなく

「ホーホケキョ」と、ウグイスが馴染みのある美しい鳴き声で、春の到来を告げる頃。ウグイスには「春告鳥」という異名があります。その年初めて鳴くことを「初音(はつね)」といいます。

『源氏物語』初音の巻に明石の君から姫君に寄せた歌があります。

年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ

  長い年月、姫君の成長を待ち続けている私に、今日はせめて鶯の初音を聞かせてください(お便りを下さい)。

※その年に初めて聞く「夏告鳥」=ホトトギスの鳴き声は、「忍音(しのびね)」。

江戸時代には、鳴き声から「法、法華経」と聞きなされ、「経読鳥(きょうよみどり)」という異名もつけられました。

ところで、「梅に鶯」という言い方がありますが、「梅にウグイスが来る」ということではありません。梅は春の訪れを告げるように咲き、ウグイスは春の訪れを告げる鳥として共に親しまれました。この二者は待ちわびた春の訪れを告げる理想的な取り合わせなのです。そこで、万葉の昔から「梅に鶯」の組み合わせを歌に込めました。

: 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも

: 春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に

: 鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ

: 我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ

この言葉は「梅にウグイスが来る」という内容ではありません。ウグイスは鳴き声は聞こえるが、姿を見せることはない鳥なのです。

実際、梅の花の蜜に寄ってくるのは、メジロです。「向島百花園」でたくさん梅の花にとまっているのを見たことがあります。2019年2月。

鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。


                  

写真は「Wikipedia」より借用)  

鶯は、ふみなどにもめでたきものにつくり、聲よりはじめてさまかたちも、さばかりあてにうつくしき程よりは、九重のうちになかぬぞいとわろき。人の「さなんある」といひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて、ききしに、まことにさらに音せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしがましきまでぞなく。よるなかぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏・秋の末まで老いごゑに鳴きて、「むしくひ」など、ようもあらぬ者は、名を付けかへていふぞ、くちをしくくすしき心地する。それもただ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあらめ。「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にもつくるなるは。なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。

(『枕草子』「鳥は」より)

あらたまの 年たちかへる 朝より 待たるるものは 鶯の声  素性法師

春を告げるものには、鳥のほか、魚などもあります。たとえば「春告魚(はるつげうお)」はニシン(地方によっては、メバルなど)。

昔、ニシンは春になると産卵のため大量に浜へ押し寄せることから、“春告魚”と呼ばれていました。その姿が消えてからおよそ半世紀が経ちましたが、ここ何年か「ニシンふたたび!」、「資源の復活か?!」といった文字や言葉を見聞きするようになってきました。

しかし、近年の漁獲の盛期は冬で、春になるとニシンは姿を消してしまいます。なぜ、“春告魚”が“春去魚”となったのでしょうか?

それは、昔のニシンは「北海道サハリン系群」と呼ばれるグループであったのに対して、近年になって獲られるようになったのは「石狩湾系群」というグループであるためです。(系群とは、それぞれ異なった生態を持つグループで、別々に増減します)

つまり、この2つのグループは、産卵のために沿岸へ来遊する時期が異なるのです。

4~5月に沿岸にやってくる北海道サハリン系群は、回遊の範囲がとても広く、その分大きな資源になることが出来ます。

これに対して、2~3月に沿岸にやってくる石狩湾系群は、回遊の範囲が宗谷湾から岩内湾に限られているため、それほど増えることができません。近年の漁獲量は2千トン前後ですから、残念なことに、今回の“復活”では、昔ほどの大豊漁(最高で97万トン)となることは難しいようです。

(この項、「道総研」HPより)

・末侯 2月14日〜2月18日頃 魚上氷 うおこおりをいずる

春の暖かさで湖や川の氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上に跳ね上がる頃。

 
春になって、積もっていた雪が解(と)け始めることが「雪解(ゆきどけ)」。
雪解は、特に北国の人たちにとっては、たいへん待ち遠しいものです。

雪解というと、小林一茶の句が。

雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)

50歳で永住を覚悟し故郷・信濃国柏原(現在の長野県信濃町)に帰ってきた時の句。
 
暦の上では春を迎えていても、雪国ではまだまだ寒い日が続く。
しかし、降り積もった雪が少しずつ解けはじめて、ようやく春の気配を感じることができる日がやってくる。冬の間、じっと家の中で過ごしていた子どもたちがいっせいに飛び出し、今までどこにこんなにたくさんの子どもがいたのか、と。


今日の東京地方は曇り空。あまり日差しもなく、肌寒い一日。
 
それでも、これから先は、寒の戻りはあっても、「冬来りなば春遠からじ」あるいは「冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれることを。」とあるように、春の到来、ぬくもりを感じる日も増えてきそうです。
 
そういえば、次第に日が落ちる時間が遅くなってきたような。帰宅時。西に傾く陽を浴びて影が長く伸びるようになってきました。
 
そして二十四節気の2番目が「雨水」。2月19日です。
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2月3日。節分。追儺(ついな)・鬼やらい。豆まき。鬼ごっこ。柊鰯。恵方巻き。

2022-02-03 21:21:23 | 世間世界

                  梅の花が咲き始めています。(「向島百花園」正門横)

                    左「しろかが(白加賀)」、右「ひとえかんこう(一重寒紅)」

今日、2月3日は「節分」。旧暦では1月3日。新春を迎えたばかりです。そして、明日は「立春」。

※「春節」は、中国・中華圏における旧暦の正月(旧正月)。全世界の華人にとって最も大切で伝統的な祝日。2022年の春節は2月1日(火)で、休みの期間は1月31日から2月6日までの7連休になる。

「節分」とは「季節を分ける」という意味。そのため、季節の変わり目として二十四節気の「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」の前日が節分となります。したがって、「節分」は春・夏・秋・冬ごとに4日あったわけですが、その中でも春は新年の始まりでもあることから、「節分」というと、立春の前日を指すようになりました。

この行事は、古代中国で行われていた疫病を追い払うための「大儺(だいな・たいな)」という儀式が日本に伝わって、「追儺(ついな)」として宮中の年中行事として定められ、新年の前日である大晦日(旧暦12月30日)に行われるようになりました。

追儺は「鬼やらい」とも呼ばれ、お面をかぶって衣装をつけ、神に扮した方相氏(ほうそうし)と呼ばれる役目の人が、目に見えない邪鬼を追い払うという行事でした。

※「儺」という字には「はらう」という意味がある。

 平安時代の末になると、追儺の行事が変化し、それまで鬼を追い払う役目だった方相氏が、逆に鬼に見立てられて、群臣らに追い出されるようになりました。

その後、豆を投げることが追儺に取り入れられて、「鬼は外、福は内」と唱えるようになったようです。

さらに時代が下って、現在のように立春の前日(節分)に行うようになりました。

※「立春」と「元旦」とは一致しない。

豆を投げるようになったのは、「魔を滅する=魔滅(まめ)」からだとも、 また、「魔物の目をめがけて豆を投げれば、魔を滅ぼす」ことから、「魔目(まめ)」=「豆」とも言われています。さらに、炒った豆を使うのは「射る→炒る」という語呂合わせから、と。

現在の節分の豆まきには、大豆を用いることが一般的です。

民俗学では、現在の「鬼ごっこ」の起源が、この追儺・鬼やらいにあるといわれています。

 節分の日には、豆まき以外にも、炒った豆を神社やお寺に納めて無病息災を願ったり、厄除けのために炒り豆を食べたり、最近ではあまり見かけませんが、焼いた鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺した「柊鰯」を門口に飾って邪気を追い払う風習があります。

柊鰯

柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないという(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。

奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東円にかけても、今でもこの風習が見られる。(「Wikipedia」より)

紀貫之の「土佐日記」(平安初期)には、

元日、なほ同じとまりなり。・・・おしあゆの口をのみぞ吸ふ。このすふ人々の口を押年魚もし思ふやうあらむや。今日は都のみぞ思ひやらるゝ。「九重の門のしりくめ繩のなよしの頭ひゝら木らいかに」とぞいひあへる。

※「なよし」=ボラ(鯔)。「ひゝら木」=ヒイラギ(柊)

とあるように、相当古くからの風習のようです。「鰯」ではなくて「鯔」だったようですが。

この風習に由来する言葉で、「鰯の頭も信心から」というのがあります。「一旦信じてしまえば、どんなつまらないものでもありがたく思えるということ」。かなり皮肉交じりの成句ですね。

 また、近年、節分に恵方(今年は「北北西」)を向いて「太巻き」を丸かじりすると、願い事が叶い、無病息災や商売繁盛をもたらすという行事がはやっています。

これはもともと大阪、関西地方で行われていたもの(らしい。起源は定かではない)が、広島県の某コンビニ店で「恵方巻き」と名付けて売り始め、さらに他のコンビニでも大々的に宣伝、販売されるようになって全国に広まったものです。

「節分に行う行事の変化」

2005年のデータ(2021年の性年代構成比にあわせてウェイトバックした値)と、2021年のデータを比較してみます。<マイボイスコム株式会社調べ>

  • 恵方巻きを食べる……29.6% → 39.3%
  • 豆まきをする…………57.3% → 29.6%
  • 豆を年の数食べる……39.6% → 20.7%
  • 鰯にヒイラギ……………8.4% → 4.4%
  • 何もしない……………27.5% → 40.0% 

この16年で伝統的な「豆まき」や「豆を年の数食べる」、「鰯にヒイラギ(柊)」が減少し、「何もしない」と「恵方巻き」が増えていることがわかります。

(この項、「三浦康子ー暮らしの歳時記」より)

「恵方巻き」は、かなり売れ筋の商品となり、コンビニのヒット作になったわけです。他のスーパーなどでも盛んに売られています。

ただ、食べきれないで廃棄したりなど、「食品ロス」が問題になりました。

予約制などしているようですが、今年ははたしてどうか?

ところで、「豆を年の数を食べる」ということをしたら、後期高齢者の小生のお腹はどうなることか?

今夜は、ささやかな豆まきとささやかな数の豆を食べることにしました。

平安・鎌倉から長く続く「節分」の風習は、その中身が変化しつつも残したい行事の1つです。

「追儺より四方拝につゞくこそ、面白しろけれ。晦日の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶することにてありしこそ、あはれなりしか。」(『徒然草』第19段)

「尹大納言光忠卿、追儺の上卿を勤められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ」とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事に慣れたる者にてぞありける。」

(『同』第102段)

いよいよ明日は、「立春」。

「向島百花園」。

          コロナ蔓延のため、休園中。塀越しに撮りました。    

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JR布佐駅~天王台駅。その3。小堀(おおほり)の渡し。かつての土手。大利根橋。(利根川を歩く。第15回目)

2022-02-02 21:14:09 | 利根川を歩く

                        河岸に船着き場が見えます。

「小堀(おおほり)の渡し」の幟。

近づくうちに小型船が出航、

上流に向かいます。

「小堀(おおほり)の渡し」は、茨城県取手市内を結ぶ取手市営の渡船(とせん)(渡し舟・渡し船)です。利根川をはさみ、市内中心部と小堀(おおほり)地区を結び運航しています。

現在の渡船は令和2年3月に就航しました。船体色は、東京藝術大学美術学部長の日比野克彦氏が「市の鳥、かわせみにちなんだ、カラフルで、水面に映ったときの輝き」をイメージして、デザインしたものです。

歴史

かつて利根川は、取手市の南(現在の古利根沼(ふるとねぬま))を蛇行して流れていましたが、水害が絶えなかったことから利根川改修工事(明治40年から大正9年まで)が行われ、現在の形に姿を変えました。
その結果、当時、地続きであった小堀(おおほり)地区は、利根川により分断されました。利根川の改修により、交通の不便を感じた地域住民によって渡船場(とせんば)の設置が協議され、大正3年に渡し船を出したのが小堀(おおほり)の渡しの始まりと想定されています。
その後、昭和42年には取手町営となり、平成11年に取手市営の小堀(おおほり)循環バスが運行を開始するまで、通勤・通学や、住民の日常生活の足として活躍しました。
現在では、誰もが乗船できる観光船としての役割をもちつつ、茨城県はもとより利根川下流域に残る希少な渡し船として、かつての水戸街道「取手の渡し(とりでのわたし)」の風情を受け継ぎ、今も運航を続けています。

※大正3年(1914年)に運航を始めた小堀(おおほり)の渡しは、平成26年(2014年)に運航開始100周年を迎えました。

運行航路

「小堀(おおほり)」、「取手緑地運動公園駐車場前」、「取手ふれあい桟橋」の三点間で運航しています(一周 約50分)。「小堀(おおほり)」には駐車場がございませんので、車でお越しのかたは「取手緑地運動公園駐車場前」、「取手ふれあい桟橋」からご利用ください。

              

         リーフレット。

シンボルマーク。

(この項、「」HPより)

「小堀の渡し」船着き場。

そこから土手を見上げる

利根川の下流には、現在(平成26年2月)定期的に運航している舟運事業は3事業あります。これ以外にも不定期で船舶を運航している事業もあります。

」より)

利根川中流には、葛和田の渡し(赤岩渡船)があります。

葛和田の渡し(赤岩渡船)

埼玉県熊谷市葛和田と群馬県邑楽郡千代田町赤岩の間を通る利根川の対岸同士を結ぶ渡船です。埼玉県道・群馬県道83号、熊谷館林線の代替渡船で、県道の一部として位置づけられる『県道扱いの渡し船』です。

文献には、永禄年間(1560年頃)に上杉軍の渡過に使われた記録もある歴史ある渡船。江戸時代には年貢米や参勤交代の荷物をはじめ、生活物資等の集積場としても賑わいました。明治時代の中頃には鉄道等をはじめとする交通機関が発達したため、渡船場としての機能だけが残りました。大正15年(1926年)からは群馬県が運営し、昭和24年(1949年)に群馬県から千代田町へ運営が委託されました。

(この項、「」HPより)

さらに上流には、島村の渡し 
 天明3年(1783)の浅間山の大噴火による溶岩流の影響で、烏川の最下流部の河道は利根川に変貌してしまい、島村地区は利根川の左岸側と右岸側に分断された。島村の渡しは島村地区を結ぶ渡船。

すぐ隣がゴルフ場。

左後方は「小堀」の集落。

奥に「古利根沼」。

かつての堤の盛り土。

「古利根沼」から続く土手跡。

                  奥に沼の水面が。

再び「千葉県我孫子市」に。

水田が広がる。

中央奥に土手の跡。

常磐線・上野東京ラインの鉄橋が間近に。重なるように「大利根橋」が向こうに。

    

     「東我孫子カントリークラブ」。ゴルフを楽しむ人がけっこういました。駐車場もいっぱい。

国道6号線「大利根橋」。

             現在の橋は2代目。 全長は1209mで、利根川に架かる道路橋では最も長い。

                                                                         

1880年代のようす。渡しがあった。                  2010年代のようす。右の橋は常磐線鉄橋。

橋のたもとにある「東我孫子CC」で友人の迎えの車を待ちます。

このあとは二人でビールを飲み、結局、続行せず(できず)、JR「天王台駅」から帰宅。

※石原慎太郎元都知事が亡くなった。

当時、都庁に勤めていた小生。2011年3月11日。当日は、「都議会」の開会中。石原さんがそれまで曖昧だった、「次回都知事に立候補する」という所信表明があった、そのテレビ画面を見ていた、その直後の猛烈な揺れに驚いた記憶が鮮明に残っています。その後はてんやわんやの勤務になりました。

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JR布佐駅~天王台駅。その2。日光連山。海から80㎞。古利根沼・小堀。(利根川を歩く。第15回目)

2022-02-01 22:23:15 | 利根川を歩く

                      「海から80㎞」。

新布湖排水機場」。

「少年野球場」。

遠くに日光の山々。

                   雪をかぶった「男体山」(↓)。

「我孫子市民体育館」。

「自然観察ゾーン」。

               細道があって、所々に説明板などが設置されています。

「海から81㎞」。

振り返って下流を望む。

洪水警報標。

「我孫子市 クリーンセンター」。

遠くに日光連山が(↓)。

しばらく見えなかった筑波山。

千葉らしい田園風景。

              

突然、左下の道路際に「茨城県取手市」の標識が。ここまでの道筋は、「千葉県我孫子市」でしたが。

      

           正面の道路から右側一帯が取手市になります。どういうわけ?

実は、かつての利根川の流路にあたるのが、「古利根沼」。

流路変更によって現在の利根川になりましたが、そのまま取手市の一部(小堀地区)が利根川をはさんで残っているわけです(↓)。川の付け替えが行われたことで、取手市(当時は取手町)の飛び地ができてしまったのです。

                                       (「今昔マップ」より)

また地名の「小堀」は「こぼり」ではありません。では何と読むか?

「 おおほり」です。「小」なの「大」という読みになるという不思議(地元の熱意?)。

       建物の向こうに「古利根沼」が広がっています。

        利根川に通じる水路が見えます。

]現利根川の「海から83㎞」付近」

古利根沼は大正時代中期までは、利根川の本流であり県境ともなっていた。しかし、この地域で利根川の流路が急激に湾曲していたため、台風の襲来による河川の氾濫が絶えなかった。そこで、1911年から1920年の利根川河川改修により流路を直線化し、利根川は現在の位置を流れるようになった。

その際に県境は変更されず、2015年現在でも千葉県と茨城県の県境線は古利根沼を通っている。このため古利根沼と利根川に挟まれた細長い地域は取手市取手の一部及び小堀(おおほり)として茨城県に所属している。このことによる弊害として、この地域に住んでいる小中学生は舟を使って利根川を渡り学校へ通わなければならなかった。現在は、取手駅周辺地域まで取手市コミュニティバス(ことバス)が運行されており、交通の便は改善されている。現在、古利根沼は地域住民の格好の釣り場ともなっている。小堀地区は市営渡し船である小堀の渡しによって結ばれている。また、小堀地区を循環するバスも運行されている。

(この項、「Wikipedia」より)

(「Googleマップ」より)

   

      (「」HPより)

古利根沼は、ありし日の利根川の姿と風情とを、そのまま今にとどめている貴重なところです。
改修前の利根川は、我孫子の青山から湖北の根古屋(ねごや)にかけて南側へ大きく迂回して流れ、しばしば堤防が切れて大きな被害をもたらしました。そこで明治末期に着工された利根川改修工事で河道を直線に改めた結果、このわん曲している部分が、川の流れからはずれてそのまま残り沼となったのが古利根沼です。
沼の東側は、中世の利根川を見下ろした「芝原城祉」のある丘陵へと続き、斜面の緑は昔の利根川の面影をそのまま残しています。沼の北側には、改修により茨城県取手市の飛地となった小堀(おおほり)の集落があります。小堀は、江戸時代には利根川沿岸屈指の船着場と言われ、水運の基点として栄えた有様が「利根川図志」などに記されています。
現在の古利根沼は周囲の緑に囲まれ、利根川からあがってくる種々の魚の釣り場として多くの市民に親しまれる場所となっています。

(この項、「」HPより)

取手市役所などに出かけるにもオオゴト。近くの橋は「国道6号線」のみ。

小学校、中学校も取手市立の学校に通うことに。

学校に関してはあくまでも取手市の学区になります。 小学校は取手小学校、中学校は取手東中に通学することになります。(いずれも利根川の対岸) ただ、行政側で小堀地区への循環バスを走らせています。 小堀地区と取手駅や市民センター・取手小・取手東中を結ぶバスで、無料で乗車できます。 幼稚園に関しては義務教育ではありませんので、近隣のお好きな所へ。 取手市でも我孫子市でもOKです。 ちなみに、取手市には市立幼稚園がありますが、我孫子市には市立幼稚園がありません。 我孫子市内は全て私立幼稚園で、我孫子市民ならば我孫子市からの私立幼稚園への通園補助金が出ます。 (取手市民の場合は、仮に我孫子市内の幼稚園に通園しても、通園費などの補助は取手市の基準で適用されます。)

(この項、「」HPより)

循環バスだけではありません。渡船があります。それは次回に。

小堀(おおほり)の集落。

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