(引き続きネタバレにご注意)
私見では、この「現実化されてないもの」は自我の「外」にあるという点が決定的に重要だと思う。
この「現実化されてないもの」が、自我が手出しできない領域に、シニフィアンを持たない「背後霊」のようなものとして自分にまとわりついているというイメージがしっくりくるのである(対して、フロイトの氷山の比喩だと、恰も自我と連続性があって、自我が手出し出来そうに思えてしまう。)。
そして、こういう風に考えると、「壁を作る」(=過去に復讐する)行為がいかに無意味であるかが分かるし、例えば、統合失調症における幻覚・妄想などの発生機序を上手く説明出来るようにも思われる。
ただ、依然として理解が難しいのは、「現実化されてないもの」が出てこようとする際に、本来あるべき姿(「サラとの幸せな結婚生活」)ではなく、それとは違う不気味な姿、いわばネガ(「妻の不倫」、「医師失格の烙印」さらには「針のない時計」や「棺桶に入ったイサク」など)として現れるという点である。
これについては、素人考えではあるが、① 「現実化されてないもの」はもともと言語化され得ないものであること(「サラとの幸せな結婚生活」と言語化してみたところで、その内容は空疎で抽象的である。)、② しかもこれが「活性化した死の欲動」と「自我の抑圧」という、「現実化されてないもの」に対していずれも反対方向のベクトルを持つ2つの力によって強い妨害を受けること、により反転・歪曲されてしまうからではないかと思う。
さて、イサクにおける「現実化されてないもの」は、言語化を求めて、主として悪夢=(言葉ではない)イメージという姿で暴れてきたが、これが他者の承認を受けるためには、言葉として表現される必要がある。
画家か映画監督ででもない限り、イメージをそのまま他者に伝えることは出来ないからである。
そこでイサクは、夢の内容をマリアンに「生きながら死ぬ夢だ」と言葉で表現する。
これを受けたマリアン=他者は、「(イサクは)生きながら死んでる」と指摘する。
ここで初めて、イサクにおける「現実化されないもの」(但し、その反転・歪曲された姿)が一応言語化され、他者の承認を受けた。
これが、問題解決への第一歩だったと思われる。
私見では、この「現実化されてないもの」は自我の「外」にあるという点が決定的に重要だと思う。
この「現実化されてないもの」が、自我が手出しできない領域に、シニフィアンを持たない「背後霊」のようなものとして自分にまとわりついているというイメージがしっくりくるのである(対して、フロイトの氷山の比喩だと、恰も自我と連続性があって、自我が手出し出来そうに思えてしまう。)。
そして、こういう風に考えると、「壁を作る」(=過去に復讐する)行為がいかに無意味であるかが分かるし、例えば、統合失調症における幻覚・妄想などの発生機序を上手く説明出来るようにも思われる。
ただ、依然として理解が難しいのは、「現実化されてないもの」が出てこようとする際に、本来あるべき姿(「サラとの幸せな結婚生活」)ではなく、それとは違う不気味な姿、いわばネガ(「妻の不倫」、「医師失格の烙印」さらには「針のない時計」や「棺桶に入ったイサク」など)として現れるという点である。
これについては、素人考えではあるが、① 「現実化されてないもの」はもともと言語化され得ないものであること(「サラとの幸せな結婚生活」と言語化してみたところで、その内容は空疎で抽象的である。)、② しかもこれが「活性化した死の欲動」と「自我の抑圧」という、「現実化されてないもの」に対していずれも反対方向のベクトルを持つ2つの力によって強い妨害を受けること、により反転・歪曲されてしまうからではないかと思う。
さて、イサクにおける「現実化されてないもの」は、言語化を求めて、主として悪夢=(言葉ではない)イメージという姿で暴れてきたが、これが他者の承認を受けるためには、言葉として表現される必要がある。
画家か映画監督ででもない限り、イメージをそのまま他者に伝えることは出来ないからである。
そこでイサクは、夢の内容をマリアンに「生きながら死ぬ夢だ」と言葉で表現する。
これを受けたマリアン=他者は、「(イサクは)生きながら死んでる」と指摘する。
ここで初めて、イサクにおける「現実化されないもの」(但し、その反転・歪曲された姿)が一応言語化され、他者の承認を受けた。
これが、問題解決への第一歩だったと思われる。