日本文学史序説 (下) 加藤 周一 著
「司馬の主人公は、もはや「剣豪」ではなくて、知的英雄であり、もはや架空の役者ではなくて、実在の人物に近く、幕末や維新や日露戦争の、綿密に考証された歴史的状況のなかで動いている。その小説の英雄=主人公は、私生活においては型破りで、仕事においては正確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である。管理社会のなかで型にはめられた「モーレツ社員」の分裂した夢—型からの脱出と型のなかでの成功の願望は、鮮やかにもここに反映していた。しかも読者はその小説を通じて「歴史」を知る、あるいは少なくとも波瀾万丈の小説を愉しみながら「歴史」を学ぶと信じることができるのである。」(p326~327)
加藤周一氏による司馬遼太郎作品に対する評価は、ほぼ全否定と言ってよい。
ここで引用した短いパッセージは、パーカーさんやMUJIO・ムジ男さんの「辛口の愛情」とはおそらく対極にある、「愛情なき辛口」の真骨頂である。
加藤氏によれば、司馬氏の小説に出てくる人物は「実在の人物」ではなく、「実在の人物に近い」架空の人物であり、描かれているのは「歴史」ではなく、フィクションだというのである。
そして、その読者である「モーレツ社員」は、「「歴史」を学びながら自身の「分裂した夢」が(史実として)叶えられた・叶えられる」という二重の錯覚に陥っているというわけである
これを、司馬氏本人やその愛読者が読んだら、どういう気持ちになるだろうか?
(私は司馬氏の愛読者ではないが、「殉死」はなかなかいい伝記小説だと思う。)
ちなみに、この本の帯には、「加藤周一の巨(おお)いさ・勁(つよ)さ・やさしさを読む」とあるが、かなりの頻度で「厳しさ」が炸裂している印象を受ける。
加藤氏が、例えば、村上春樹氏を手加減することなく論評していたとしたら、大変なことになっていたのではないか(「大絶賛」という可能性もゼロとは言い切れないけれど)と思うのである。
「司馬の主人公は、もはや「剣豪」ではなくて、知的英雄であり、もはや架空の役者ではなくて、実在の人物に近く、幕末や維新や日露戦争の、綿密に考証された歴史的状況のなかで動いている。その小説の英雄=主人公は、私生活においては型破りで、仕事においては正確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である。管理社会のなかで型にはめられた「モーレツ社員」の分裂した夢—型からの脱出と型のなかでの成功の願望は、鮮やかにもここに反映していた。しかも読者はその小説を通じて「歴史」を知る、あるいは少なくとも波瀾万丈の小説を愉しみながら「歴史」を学ぶと信じることができるのである。」(p326~327)
加藤周一氏による司馬遼太郎作品に対する評価は、ほぼ全否定と言ってよい。
ここで引用した短いパッセージは、パーカーさんやMUJIO・ムジ男さんの「辛口の愛情」とはおそらく対極にある、「愛情なき辛口」の真骨頂である。
加藤氏によれば、司馬氏の小説に出てくる人物は「実在の人物」ではなく、「実在の人物に近い」架空の人物であり、描かれているのは「歴史」ではなく、フィクションだというのである。
そして、その読者である「モーレツ社員」は、「「歴史」を学びながら自身の「分裂した夢」が(史実として)叶えられた・叶えられる」という二重の錯覚に陥っているというわけである
これを、司馬氏本人やその愛読者が読んだら、どういう気持ちになるだろうか?
(私は司馬氏の愛読者ではないが、「殉死」はなかなかいい伝記小説だと思う。)
ちなみに、この本の帯には、「加藤周一の巨(おお)いさ・勁(つよ)さ・やさしさを読む」とあるが、かなりの頻度で「厳しさ」が炸裂している印象を受ける。
加藤氏が、例えば、村上春樹氏を手加減することなく論評していたとしたら、大変なことになっていたのではないか(「大絶賛」という可能性もゼロとは言い切れないけれど)と思うのである。