日本文学史序説 (下) 加藤 周一 著
「従来の狭い文学概念を離れ、小説や詩歌はもとより、思想・宗教・歴史・農民一揆の檄文にいたるまでを“文学”として視野に収め、壮大なスケールのもとに日本人の精神活動のダイナミズムをとらえた、卓抜な日本文化・思想史。」
日本文学(というよりは日本人の思想や日本文化)全体を巨視的に捉えた評論で、マルクス主義への評価の点などを除けば、今なお通用するハイレベルな内容と思われる。
傑作という評価が多いが、全くキズがないかと言えば、必ずしもそうではない。
私見では、一番目立つのは、「職業バイアス」である。
例えば、「木下杢太郎と詩人たち」(p424~440)のくだり。
内容面はともかく、ここに16ページ分を割いておきながら、川端康成に関する記述が、横光利一と井伏鱒二に関する記述を含めてわずか(実質)3ページ分(p468~472)しかないのはどういうことだろうか?
加藤氏は、自分と同じ医者との「二足の草鞋」を履いた文学者(木下杢太郎や斎藤茂吉など)には好意的で、厚く論じ過ぎる傾向があるようだ。
これを、「職業バイアス」と呼んでもよいように思うのである。
「従来の狭い文学概念を離れ、小説や詩歌はもとより、思想・宗教・歴史・農民一揆の檄文にいたるまでを“文学”として視野に収め、壮大なスケールのもとに日本人の精神活動のダイナミズムをとらえた、卓抜な日本文化・思想史。」
日本文学(というよりは日本人の思想や日本文化)全体を巨視的に捉えた評論で、マルクス主義への評価の点などを除けば、今なお通用するハイレベルな内容と思われる。
傑作という評価が多いが、全くキズがないかと言えば、必ずしもそうではない。
私見では、一番目立つのは、「職業バイアス」である。
例えば、「木下杢太郎と詩人たち」(p424~440)のくだり。
内容面はともかく、ここに16ページ分を割いておきながら、川端康成に関する記述が、横光利一と井伏鱒二に関する記述を含めてわずか(実質)3ページ分(p468~472)しかないのはどういうことだろうか?
加藤氏は、自分と同じ医者との「二足の草鞋」を履いた文学者(木下杢太郎や斎藤茂吉など)には好意的で、厚く論じ過ぎる傾向があるようだ。
これを、「職業バイアス」と呼んでもよいように思うのである。