(今回はネタバレにご注意)
ラカン入門 向井 雅明 著
「無意識のなかで抑圧されたまま残っている痕跡とはトラウマであり、トラウマは意識的体系によっては認められないので無意識にとどまる。無意識のトラウマが意識化されるためには、<他者>によって承認されなければならないのだ。
無意識に置かれたシニフィアンを、ラカンは non-réalisé (現実化されてないもの)と呼んでいた。non-réalisé とは、全く存在しないものではないが、いまだ言語的存在として現実化されていないという意味で、それをいかに言語化させるかが分析作業の課題なのである。この現実化されていないものは、そのままじっと無意識にとどまっているものではなく、承認を求めて出てこようとする。ラカンは、無意識は抵抗しないと言っていた。抵抗するのは自我の側であり、自我の側から無意識を抑圧して出てこないようにするのである。この無意識にとどまる現実化されていないものが承認を求めて出てこようとする運動を、ラカンは欲望と呼んだ。そしてそれは言語化されることへの欲望であるから、欲望は象徴界のものだというのだ。」(p86~87)
「欲動とは、自らの主体を持たない主体が対象物によって存在を得ようとする機制である。
・・・しかし欲動の真の対象は das Ding、無である。
・・・フロイトが「欲動は、欲動としては、すべて死の欲動である」と言うのは、このように、具体的な欲動の対象の奥には無の場に達しようとする死の欲動が潜んでいることを意味する。」(p241~242)
ラカンは、無意識を「闇で中絶を受け洗礼を受ける前に葬られた子ども」に例えているが、「野いちご」の中で、マリアンがエーヴァルトから堕胎を迫られたくだりはなかなか示唆に富んでいる。
こんな風に見てくると、「野いちご」は、全編が「無意識と自我との葛藤」をテーマとした物語映画であるような気がしてくる。
さて、イサクの中で抑圧されていた「現実化されていないもの」とは、素直に考えれば、「サラとの幸せな結婚生活」であったと思われる。
この「現実化されないもの」は、承認を求めて出てこようとする。
ラカン入門 向井 雅明 著
「無意識のなかで抑圧されたまま残っている痕跡とはトラウマであり、トラウマは意識的体系によっては認められないので無意識にとどまる。無意識のトラウマが意識化されるためには、<他者>によって承認されなければならないのだ。
無意識に置かれたシニフィアンを、ラカンは non-réalisé (現実化されてないもの)と呼んでいた。non-réalisé とは、全く存在しないものではないが、いまだ言語的存在として現実化されていないという意味で、それをいかに言語化させるかが分析作業の課題なのである。この現実化されていないものは、そのままじっと無意識にとどまっているものではなく、承認を求めて出てこようとする。ラカンは、無意識は抵抗しないと言っていた。抵抗するのは自我の側であり、自我の側から無意識を抑圧して出てこないようにするのである。この無意識にとどまる現実化されていないものが承認を求めて出てこようとする運動を、ラカンは欲望と呼んだ。そしてそれは言語化されることへの欲望であるから、欲望は象徴界のものだというのだ。」(p86~87)
「欲動とは、自らの主体を持たない主体が対象物によって存在を得ようとする機制である。
・・・しかし欲動の真の対象は das Ding、無である。
・・・フロイトが「欲動は、欲動としては、すべて死の欲動である」と言うのは、このように、具体的な欲動の対象の奥には無の場に達しようとする死の欲動が潜んでいることを意味する。」(p241~242)
ラカンは、無意識を「闇で中絶を受け洗礼を受ける前に葬られた子ども」に例えているが、「野いちご」の中で、マリアンがエーヴァルトから堕胎を迫られたくだりはなかなか示唆に富んでいる。
こんな風に見てくると、「野いちご」は、全編が「無意識と自我との葛藤」をテーマとした物語映画であるような気がしてくる。
さて、イサクの中で抑圧されていた「現実化されていないもの」とは、素直に考えれば、「サラとの幸せな結婚生活」であったと思われる。
この「現実化されないもの」は、承認を求めて出てこようとする。
この運動が欲望(désir)である。
具体的には、無意識の領域(外部)から、イサクの自我(中心)の欲動(Trieb)を刺激して発動させようとする。
ところが、自我がこれを抑圧するので、「現実化されないもの」は抑圧を押しのけようとする。
こうした葛藤のあげく、「現実化されないもの」は、結局行き先が見つからないまま、(言語化されないものとしての)様々な夢の中へ、あるいは、それすら飛び越えて最終地点である「無」(その隠喩である「針のない時計」等)へと向かおうとする。
これを解決するためには、まず、ラカンが提唱した(というよりは、フロイトが既に実践していた)「言語化」の作業が必要になる。
具体的には、無意識の領域(外部)から、イサクの自我(中心)の欲動(Trieb)を刺激して発動させようとする。
ところが、自我がこれを抑圧するので、「現実化されないもの」は抑圧を押しのけようとする。
こうした葛藤のあげく、「現実化されないもの」は、結局行き先が見つからないまま、(言語化されないものとしての)様々な夢の中へ、あるいは、それすら飛び越えて最終地点である「無」(その隠喩である「針のない時計」等)へと向かおうとする。
これを解決するためには、まず、ラカンが提唱した(というよりは、フロイトが既に実践していた)「言語化」の作業が必要になる。