Essays: Second Series [1844] Nature
”
There are days which occur in this climate, at almost any season of the year, wherein the world reaches its perfection, when the air, the heavenly bodies, and the earth, make a harmony, as if nature would indulge her offspring; when, in these bleak upper sides of the planet, nothing is to desire that we have heard of the happiest latitudes, and we bask in the shining hours of Florida and Cuba; when everything that has life gives sign of satisfaction, and the cattle that lie on the ground seem to have great and tranquil thoughts. These halcyons may be looked for with a little more assurance in that pure October weather, which we distinguish by the name of the Indian Summer. ”
(こういう気候の地方では、1年のうちのほとんどどの季節にも、世界が申し分のない状態になる日が何日かあるものだ。こういう日には、大気、天体、地球がひとつの調和を作り出して、まるで自然がおのれの子どもたちを甘やかそうとでもしているかのようだ。この惑星のこういう寒冷な北側にいても、これまでこのうえもなく恵まれた地方について耳にしてきたことでさえ、何一つほしいと思うようなものはなく、われわれは、フロリダかキューバさながら、日の光ふりそそぐ時間をぬくぬくと楽しむ。いのちをそなえたものは、どれもこれも満ち足りた思いを表わし、地面に横たわる牛たちにも、偉大で静謐な思いがそなわっているように見える。小春日和と名付けて区別するあの澄みきった10月の天気なら、こういう穏やかな日々も、もう少し確実に期待できそうだ。(酒本雅之訳))
長いこと、「世界が完成する日」は、毎年5月にやってくると個人的に思い込んでいた。
これについて、ニーチェは、エマーソンの翻訳を読んだ上で、「丘の上に広々と居心地よく安らうあの美しい夏の日々に似ています。そのとき自然は、彼の言うように、完成するのです。」と書いており(「
ニーチェ全集 9 ─ツァラトゥストラ(上)」p512)、「夏」を想定している(
世界が完成する日(その5))。
だが、原文は見てのとおり「10月」とあるので、ニーチェが読んだものには誤訳があったのかと疑ってしまいそうだが、ここは慎重に考える必要があるのだろう。
矛盾を解消する方向で解釈しようとすれば、エマーソンが住んでいたマサチューセッツ州
コンコードの「10月」の気候と、ニーチェが住んでいた
ライプツィヒの「夏」の気候がほぼ似通っていた、という可能性もあり得るのだ
同様の考慮は、シェイクスピアの「夏の夜の夢」などについても必要で、イングランドの「midsummer(夏至)」(6月)を日本の「真夏」(お盆?)と同視するのは不適切というものである。