Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ベルイマン流トラウマ対処法(13)

2021年09月20日 06時30分21秒 | Weblog
(引き続きネタバレにご注意)

 私見では、この「現実化されてないもの」は自我の「外」にあるという点が決定的に重要だと思う。
 この「現実化されてないもの」が、自我が手出しできない領域に、シニフィアンを持たない「背後霊」のようなものとして自分にまとわりついているというイメージがしっくりくるのである(対して、フロイトの氷山の比喩だと、恰も自我と連続性があって、自我が手出し出来そうに思えてしまう。)。
 そして、こういう風に考えると、「壁を作る」(=過去に復讐する)行為がいかに無意味であるかが分かるし、例えば、統合失調症における幻覚・妄想などの発生機序を上手く説明出来るようにも思われる。
 ただ、依然として理解が難しいのは、「現実化されてないもの」が出てこようとする際に、本来あるべき姿(「サラとの幸せな結婚生活」)ではなく、それとは違う不気味な姿、いわばネガ(「妻の不倫」、「医師失格の烙印」さらには「針のない時計」や「棺桶に入ったイサク」など)として現れるという点である。
 これについては、素人考えではあるが、① 「現実化されてないもの」はもともと言語化され得ないものであること(「サラとの幸せな結婚生活」と言語化してみたところで、その内容は空疎で抽象的である。)、② しかもこれが「活性化した死の欲動」と「自我の抑圧」という、「現実化されてないもの」に対していずれも反対方向のベクトルを持つ2つの力によって強い妨害を受けること、により反転・歪曲されてしまうからではないかと思う。
 さて、イサクにおける「現実化されてないもの」は、言語化を求めて、主として悪夢=(言葉ではない)イメージという姿で暴れてきたが、これが他者の承認を受けるためには、言葉として表現される必要がある。
 画家か映画監督ででもない限り、イメージをそのまま他者に伝えることは出来ないからである。
 そこでイサクは、夢の内容をマリアンに「生きながら死ぬ夢だ」と言葉で表現する。
 これを受けたマリアン=他者は、「(イサクは)生きながら死んでる」と指摘する。
 ここで初めて、イサクにおける「現実化されないもの」(但し、その反転・歪曲された姿)が一応言語化され、他者の承認を受けた。
 これが、問題解決への第一歩だったと思われる。
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ベルイマン流トラウマ対処法(12)

2021年09月19日 06時30分31秒 | Weblog
(今回はネタバレにご注意)

ラカン入門 向井 雅明 著
 「無意識のなかで抑圧されたまま残っている痕跡とはトラウマであり、トラウマは意識的体系によっては認められないので無意識にとどまる。無意識のトラウマが意識化されるためには、<他者>によって承認されなければならないのだ。
  無意識に置かれたシニフィアンを、ラカンは non-réalisé (現実化されてないもの)と呼んでいた。non-réalisé とは、全く存在しないものではないが、いまだ言語的存在として現実化されていないという意味で、それをいかに言語化させるかが分析作業の課題なのである。この現実化されていないものは、そのままじっと無意識にとどまっているものではなく、承認を求めて出てこようとする。ラカンは、無意識は抵抗しないと言っていた。抵抗するのは自我の側であり、自我の側から無意識を抑圧して出てこないようにするのである。この無意識にとどまる現実化されていないものが承認を求めて出てこようとする運動を、ラカンは欲望と呼んだ。そしてそれは言語化されることへの欲望であるから、欲望は象徴界のものだというのだ。
」(p86~87)
 「欲動とは、自らの主体を持たない主体が対象物によって存在を得ようとする機制である。
  ・・・しかし欲動の真の対象は das Ding、無である。
  ・・・フロイトが「欲動は、欲動としては、すべて死の欲動である」と言うのは、このように、具体的な欲動の対象の奥には無の場に達しようとする死の欲動が潜んでいることを意味する。
」(p241~242)

 ラカンは、無意識を「闇で中絶を受け洗礼を受ける前に葬られた子ども」に例えているが、「野いちご」の中で、マリアンがエーヴァルトから堕胎を迫られたくだりはなかなか示唆に富んでいる。
 こんな風に見てくると、「野いちご」は、全編が「無意識と自我との葛藤」をテーマとした物語映画であるような気がしてくる。
 さて、イサクの中で抑圧されていた「現実化されていないもの」とは、素直に考えれば、「サラとの幸せな結婚生活」であったと思われる。
 この「現実化されないもの」は、承認を求めて出てこようとする。
 この運動が欲望(désir)である。
 具体的には、無意識の領域(外部)から、イサクの自我(中心)の欲動(Trieb)を刺激して発動させようとする。
 ところが、自我がこれを抑圧するので、「現実化されないもの」は抑圧を押しのけようとする。
 こうした葛藤のあげく、「現実化されないもの」は、結局行き先が見つからないまま、(言語化されないものとしての)様々な夢の中へ、あるいは、それすら飛び越えて最終地点である「無」(その隠喩である「針のない時計」等)へと向かおうとする。
 これを解決するためには、まず、ラカンが提唱した(というよりは、フロイトが既に実践していた)「言語化」の作業が必要になる。
 
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ベルイマン流トラウマ対処法(11)

2021年09月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「意識化(抑圧からの解放)」又は「現実の行動による放出」のうち、後者が無理なことはすぐ分かる。
 例えば、ジーグフリドからサラを略奪することは、とてもイサクには出来ない。
 そうすると、残されたのは「意識化(抑圧からの解放)」ということになり、フロイトはこれを「自由連想法」によって試みたことが、「ヒステリー研究」などを読むと分かる。
 ここで注意しなければならないのは、「自由連想法」において、フロイトが「言葉」を用いているところである。
 だが、なぜここで言葉を用いる必要があるのか、なぜこれによって抑圧の対象を意識化できるのか、さらに言えば抑圧されているものは一体何なのかについて、「快感原則の彼岸」では十分な説明がなされていない。

われわれはこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungszwang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l’insistance)と名付けたものの中に根拠をおいているのを知りました。」
「この観念そのものは、l‘ex-sistence(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置付ける必要があります。
」(弘文堂「エクリI」p11)

 自身が「『快感原則の彼岸』への注釈」と位置付けるこの本の中で、ジャック・ラカンは、「「反復強迫」は、「記号表現の連鎖」が、自ら欲動(自己主張)することによって発生している」と述べ、さらに「中心(自我欲動の発現)は外部(記号ないし言葉)と相関的な関係にあるが、フロイトがいうところの「無意識」の主体は、中心ではなく外部(記号ないし言葉)に位置付けられる」と指摘する。
 つまり、「無意識」は決して自己の内部に存在しているのではなく、端的に言えば「言葉」であって、我々の外部から、中心に対して「記号表現の連鎖」を打ち込んでくるというわけである。
 ラカンによれば、「無意識」が発生する場所は、個人の心の奥底ではなく、「言語」であるということになる(「難解な本を読む技術」高田明典著p222~)。
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ベルイマン流トラウマ対処法(10)

2021年09月17日 06時30分56秒 | Weblog
 イサクにとっての「野いちご」、すなわちトラウマは、「反復強迫」(「悲惨で、苦痛でさえあるはずの過去の出来事を、人生のさまざまな段階でくり返しながら、自分ではその出来事を自分が作っているとは気づかず、また過去の体験と現在の状況とのかかわりにも気づかずに続けている強迫」のこと(アメリカ精神分析学会『精神分析辞典』))となって猛威を振るっている。

自我論集 ジークムント・フロイト 著 , 竹田 青嗣 翻訳 , 中山 元 翻訳
 「欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするものである。」(p159)
 「すべての生命体が<内的な>理由から死ぬ、すなわち無機的な状態に還帰するということが、例外のない法則として認められると仮定しよう。すると、すべての生命体の目標は死であると述べることができる。」(p162)
 「神経症の精神分析治療の際に現れるこの「反復強迫」についての理解を深めるには、抵抗と戦うことが「無意識的なもの」による抵抗を克服することであると誤解しないようにしなければならない。「無意識的なもの」、すなわち「抑圧されたもの」が、治療の努力に抵抗することはない。自らにのしかかる圧力に逆らって意識化されるか、現実の行動によって放出されることを求めるだけなのである。」(p134)

 フロイトの記念碑的な論文「快感原則の彼岸」からの引用だが、天才的な洞察というほかない。
 トラウマへの対応として、これを抑圧して無意識的なものにすると、今度は、精神の奥深くに潜んでいた「無機的な状態(死)」に帰還しようとする欲動(死の欲動)を発動させてしまう。
 この「死の欲動」が「反復強迫」として出現するというのが、フロイトの仮説である。
 考えてみれば、あらゆる生物は、死へと向かうべく、DNAレベルでプログラムされているわけであり、「反復強迫」は、この流れを促進するスイッチが押された状態とみることが出来るだろう。
 それでは、このスイッチを切るにはどうすればよいか?
 フロイトがこの時点で提示していたのは、「意識化(抑圧からの解放)」又は「現実の行動による放出」である。
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ベルイマン流トラウマ対処法(9)

2021年09月16日 06時30分56秒 | Weblog
(引き続きネタバレにご注意)

 ルンド大学での名誉博士号の授与式の後、イサクは、ようやく今日一日の出来事の意味に気づく。

 「一見バラバラに見える出来事が、何かつながりがあるように思えた。

 60年ほど続いたと思われる「悪夢」から、イサクが目覚めた瞬間である。
 こうなると、イサクの行動は早い。
 その夜、床に就く前に、まず家政婦のアグダを呼んで感謝の言葉を述べ、日ごろの自分の言動が彼女を傷つけてきたことについて謝罪し、さらに遠回しのプロポーズ?の言葉(「そろそろ(下の)名前で呼んでもいいのでは?」)まで飛び出す。
 すると、窓の外から若者たちの歌声が聞こえる。
 ルンドまで同行してきたサラたちは、これからハンブルクに向かうので、イサクに別れを告げに来たのである。
 イサクは、「ありがとう」と謝意を表し、「忘れないよ、また会おう」と惜別の言葉を贈る。
 三人の若者達は最後まで朗らかで、イサクの幸福な青年時代の思い出は無垢のままに守られたようだ。
 次に、エーヴァルトがパーティーから戻ってくると、イサクは、「マリアンとはどうする?」と尋ねる。
 エーヴァルトが、「彼女なしでは生きていけない」と真情を述べたのに対し、イサクが「学資のことだが・・・」と言って貸付金(エーヴァルトが医者になるための学資を貸付金としていたもの)の返済を免除してやろうとした瞬間、マリアンが部屋に入ってくる。
 イサクは、マリアンに「ありがとう」と謝辞を述べ、「君が大好きだ」と最大級の愛の言葉を贈る。
 だが、エーヴァルトとマリアンがダンスに出かけた後、寝室で一人になると、イサクはまたしても不安に襲われる。
 エーヴァルトとマリアンのことがまだ心配であるし、自分の健康状態(心臓の持病があるらしい)にも不安がある。

 「心配事や悲しい事があった日は、子供の頃を思い出して心を慰めてきた。今夜もそうしよう。
 
と言って眠りにつくと、彼はさっそく夢を見る。

 ・・・青年時代の夏の別荘。
 きょうだいたちが、湖の畔の別荘を出て、いっせいに船に乗ろうとしている。
(イサク以外の9人のきょうだいたちは既に他界しているので、この「船」は、死の世界への旅立ちを意味しているのだろう。)
 取り残されそうになったイサクに、若き日のサラが近づき、こう告げる。

 「野いちごは、もうないのよ。

 この瞬間、イサクのトラウマ=「野いちご」がついに消滅する。
 「あなたのお父さんとお母さんはどこ?」と尋ねるサラに、イサクが「探したけど、父も母も見つからない」と答えると、サラは、「私が手伝ってあげるわ」と言って、彼を岸辺へと導く。
 そこには、急いで船に乗り込む子供たちをよそに、のんびりと釣り糸を垂れる父と、その後ろでやはりのんびりと編み物にいそしむ母がいて、イサクに優しく挨拶する。
 これ以上はないというくらいの、平和な光景である。
 父と母を眺めるイサクの表情は穏やかで、目には泪が浮かんでいるようだ。
 そう、父と母は、彼をこの世に導き入れた張本人たちであり、この二人の愛は、イサクという存在の原因なのである。
 ・・・ここでイサクはいったん目覚め、穏やかな表情で再び眠りに就いたところで、この映画は幕切れとなる。
 このラストシーンは、まもなくイサクに穏やかな死が訪れるであろうことを示唆しているが、ブルーノ・ワルターがモーツァルトの音楽を評して言った「人生の終焉の至福」という言葉がふさわしい。
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ベルイマン流トラウマ対処法(8)

2021年09月15日 06時30分24秒 | Weblog
(引き続きネタバレにご注意)

 ようやく目が覚めたイサクが、夢の内容について、マリアンに「生きながら死ぬ夢だ」と説明すると、彼女は、「エーヴァルト(イサクの息子:マリアンの夫)と同じことを言うわ」と驚く。
 マリアンから妊娠を告げられたエーヴァルトは、「僕は、憎み合う両親の、望まれない子供だった」と嘆くばかりか、「僕か子供かどっちかを選べ」と述べて、子供を堕胎することを求めたのだという。
 エーヴァルトは、「人生に吐き気がする。望みは死ぬことだけだ」と吐き捨てるほど、「死の欲動」に冒されてしまっている。
 マリアンはイサクに、「何があってもこの子を産むわ」と自分の決意を述べる。
 「なぜ私に話した」と尋ねるイサクに、マリアンはこう説明する。
 
 「この老婆(イサクの母)は死人のよう。でも生きてる。そして息子(イサク)。お母様と一緒、でもまるで反対。生きながら死んでる。そしてエーヴァルト。
 この孤独と死が、脈々と続いてしまう。この子にも。愛する夫にもこの命は奪わせない。


 恐ろしいことに、イサクのトラウマ、あるいは「トラウマを抱えて『生きながら死ぬ』こと」が、エーヴァルトにも伝染してしまったようだ。
 深く傷ついた人間は、知らず知らずのうちに他人を傷つけてしまうのである。
 何とかしてこの負の連鎖を断ち切らなければならない。
 ・・・もちろん、ベルイマン監督はちゃんと救済を用意している。

 
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ベルイマン流トラウマ対処法(7)

2021年09月14日 06時30分00秒 | Weblog
(引き続きネタバレにご注意)

 (新たに登場した)サラと二人の男友達(神学生と医学生)は、(かつての婚約者であった)サラとイサク&ジ-グフリドの似姿だろう(サラの女優は一人二役のようである。)。
 三人は実に楽しそうで、幸福だったイサクたちの青年時代を象徴しているかのようだ(ちなみに、神学生と医学生は、神の存在に関する議論を戦わせており、さりげなく「神の沈黙」のテーマが現れている。)。
 次に道中で出会うのは、口論ばかりする夫婦:アルマンとベーリットである。
 これはイサクと亡き妻の似姿と思われるが、この二人が加わって、イサクの車(ロールスロイス)の中はなんと7人になってしまう。
 アルマンとベーリットは車中でも口論を続け、怒りの余りベーリットはアルマンをひっぱたく。
 なおも喧嘩が続き、耐えられなくなったマリアンは、「降りて下さい」と言って二人を車から追い出してしまう。
 次に向かったのはイサクの母(95歳)の家。
 母はさんざん親族の悪口を言った後で、「(50歳をむかえる初孫に)パパの金時計を贈りたいの。針が取れたけど、いいかしら?」と針のない古い懐中時計をイサクとマリアンに見せる(「針のない時計」!の再登場。このあたりは、小津監督の東京物語(1953年)のラストシーン(但し、懐中時計の意味はまるで正反対)にヒントを得たのかもしれないし、キューブリック監督のシャイニング(1980年)などに活かされているのかもしれない。ちなみにこの場面で私は心の中で拍手喝采。やはり映画マニアは治らないようだ。)。
 このシーンは、イサクが、過去のトラウマからも、迫りくる死からも、どうやっても逃れられないことを暗示しているかのようだ。
 車に戻ると、イサクは再び眠りに落ち、今度はやや長い悪夢を見る。
 人との付き合いを断って「生涯がむしゃらに働いた」とイサクは自負するものの、これはトラウマから逃れるための「仕事への逃避」だったのかもしれない(冷静に観察していると、こんな風に自分自身の人生から仕事へと逃避してしまう人間が、この世の中には少なからず存在することに誰もが気付くだろう。)。
 ところが、案の定と言うべきか、夢の中ではこうした医師・医学者としてのプライドまでもが否定されてしまう。
 夢の中に現れたアルマンは医師免許の更新試験(?)の試験官で、「医師としての第一義務」(許しを請うこと)を答えられないイサクに対し、「あなたは有罪です。・・・ごく普通の罰です」と述べて、「孤独」という罰を宣告する。
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ベルイマン流トラウマ対処法(6)

2021年09月13日 06時30分28秒 | Weblog
(引き続きネタバレにご注意)

野いちご「この映画をキューブリックがベストに選ぶ理由がわかった」
 「妻に先立たれ、子どもも独り立ちしたため、家政婦と二人きりの寂しい日々を過ごしている78歳の医師イーサク(ヴィクトル・シェストレム)。
そんな彼に名誉博士号が贈られ、ルンド大学での授賞式に出席することに。
受賞式前夜に死を暗示するような夢を見たイーサクは、予定していた飛行機ではなく、車でルンド大学へと向かう。
息子の妻マリアン(イングリッド・チューリン)を同行させて車を走らせる中、ふと彼は青年時代の夏を過ごした屋敷へと寄り道する。
その景色を眺めるうちに、過去の記憶がくっきりとよみがえり……。


 映画の中で、イサクはたびたび眠りに落ち、悪夢を見る。
 この設定には、フロイトの理論がよく当てはまる。
 彼のトラウマが、無意識の中から蘇るというわけである。
 青年時代の夏を過ごした屋敷の畑で休んでいるうちに、イサクはさっそく眠りに落ち、夢を見る。

 ・・・青年時代の夏のこと、家の近くの畑で、(「アーロンおじさん」:イサクの父にプレゼントするための)野いちご摘みに励む若い女性がいる。
 イサクの婚約者:(いとこの)サラである。
 そこにふと現れたのが、若きジーグフリド(イサクの弟)である。
 彼はサラに惹かれており、彼女を誘惑し、無理やりキスしてしまう。
 サラは既にイサクと婚約しているので、ジーグフリドの行為にいったん怒りをあらわにするが、内心では、優しいイサクよりも粗暴なところのあるジーグフリドにより強い魅力を感じている・・・。

 その後、(偶然にも)サラという若い女性の声でイサクは夢から覚め、サラの男友達のアルマンとヴィクトル、それに最初から同行していた息子の妻:マリアンと一緒にルンドへ向けて再出発する。
 だが、ルンドへの道中でもイサクは何度か眠りに落ち、夢を見る。
 (結婚した後の)ジーグフリドがピアノを弾くサラに近づき、優しくキスをする。二人は手を取り合って楽しそうに食卓に向かう・・・。

 イサクのセリフから、サラはイサクとの婚約を解消し、ジーグフリドと結婚して6人の子を儲けたことが明かされる。
 他方、サラから婚約を破棄されたイサクは、その後別の女性と結婚し、1人の息子を儲ける。
 だが、常に不機嫌なイサクと妻との間では諍いが絶えず、その妻も40年ほど前に早々と先立ってしまった。
 別の夢の中では、妻と浮気相手との密会の場面が現れる・・・。
 といった調子で、イサクの現実の人生も、夢の中に出てくる場面も、「悪夢」の連続である。
 彼の不幸の発端は、「野いちご」であり、これが、彼の人生最大のトラウマの象徴となっている。
 
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ベルイマン流トラウマ対処法(5)

2021年09月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「死」そのものではないが、「死に等しい人生」というものも、大きなトラウマと言ってよいだろう。
 その例を示すのが、「野いちご」である。
 この映画を、スタンリーキューブリック監督は「ベスト」と絶賛しており、アンドレイ・タルコフスキー監督も「オールタイム・ベスト」の一つに挙げているそうである。
 私も、この映画は「東京物語」や「ざくろの色」などと並ぶ傑作だと思う。

(以下、ネタバレにご注意)

 傑作であるためか、この映画について論じた記事は相当多い。
 あらすじを手っ取り早く知りたい方には、「野いちご「この映画をキューブリックがベストに選ぶ理由がわかった」がお薦めである。
 主人公は、医学の研究に生涯を捧げ、その長年の功績を認められ名誉学位を受けることになった老教授イサクである。
 彼は最近眠りが浅く、睡眠薬を服用するものの、悪い夢をよく見る。
 例えば、「針のない時計」や「棺桶に入った自分」(このあたりは「アンダルシアの犬」を彷彿とさせる)が夢に出てくるが、これは明らかに死の象徴であり、イサクに迫りくる死の予兆である(ちなみに「止まった時」は「夏の遊び」にも登場したが、ベルイマン流のサンボリスムだろうか?)。
 だが、こうした悪夢は、近い将来の予兆というだけではなく、過去の「死に等しい経験」の反復のようでもある。
 というのも、彼には、青年時代に負った大きなトラウマがあるからである。
 それは、「婚約者を実の弟に奪われる」というもの。
 親族や友人の死は一時的な出来事だが、弟夫婦とは一生顔を合わせる関係なので、このトラウマ体験は永続的な出来事といってよい。
 実際、イサクの古傷に塩を塗り込めるようなシーンが、これでもかというくらい繰り返し登場する。
 私見では、これを超えるトラウマはちょっと見当たらない。
 
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ベルイマン流トラウマ対処法(4)

2021年09月11日 06時30分36秒 | Weblog
(以下ネタバレにご注意)

 こうした能動的・自力本願的なトラウマ対処法が、万人にとって有効とは限らない。
 かなり年季の入った人間が、例えば、配偶者の死という大きなトラウマを負ったとしたら、どうなるだろうか?
 それを示したのが、「冬の光」ではないかと思う。
 4年前に最愛の妻を亡くした牧師のトーマスは、仕事にも精が入らず、礼拝も完全にルーティン化している。
 しつこい風邪?に悩まされ、体調も悪い。
 彼にはマッタという愛人がおり、彼女から求婚されるが、亡き妻を忘れられないトーマスは冷たく拒絶する。
 彼もまた世界と自分との間に「壁」を作っているようだ。
 そんな彼に、漁師のヨーナスは悩み(これがなんと「中国の原爆開発」)を打ち明け、救いを求める。
 だが、トーマスの口からは、「人生に意味など必要か?」、「死は魂と肉体が滅びることなのだ」、「創造主などいない」と、聖職者として絶対に言ってはならない言葉しか出てこない。
 これに絶望したヨーナスは、銃で頭を撃って自殺する。
 この映画では、「神の沈黙」というベルイマン監督にとっての最大のテーマの一つ(「神の沈黙三部作」というのがあるらしいし、「処女の泉」もこれが大きなテーマだろう)が登場するが、トーマスが「神」(=造物主)を信じなくなったのは、妻の死という「運命」(=神の別名)を経験したからではないかと想像される(このように、「神」は多義的である。)。
 そんなトーマスに、マッタは「生きる目的が分かった。あなたよ」と述べて愛を捧げ、拒絶された後も彼を見捨てず、ラストシーンの礼拝では、ただ一人だけ参加してトーマスを見つめている。
 「トラウマ対処法」という観点からすれば、マッタという存在と彼女の愛が、トラウマ克服の原動力となり得ることを示唆しているように思われる。
 とはいえ、これがいかにも受動的・他力本願的な方法であることは否めない。
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