パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「か」の有る無し

2010年09月28日 20時21分19秒 | Weblog
最初の1行で自分の波長と合うか合わないか判断ができる
その本を買うか買わないかを決めるのは
帯の広告コピーよりも、立ち読みして数行読んでみる方が現実的だ

昔このパターンで購入した本 北杜夫の「幽霊」
最初の1行でその世界に引き込まれたというか
ノックアウトされたし、その文章に嫉妬した

ところが長い間、その文章は
「人はなぜ追憶を語るのだろう」
と思っていた

ところがよく見ると
「人はなぜ追憶を語るのだろうか」
となっていた

つまり最後に「か」があるのだ

「か」が無い方が、独白的要素が強い感じがする
あると若干客観的なニュアンスも感じられる

今でもなくても良いかな!
と思ったりする

同じ様に間違えて覚えていたのは
西脇順三郎 あむばるわりあ から「天気」

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

ここでの生誕(せいたん)という言葉
何故だか知らないけれど自分は
(せいたん)ではなくて(しょうたん)と読むものだと思っていた

誕生をひっくり返したのだから(しょうたん)でいい
と思ったのではない(しょうたんという読み方はないけれど)

なんだか(しょうたん)のほうが音として良いような気がしたためだ
思い込みというのは怖いものだ
誰かに言わなくてよかった(恥をかかずに済んだ)

どちらも内容というより音、リズムの問題で
よい文章にはこれらの要素は不可欠ということ

ところで
坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の

夏の野の、茂みに咲ける、姫百合の、知らえぬ恋は、苦しきものぞ

この歌も

夏の野の、茂みに咲ける、姫百合の、知らえぬ恋は、苦しきものを

と最後の文字が「ぞ」と「を」の2説あるらしい(?)

どちらの方が良いか?

どっとでも良いけれど、
こうした事柄に大の大人が必死になって口論する
そういう世界こそが文化的な豊かな生活の様に思えるのだが、、


コメント
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