パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

図書館の棚には少なかった現代史の本

2019年09月03日 08時49分46秒 | あれこれ考えること

以前トライしたが、難しくて途中で挫折した加藤陽子の「戦争の論理」


再挑戦したら今度は興味深く読み終えることができた
以前感じた難しさというのは、記述されている歴史的事実を知らないでいるためで
初めて目にする事実や人物の行動が、頭に入ってる前提でドンドン話が進められていくので
最近の自分の覚えられない傾向にはついていけないと感じたのだ

ところが、少し前「天皇機関説事件」を再読して、ロンドン海軍軍縮会議での条約の締結に
不満を持った連中のことが書かれていたが(美濃部達吉はこの条約を法的に有効としたために批判を受けた)
この「戦争の論理」ではその不満の詳しい内容が具体的な資料に基づき事細かに解説されていた
それを読むと確かに感情的な面もあるが、予想よりはもっと理屈に沿って反対している
国会での論争は割合真正面からの論争で、現在の日本の形だけの「ご飯論法」とは違うと感じてしまった

それから必然的に考慮せざるを得ない「天皇の統帥権」についての解釈がこの本では取り上げられ
当時の人達はどのように理解していたか、、みんな同じではないが、とても参考になった

しかし、これらの本を読んで、自分にはつくづく基礎知識が無いことに気づいて
そもそも日清戦争とか日露戦争、韓国併合などはどのような経緯で行われたのか
確認の意味で「現代史」を二三冊ざっと読むことにしようと図書館にでかけた

問題はここからで、歴史の棚に「現代史」に関する分野の本がとても少なかった
それは新城市の図書館レベルでは充実したものが揃えられない現実のせいなのか
それとも、我々が学校で学んだように「現代史」はおまけのような扱いでしか無いためなのか、、

仮に後者であったとしたら、、、と思うと、少しばかり不安を覚えてしまう
英霊などの言葉ではなく、死ななくてよかった人たちの先の大戦の桁外れに多い犠牲
それはもう絶対に繰り返してはならない
繰り返さないためには、繰り返さないシステムづくり(現実的な防衛環境)だけでなく
その戦争の原因追求から始めなければならない
(その当時の空気は何故戦争に向かったのか、、とか)
ところが、この肝心な反省すべきところの研究本が、、それほど見当たらないとすると、、、

現在、経済的にも実力低下の日本
最近の「日本凄い」の番組の多さは、自信喪失の裏返しのようだ
そして、芳しくない事実をみないようにして、良いところだけを見ようとするメディアとオーディエンス
わかり易い例では、野球でもサッカーでもテニスでも、勝ったときは穴のあくほど新聞を読んだり、
繰り返しテレビを見たりすることととても似ている
でも真に経験を活かすことができるようになるのは、むしろ負けたときのことだ
負けた原因、不足している部分、、それらを分析して次の練習に備える、、、それがスポーツでは強くなる秘訣

ところが、それと同じことが政治とか社会では行われずに来ている
我市の少しばかり恥ずかしい市議会議員の政務活動費のゴタゴタ事件も
市長が個人で125万円を市に払うことなった行政訴訟の件も「何故そんなことが起きたのか?」
との検証や反省は、できるだけ有耶無耶にされているような印象を受ける
そしてこの対応に自分らが不満を覚える感覚を、お隣の国の人が日本(政府)に感じているのだとしたら
それは、わからなくもない

昔のことだが、疾風怒濤の時期、ドイツにでかけてある女性にあった
自分は彼女を久しぶりに出会った日本人だと思い、日本語で話しかけた
ところが彼女は出身が日本ではなく韓国だった
彼女は「ここはドイツだ、ドイツ語を使うべき」と怒ったように答えた
間違えたことを詫てドイツ語で話しかけると、彼女は結婚しており
「マインマン(夫)はドイツ人」と会話が続くことになった
嫌韓・嫌中の空気が呆れるほど世間で広がりつつあるが、外国にいってみれば
このように日本人も韓国人も見分けがつかない
わかるのはアジア人同士だというくらいなもの

だからアジア人同士は仲良くすればいいのに、、と思うのはとても自然なこと
と思うのだが、何かがこのシンプルな思いにブレーキをかけようとしている

我々は、自分たちの先の人物たちが何をやって、何を失敗したのかを
もう少し謙虚に学ぶべきだと、最近つくづく思う


コメント
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