何年か前まではウィーンフィルのメンバーは男ばかりだった
女性奏者は入れないのがずっと決まりだった
そのような姿勢にマルタ・アルゲリッチは怒りを覚え
ウィーンフィルとの共演はしないままでいた(らしい)
最近は名古屋でのウィーンフィルのコンサートには女性メンバーがいた
またテレビで見るコンサートシーンも女性奏者は目に入る
仕方なく女性奏者を入れるようになったとき、そのパートは
音色等の大勢に大きく影響しない(?)ハープのようなものに限られていたようだ
時代の流れといえばそれまでだが、そして反発を受けそうだが
「男ばっかりのウィーンフィルの音」というものも
大事なんじゃないかと思ったりする
男と女の感じ方は違う、また筋肉の質も違うから音量も違う
仮に筋力とか体力的なことはカバーできたとしても感じ方、表現したい衝動の中身は
どこか違うのでは、、と思ってしまう
最近女性作家(梓澤要)の「女(おなご)にこそあれ次郎法師」
(大河ドラマ おんな城主 直虎の物語)
を読んでいて、不意にこの作者は女だな、、と感じるところがあった
気配りの細やかさとかだけでない、もっと根本的に違う何かがあって
男とは違う、、と感じた
この感覚は井伊直弼と村山たかの関係をえがいた「姦婦にはあらず」(諸田玲子)
を読んでいいた時も不意に現れたものだ
男と女のどちらが良いというのではなく、明らかに(?)違うものが存在する感じだ
小説だけでなく音楽でもマルタ・アルゲリッチの演奏は女の感じ方をベースにしている
ような気がする
専門的な楽譜の分析的な解釈をしているのだろうけれど、その根本となる彼女の
作品の捉え方が、直感的な(あるいは肉体的な)把握になっているような気がしてならない
それは「女の直感」の言葉がふさわしい気がする
と言っても、これらは自分が「そう感じる」というだけで
具体的な証拠もないのだけれど
まずは何かを感じることから物事は始まるが、その感じる内容、捉え方が違えば
その後の表現は自ずと変わってくると思われる
その意味では、男ばかりのウィーンフィルの音も、今だからこそ聴いてみたい気がする
(男女平等との考えとは別の所の次元で)
もう一つ聴いてみたい音楽がある
ベートーヴェンが「エロイカ」を作曲したときの年齢の奏者ばかりで演奏する「エロイカ」だ
年齢を重ねた大家の演奏ではなく、ベートーヴェンが野心に持ちていた頃のメンタリティを
自らも持っていると思われる若い人たちによる演奏、その共感の度合いは
いろいろ経験をして何でも知っている人たちのそれとは違う
知らないものの強さ、、将来を見据える時間がたっぷりある人たちの感覚
それらは、きっと深くはなくても魅力的な気がする
(またもや気がする、、といった根拠のないものだが)
ということで、単なる思いつきのお話