パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

記事は本質的なことを伝えているか

2020年07月17日 08時55分10秒 | あれこれ考えること

放送局に勤めていた知人があるとき自虐的に
「放送ってのは文字をひっくり返して、送りっ放なしだ」
とこぼしたことがあった

時に世論を作り出す程の影響力を持ち
一般的には信頼されるとされるメディア(放送・新聞)は
本当に真実を伝えているのか、、と疑問に思うことが少なくない

今朝の地元の新聞には、昨日行われた新城市議会の採決の結果が掲載されている
みっともない話だが、その採決とは数名の議員の「問責決議」についてで
採決は「該当者数人は議場から除斥の上」で行われ賛成多数で可決された

記事はそれを客観的に伝えているのだが、実は会場(議場)には新聞記者は来ていない
(記者用の傍聴席にはいなかった)
来ていないがこうした記事は書けるということだ
単なる事実の羅列は現場にいかなくても、それなりのことは書けるということかもしれない

話は飛ぶが、昔ロッド・スチュワートのライブに行ったとき、翌日のスポーツ紙に
このライブについての記事があった
そこにはアンコールで彼のヒット曲「セイリング」がアンコールで歌われたとあった
しかし、事実は違う
その日「セイリング」は歌われなかった
事実と違うことが書かれていたのだ
スポーツ紙の記事だから、そんなもん、、と真剣に受け止めない〈?〉知恵が
ついてはいるが、メディアは正確に書いている訳じゃないと実感した瞬間だった

今朝の記事も結果だけを見れば、間違ったことが書かれているわけじゃない
だが、本質的なことが書かれているか?といえば少し疑問が残る
というのは昨日採決が行われた市議会本会議は、6月に終了するはずの
最終日の議案の議決が、7月の今まで延びてしまったという出来事があるのだ

普通なら6月に市議会は終わっている
それを半月も延長して議決を行う異常事態や
その原因とかその後の経過を何も報道しないことは
本質的な報道がなされているかが、一連の流れを見聞きしたものとしては不満が残る

この採決に至るまでには、議員全員が参加する全員協議会において
その議決方法が「違法か否か?」といった深刻な問題を検討がなさざるを得なかった
確かに新聞はスペースの都合があって何から何まで細かく掲載できるわけでなない
だが、今回の場合は議会が延長までなった本質的な原因のことについては
何も書かれていない、、
だからこれを読んだ人は、流し読みをするだけになってしまう
すると、半月以上も定例会が延長していて、それは通常ありえないことであったことも
人々の記憶の隅にも残らないのではないか

今回の場合は、少しばかりみっともない話なので、もしかしたら多くの人に
知られないほうが良い事案だったかもしれない
でも、人々の判断の基準になるようなメディアの報道が
実はこうしたものの可能性があることは、認識していたほうが良いように思う

記者クラブにリリースしておいたが、我々市民団体からの情報は、記事にも放送にもならず
無視された経験が幾度とあるので、少し嫌味を込めて、、愚痴ってみた

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「サルビアの花」

2020年07月17日 08時23分43秒 | 徒然なるままに

昨日の晩ごはんのメニューを思い出すのはボケ防止には良いようだ
幸い昨日と一昨日のそれは思い出すことができる
ボケ防止のこのブログ、昨日・一昨日とサボったので少し落ち着かない
それで思い出しながら昨日のことを

久しぶりに太陽が見えた早朝のウォーキング
道路を横断するカエルの数は、昨日は5匹だった
何事もなくいつものように過ぎていったが、信号待ちをしてると
ポケットにいれたスマホから突然音楽がなり始めた
何事が起きたのか?
何かの加減でアプリのスイッチが入ってしまったのか?
慌てて確認するが音楽のアプリは作動していない

信号が変わっのでそれ以上の追求はやめ横断優先とし
音楽は鳴るがままにしておいた
(後でわかったがYoutubeが作動していた)
急に流れていたのは「サルビアの花」もとまろの歌だった
この「サルビアの花」はとても記憶に残っている曲で
学生時代の下宿先で洗濯をしながらロイ・ジェームスの
不二家歌謡ベストテンを聞いていたシーンをいつも思い出す
競作が多い歌だったが圧倒的にもとまろの歌が好きだった
女の子二人のハモり方、声の質、女の子が「僕」というときの感じ方など
男が歌うよりしっくりした感じを持っていた

歩いていると気になったのは「転げながら、転げながら」の歌詞の部分で
「転げ、な、が、ら、転げ、な、が、ら」ともとまろの歌では
スタッカート気味に歌われているところが本当に石が跳ねながら転がっているようで、
歌の解釈と表現はこういうことだな!と感じたりした

井上陽水も「サルビアの花」を歌っているが、そこでは「転げながら」の部分は
普通につなげて歌っている
ただ井上陽水も普通のカバーはしない
彼の歌で気になった部分は「ぼく」という歌詞の音程がもとまろとは違う
もとまろは「く」の音のほうが高い音程だが、
陽水の方は普通に使用される「ぼく」のように「く」の音のほうが低い音程だ
意味的には陽水のほうが正しいような気がするが、音楽としてはもとまろの方が好きだな

あともとまろでは「扉を開けて出てきた君は、、偽りの花嫁」
となっているところが陽水では「扉が開いて出てきた君は」となっている
花嫁が自分で開けることは無いと思われるので、陽水のほうが意味的には正しそうだけど
自分で扉を開けて出てくる、、という方が、
この花よめの性格をしっかり表現しているような気がする

ということで、「サルビアの花」はもとまろの歌が思い出もあって好きということ
でも、なんで急にスマホから流れてきたのかは、、不思議

もとまろ サルビアの花


 

 

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