「マスコミ亡国論」と銘打っていても、内容は現在のマスコミのあり方への
批判というよりは、保守としての考え方を紹介している印象が強かったのが
西部邁さんのだいぶ前に書かれたこの本だ
雄弁な怒りを込めた書きっぷりに、若い頃なら圧倒されてしまったかもしれないが
今は、少し違うな、、、と引いて見ることもできる
怒りを込めた書きっぷりといっても、西部さんのテレビでの恥ずかしげで
可愛いところもある話しっぷりが頭に浮かび、さほど気にはならない
この本、「大衆の反逆」などと同じで、ひと1人の心の持ち方を深く追求しているように思える
心の持ち方の基礎データとしてもマスコミの情報が必要だから、それは適切なものが必要と考えているだけで
現在言われているような「マズゴミ」に対する批判とは少し違うニュアンスだ
いくつか付箋をいれて、書き残しておこうとした部分がある
それは人間というものの把握と保守の考え方に関する部分で
マスコミとは関係ないが、この部分こそが西部さんぽい
引用1.
人間という存在は何割かの性悪ぶり、何割かのいかがわしさをひめたものである。そのいかがわしさが他者あるいは社会に迷惑をかけるというのでないかぎり、そのいかがわしさについては互いに攻撃を仕掛け合うようなことは避けようというルールを欧米社会は作り出したのだ。
もしもその種の相互暴露、相互攻撃をやりはじめると、人間のいかがわしき可能性は人間関係の前面に露出してしまう。そんな状態では、安定した人間関係は取り結ぶわけがない。つまり、プライバシー権にあっては、いわば「大人の偽善」が前提されているわけである。
われわれはお互いいかがわしい存在にすぎないのだが、他人に迷惑をかけないかぎり、それを暴露し合うようなことはしないでおこう、これは偽善であるがしかし大人の作法である。
またそれを認め合わなければ、人間の主体性とか自由というものも空語に陥ってしまう。つまり人間という主体が他者との関係を結ぶときには、かりにも虚構だとしても、まあまあまっとうな自己であり他者であるようかのように認め合うという礼儀作法が必要になるのだ。
これなんかは現実の社会を見るとそう思う
だが、大目に見るのと許さない加減がなかなか難しい
引用2.
日本人はデモクラシーという言葉を民主主義と訳した。私が思うに、デモクラシーと民主主義は必ずしも一致しないのである。デモクラシーとはデモス(民衆)のクラシー(支配)ということを意味するにすぎない。 つまりデモクラシーというのは、それだけでは、良いものとも悪いものとも判断されていない中立的な概念である。
さらにいえば。もしも民衆が賢明であるならデモクラシーから賢明な政治が出てくるであろうが、もしも民衆が愚昧ならばデモクラシーは愚昧な政治がもたらされるだろうということにすぎない。つまりデモクラシーとは、社会的な意思決定の過程に多数者が参加し、その中の多数派でことを決める、という意思決定の一つの方式なのだ。その方式から真が出てくるか偽が出てくるか、善が出てくるか悪が出てくるか、美が出てくるか醜出てくるか、それは民衆の資質にかかわっている。
民主主義イコール良きもの、、と無条件に考えてはいけないということ
時々、このシステム自体が本当に最適なものなのか、、と考えることがある
(民衆の資質を上げるしかないとしても、それは簡単ではなさそうで)
引用3.
当時の啓蒙主義者たちは、人間はパーフェクティビリティ(完全可能性)をもつと宣言した。完全なる神にかわって人間が完全な存在に接近するのだと宣言したわけである。そこから人間性への異常なる礼賛そして人間の権利の異常なる高まりがはじまった。
そこから2世紀半、人間社会は膨大な殺戮、裏切り、混乱を経験した。それにもかかわらず、この人間性のパーフェクティビリティという空語だけは根強く生き残った。
健常者ならば、自己の不完全さがなんらかのかたちで制限されてはじめて、自分が真っ当に生きられるであろうと自覚するはずだ。そして自己に対する制限がルールとかマナーと呼ばれるものであることを認めるはずだ。
このルール、マナーは必ずしも明文化されているとはかぎらない。というより、明文化されたものの根底に明文化されざるルール、マナーがある。つまり死者たちが歴史を通じて残してくれた「伝統の知恵」のようなものが、潜伏的なかたちで生者を制限する。明示的かつ潜伏的なルール、マナーの体系によって方向づけられることによって、生者の健常な生が可能になるのである。
これなんかは保守の考え方の基本のようなもので、
引用1に通じるところもあるように感じる
この本、確かに怒っている(浮かぶのは照れくさそうに話す西部さんだが)
その怒りの先は、仮想敵国のような具体的な対象ではないような気がする
もしかしたら、三島由紀夫が絶望したような日本のあり方(若者も政治家も、、、)ではないのか
そしてその怒りは、結局三島由紀夫と同じかたちで自らを終わらせるしかなかったにかな
と読み終えて感じたりした
この引用部分は、書いてあるから納得したのではなくて
常々あれこれ考えている時に浮かんでくることで
「自分の考えたことと同じだ」と思ったものだ