パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

上高地には行きたくない?

2022年09月06日 09時18分46秒 | 徒然なるままに

死ぬまでに一回は見に行ったほうが良い
と思うのが、上高地と京都の紅葉

河童橋と穂高の写真のような光景が、目の前にそのままあると
分かっていても驚きと感動の声をあげる

京都の紅葉も、緑、黄、赤のグラデーションのある葉っぱを
逆光気味に透かしてみると、ため息が出てしまう

ところが上高地は今は行くのがためらわれる
それはコロナのせいではなくて、上高地に行くと
穂高や槍ヶ岳を目指す人達を見かけるとになって
彼らに嫉妬を覚えてしまうからだ
(今は腰が痛くてリュックを背負って登山はできない)

上高地が目的地ではなく出発点
昔、自分がそうだったような経験を、今からしようとする人を見るのは
羨ましすぎる

でも、やっぱり行きたいかな
あの純粋な世界を見に、、



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あれこれ考えること

2022年09月06日 08時09分45秒 | あれこれ考えること

多数の意見は正しいか?
最終的な結論の出し方である採決は、結局のところ権力闘争の結果であって
時間の審判を経れば、その時点での結果は疑問を持たざるを得ないことは
ありそうな話だ
物事を判断するには、偏見とか思い込みの他に
正しい情報が提供されているのが絶対条件だが
現在の社会はフェイクニュースや感情を刺激する極端な情報が
正しい情報よりも破壊力をもって伝えられている

みんなの知恵は案外正しい、、とするのは以下のような例があるからだ
あるゾウの写真を見せて、ゾウの体重を予想してくださいとされた場合
適当な数字を思いつきで発する素人もいれば
大衆の中にはゾウのことを知っている人間も含まれているので
その人の意見を取り入れて数字は補正されていく
だから大衆の知恵は結局はそれなりの正しい数字に近づくというのもだ

なるほど、これはありそうな話だ
だからといって多くの人の知恵とか考えが正しいと言うのは
あまりにも短絡的だ

ビッグバンの考え方が正しいかどうかは、素人を含めた多数決で決められる
ことではないことは明らかだ
それを決める権利があるのは、抽象的な思考のできる精緻な情報を消化できる
人たちでしかない

大衆判断とその道の専門家に判断に委託するバランスが、どうも現実には難しいようだ
数学的・物理的な問題の場合は端っから難しい問題は専門家に任せる姿勢はできているが
政治的な問題は個々が自分の力量の中で判断できると思い込みやすい
一つの判断は、想像以上の広がりを持って他の分野に影響を及ぼす
その広がりの影響を想像することなく、その時点のみの正誤の判断をするのは
あまりにも視野が狭いことになりそうだ

結局のところ、ある結論に至るにはその結果のみではなく
結果に至る過程が如何に説得力があるように進められたかが問題となる

ということで、なにやら抽象的な話だが
現在の我が市の様々な問題は十分に正確な情報を元に
多くの人が判断をできる環境下にあるかどうかの問題だと思う
もっとも、これは我が市だけでなく、日本の至るところで見られる傾向だろうが

少しへそ曲がりな自分は、数が多いからと言ってそれが正しい選択とするのは
どうも抵抗感がある、、
じゃあ、どうすればいいのか?

どうすればいいのだろう、、、

 

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