一般市民の近視眼的な感情的な判断は、必ずしも社会全体の利益に合致するとは
思えないとしても、現在のオリンピック開催に関するお上と一般市民の意識の違いを見ると
そもそも選ばれた人による判断で物事が進められていく代表制民主主義という形態は
果たして最適解なのだろうかと思えてならない
以前zoomで参加したシティズンシップ教育の資料の中に
最近は「選挙に基づく専制国家」が増えているとあった
アフガニスタン、ミャンマー、ベラルーシ、ロシアがその例で
確かに形としての選挙は行われていても、その実態はある人にとって
都合の良い選挙システムになっていた(形だけの選挙)
香港でも選挙は行われるにしても、その立候補条件に恣意的な制限があって
必ずしもおおらかな民主主義が実現されるとは行かない感じだ
お手本となるアメリカでさえ、あの大統領選以後、選挙システムの変更がなされているようだ
アメリカの選挙は日本のように有権者に自動的に投票券が送られえてくるのではなく
個人自ら選挙人登録をしないと投票ができないらしい
その選挙人の登録に関してのハードルが黒人・ヒスパニックの方々に対して厳しくなっているようで
それは共和党に有利になり、その選挙制度の変更は多数決で行われて、形の上では正当な手続きを
経ているとされている
このアメリカの選挙システムについては理解不足とか若干の間違いがあるかもしれないが、
要は議決権をもつ多数派の都合よく物事が決められて行くということだ
つまり、手続きはちゃんとできている、、と
ドイツのヒトラーは突然現れたのでなく、最初は正当に選挙で選ばれた
それからは、システムの上では正当な手続きを利用してあのような状態にもっていってしまった
ドイツ人は当初、彼の危険性を感じてはいたが、何時でも止められる、と過信していたようだ
しかし、それは勘違いとか甘い予測に過ぎなかった
一旦権力を持ってしまうと、屁理屈を考える上の連中は、合法的に暴力装置すら支配できるようにしてしまう
あのときのヒトラーに反対する人(ショル兄弟等)は今でこそ、勇気のあった人とか人間的
とか評価されるかもしれないがその当時は「国家の行うことに反対するけしからん人々」
と思われていたかもしれない
ここで不安に思えてしまうのが、これは今の日本でもそんな雰囲気になっていないだろうかという点
今の政府に対して反対意見を発する中には、確かにひどい言い方をする人達がいる、
そんなに断定的・独断的に言わなくても、、と表現の柔らかさを求めたいものもある
しかし、問題はそのような意見を発する人に対して「反日」と日本を引っ張り出して
日本そのものを否定するのか、、と乱暴な理屈を展開する人が少なくないという現実だ
(そんな人は現実にはSNS上ほど多くないとの調査もあるらしいが)
そして、それらを可能にしているのは「もの言わぬ人々」「行動しない人々」の存在かもしれない
ここで最初の代表制民主主義の話になっていくが、この「もの言わぬ人たち」は
オリンピック開催にはアンケートで聞かれると反対と答えるとしても、それ以上の行動を起こすわけではない
彼らは反対と思っていても、一応は自分たちが選んだ人たちの判断を受け入れるしかない、、と思っているのだろうか
つい最近のシティズンシップ教育の講義の中に、高校の教師をしている方の興味深い報告があった
それは高校生に「デモをしている人は迷惑をかけているか?」
「自分が投票に行ってもいかなくても世の中は変わらないか?」(こんな内容の問だったと思うが)
と調査をしたところ、最初の迷惑をかけている、、と答える人は少なからずいたようだ
同様に選挙権を駆使する意味合いにも否定的な意見が多かった
ところがシティズンシップ教育をしていって(それは上からではなく気づきという点を大切にして行ったらしい)
再度この問のアンケートをすると、「デモは迷惑ではない」「選挙は何かを変えられる」
とその割合は僅かながら変化したらしい
つまりは(自ら気づく)教育が人々の心の変化をもたらしたということだ
このような、自分たちの身近なことは当事者意識をもって考えて、多様な意見との議論を行い
その中で自分自身の考えすら変更する勇気を持って、必要なときには自ら行動も起こすシティズンシップは
代表制民主主義を補うことになりそうだが、この実現は想像以上に難しそう
結局はいい人(判断力・人間性の優れた人)を選ぶしかないかもしれない
まるで運任せみたいなものだが、どうせなら運のよい立場になりたいものだ
でも完全に運任せは心もとないので、できる範囲のことはしなければ、、