パンセ(みたいなものを目指して)

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自由なのは議員を選挙する間だけ(ルソーの言葉から)

2015年09月22日 09時09分13秒 | あれこれ考えること

敬老の日、秋分の日に挟まれた今日は「国民の休日」
少し暇(?)なので、それにテンションも上がっているので
本日二本目の投稿

たまたま興味深い文章を見つけた

「人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。

彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのこと。

議員が選ばれてしまうと、人民は奴隷となり、何ものでもなくなる。

自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、

自由を失うのも当然と思われる」

『社会契約論/人間不平等起源論』(ルソー)より

今、この言葉を嫌というほど実感している人びとは多いのではないか
特に上の3行
しかし、反省を込めて下の2行がある
要は、選挙期間に如何にまともに自分たちは
活動すべきかを説いている

古典は、それなりに名を残した著作は、それなりの価値がある
作者が自らの体験を元に心血を注いで書き上げたとしても
後世の人は残念ながら感覚的に理解できたとしても
実際の思いとなるまでには至らない

それでも、それを知っているか、いないかは大きな差を
人の間に呼び起こす

西洋礼賛をするつもりはないが、西洋の教養人はこうした
先人たちの知恵や反省を、一旦教育という名の試練を受けているのではないか
それは人間としての最終的な判断を誤らないための方法として

話は飛んで、新城市という地方の小都市でも
首長の権力はとても強いものだと感じることがある
極端なことを言えば、首長になってしまえば何でもできる
予算を提出すること、判断を下すこと、伝えたい情報を発信する
手段を持つこと、そして人事権や効率的な組織を持つこと

これは全部が全部ではないが一歩間違えば
権力の暴走を招く可能性がある
この危険性を感じているからこそ、そのブレーキ役としての
法整備や組織が存在するのだろうが
残念ながら、、、

国はどうか
権力者の暴走を防ぐシステムは多分憲法
しかしその憲法の上を行く何かが存在して
それを権力側が持つとしたら、、、

人間の何をしでかしてしまうかわからない怖さ
それを多分西洋人は教養という学習の中で身につけており
それをベースにできうるかぎり良い物をつくりあげようとする

それは単純に法的な整合性だけでなく
人間の怠惰さ、不真面目さ、ずるさ、闘争心、攻撃性
と言った負の要素も加味した上での体系ではないのか

たとえ現在がそうではないとしても
人間に対する深い洞察が、上に立って判断をする立場の人には
当然の様に求められる

ここからはいつもの独断と偏見だが
上に立つ人びと、つまり政治家に
こうした深い人間性に対する真摯に向かい合った経験のある
表情をしている人がいるか
その表情に現れているか
もちろん彼らは様々な判断を常に下している
その一つ一つが真摯でなかったとは言わないが
それが得か損かの段階で終始しているのではないか
と思ってしまう

安保関連法案の採決時画面に映った渡邉美樹氏、岸田外相の表情
この人達が世の中を動かすとしたら不安を感じてしまうのは杞憂か


 

 

 

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