新城市郷土研究会6月の例会が設楽原歴史資料館内で
20日14時から行われた
6月のテーマは「意外な繋がり新城と大岡越前」
発表者は地元の歴史に並々ならぬ興味を持ち続ける塩瀬眞美氏
先月は住民投票に関する市民まちづくり集会で参加できなかったが
今回は扱われているテーマも興味深く楽しみにしていた
大岡越前の守の祖先は、元々は藤原北家教実 で、その末裔が三河国八名郡宇利郷に住み、その後同群大岡に移り住んで名字にしたとされる(寛政重修諸家譜による)
住宅地図には黒田地区に字大岡の文字を見ることができる
少しぼんやり聞いていたので確かではないが、この地区に言い伝えで
とても 神聖な場所、屋敷跡があったという
馬に乗っている人は降りて歩かなければいけないとか、
結局何代目かの直系ではないかもしれないが関係者が
有名な大岡越前の守というわけだ
新城と大岡さんのつながりは実際行われた裁判(?)調停に見られるようだ
地元新城には雁峰山という校歌にも歌われる山があるが
この山の入会について寛永15年(1638年)布里、作手と争論があり
そののち亨保11年(1726年)に里方31箇村、山方5箇村が雁峰山の入会について山論をして、その行政的な結果が出たのが亨保11年9月25日とされている
この結論を出した人物が大岡越前の守というわけだ
面白いことにこの例会で、この結論を書いた立て札が
昔自分も通っていた東郷中学校に残っていて
そこには大岡越の文字が書かれており
裏面には山の地図(絵)が描かれていた
自分の目で見たから間違いはないと力強く発言された方がいた
でも大事なその立て札は今はどうなっているかわからない
東郷中学校を鉄筋校舎に建て替えた時
鉄筋校舎の欠点である湿気によって大事な部分が傷んでしまっていた
そんな記憶があると併せて発言された
ちょっと勿体無い!
今ならそう思うけれど、中学生の感覚なら
「ふーん、そんなものか」くらいにしか思わなかったかもしれない
大事なものの判断は、歴史を知っている人に判断してもらうことが
必要かもしれない
この他新城だけとは言わず、三河地区出身(愛知県)と思われる
歴史上の人物の紹介がなされたが、それが本当かどうかは別にしても
想像力を刺激する時間となった
学者ではない素人の人がこんな風にいろいろ調べて発表していく
それを聞いている人も自分の手持ちの情報で、より話題を深めていく
これはとても有意義というか楽しい
来月は7月18日
テーマは「あれから70年~ 黒瀬下山地区の開拓を振り返って~」
残念ながら自分は黒瀬地区というのがどこかわからない
ほんと、知らないことばかりだ