パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

体罰(コーチ時代の頃の思い出)

2018年09月14日 08時08分00秒 | 徒然なるままに

テレビのワイドショーではスポーツ界のパワハラとか体罰のニュースが
一斉に取り上げられている
そこで、小学生のサッカーコーチ時代のことを思い出した
自分は体罰をしたか、、、と

実は体罰は行ったことがある、、、でもそれが体罰だったかといえば、、

小学1.2年を担当していた時のことで、どんなシチュエーションだったか忘れてしまったが
多分よくあるような練習の並んでいた時、誰かが順番を飛ばしたとか、何かのかげんで手が当たってしまったとか
そんなことで喧嘩をし始めた時だった思うが、そんな場合、自分は怒る態度を示すために体罰をした
「お尻ペンペンしちゃうぞ!」と言って

そして実際に子どもたちにお尻をこちらに向けさせて、2.3回叩いた
だが衣服(パンツ)の厚みで緩和されてほとんど影響はなかっただろう
すると、それを見ていて調子づいたのが子どもたちで
「僕もお尻パンペンして」「僕もして」と次々に言い出す始末、、


確かにお尻を叩いたが、体罰だったのか、お遊びだったのか、、
こんなふうに実際のところ、自分はほとんど怒ることはなかったし、子どもたちも
あの人は怒らない人という認識は持っていたようだ

しかし、そういうタイプの人間が怒ると本当にびびったようだ
いくら怒らない人間でも、時には無性に腹がたつことがあった
(それはズルしたり、友達が困っているのに平気でいたりした時だったと思う)
そんなときは本気になって、かなりきつい口調で大きな声で叱責する
子どもたちは沈んだ重い空気を漂わせて、下を向いて聞いている
そして叱責が終わった後、次の練習に移る時もどこか気分的に乗り切れない感じで
いつもなら賑やかに推移する練習がシーンとなって続く

でも子どもたちの記憶力は、結局、一瞬だけ
そのうち元に戻って、またもや同じことの繰り返し、、

子どもたちとの思い出のもう一つは、練習に集中できないでいた時、このように大きな声をかけた
「ゴー、ヨン、サン、ニイ、イチ」
すると途中から子どもたちは声を合わせる
「サン、ニイ、イチ」

それに続く言葉は「コラーッ!」
でもこれも怒っている(怒られている)実感は彼らにはなかっただろうな

ということで、昔の楽しい思い出

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝のあいさつ運動

2018年09月11日 09時02分28秒 | 子どもたちのこと

9月から月曜日と木曜日、小学生の登校時間に合わせて彼らの集合場所に出かけて
挨拶をする運動に参加している
良いことなら何でも直ぐに行動に移す尊敬ずべき人に誘われて気楽に了解した

7時35分に近くの集合場所(歩いてすぐのところ)にいって、6人集まると学校に向かって歩くと
30メートルもしないうちに第二の集合場所になる
そこで4人ほど加わって10人の集団になり、6年生の女の子が「並んで」と声をかけて
整列して学校に向かうことになるのだが、、、

最初の日、あいさつ運動のメンバーの格好(ベストと帽子)をして
「これから月曜日と木曜日は、挨拶しようって、こんなふうに来るからよろしくね、」
この時の彼らの表情・対応がなかなか面白い
小さな子は無邪気に「おはようございます」と大声で返す
そしてなにか言いそうになる「プールのスタンプが4つしかない、、」とか
でも少し大きな女の子は、「何!このおっさん?」と怪訝な様子
そしててどこか疑い深そうな感じ

子供には緊張感を与えないタイプの人間だと自分を思っていたが、どうもそう簡単にはいかないようだ
もっとも大きな子の反応はごく当たり前なのかもしれない
何でもかんでも直ぐに全面的に信用してしまうのは、かえって怖いこともある
(でもちょいと寂しい)
そのうち、慣れてくればなんでも話してくれるようになるだろう、、と今は期待を込めているところ

一列に並んで、間を空けずに歩いていく、、、そんな簡単なことがなかなか難しいようだ
どこにもいるようなひょうきんな男の子が、直ぐに誰かに話しかけたり、道の草など気になるところを覗いたり
大人から見ると、そんなに興味深いことが道沿いにそんなにあるのか、、とも思うが、とにかく落ち着かない様子
この子のお母さんも小学校までの道を犬の散歩を兼ねてついて来てるが、つい「〇〇遅れないようにしなさい」
の声が何度も繰り返すことに、、、

ほんと子どもたちはマイペースだな
自分の関心あることは直ぐに夢中になって、言われたことは直ぐに忘れてしまうし、、
彼らは今という時間のみを生きているみたいだ、、、
というサッカーコーチ時代のことを思い出した

まだ3回したばかり
でも小さな子たちと、ダラダラと歩くのは(時々話もしてくれて)思いの外楽しい
これが慣れてきて、打ち解けるよになると(でも相変わらずマイペーだろうけど)
可愛さはどんどん増してくるだろうな

願うのは、月曜と木曜は雨が降らないで欲しいということ
あいさつ運動のメンバーは歳のいった人ばかり
できることなら、ずっと晴れたままで終えられたら良いのだけれど

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルトヴェングラーとトーマス・マン

2018年09月09日 08時23分49秒 | 

二人のドイツ人 フルトヴェングラーとトーマス・マン
指揮者と作家
第二次世界大戦時にドイツ国内にとどまった人、国外に脱出した人
この二人は残念ながらその選択のために最後まで折り合うことはなく生を終えた


この本は、非ナチ化審問、手紙等の資料からそれぞれの闘いを紹介する(二人の関係に関する)

この対象的な二人
だが人はどちらかに肩入れしてしまう
客観的事実以前に、直感的共感を覚えてしまう方に自説を正当化する理屈を探そうとする
自分の場合はフルトヴェングラーの擁護に気持ちは傾く

フルトヴェングラーはカラヤンの前のベルリン・フィルの主席指揮者
彼の指揮する演奏はいろんな楽器の織りなす音色とテンポ・音量の変化等による
音楽体験といった言葉では現しきれないような心的に大きな影響を与える(聴いている人に)
それはまるで自分の脳内(体の中に)楽器が存在し、その内部の音が鳴っているような
(確かに演奏を聴いているのだが、自ら音楽を作っているかのような)そんな錯覚とか忘我の瞬間を引き起こす
音楽は指揮されて演奏されているのか、それともはじめから存在する音楽があるきっかけ(指揮という)で
始まっているのか、、そこに演奏者という存在はあるのか、、という気分にさえなってしまう
彼の演奏するベートーヴェンの第9の三楽章などは沈潜し、思索し、音楽はが始まったら勝手に流れていき
聴いていると言うことすら忘れさせてしまうような演奏

このようにフルトヴェングラーからは個人的に絶大なる感動体験を得ている
(有名なバイロイトの第九、同じくエロイカと第7番、トリスタンとイゾルデの全曲盤、マーラーのさすらう若人の歌、ブラームスの4番
 シューベルトのグレート、ブルックナーの8番などなど)
このような稀有な体験が得られるから、ついつい心酔してしまい、彼に興味を持ち、ついには
ドイツのハイデルベルクにある彼のお墓参りに行ったりもした(しかも二回も訪れた)

一方トーマス・マンは、簡単に言ってしまえば相性が悪い
読んだのは、というより最後のページまでいったのは、「トニオ・クレーゲル」「魔の山」「ヴェニスに死す」
これらのうち「トニオ・クレーゲル」の一部を除いて、正直なところ何も心に残っていない
(大好きな北杜夫がトーマス・マンはいいと言っているのだけれど)
客観的な描写、どこか夢中になるところがないような表現は
(ファウスト博士のベートーヴェンの32番のピアノソナタの解釈の部分は熱気があって面白かったが)
ページ全体に文字が隙間なく埋まる息の長い文体・表現は根気のない自分には辛いものだった

国内に留まったフルトヴェングラーは非ナチ審問で、完全に無罪というわけではなかった
確かに彼はヒトラーの誕生日に彼の前で演奏した
その様子は映像で撮影されプロパガンダとして使用された
そして、それなりの立場を確保していた
だが彼は、楽団のユダヤ人を守った
役割としての報酬は得ていなかった
国内にいるドイツ人のために(ナチではなく本来あるべきもう一つのドイツのために、そして自分を真に理解できるドイツ人のために)
演奏をし、音楽のもつ真善美の価値がいつか人々を正しい判断に導くものだと感じながら演奏をした
それは第九の4楽章(人類は皆兄弟になる、、)のメッセージやフィデリオの自由・平等のそれは
聴く人の中になにか大きな変化を引き起こす、、と考えたいようなロマン主義的な、あるいは非現実的な思考を持っていた

トーマス・マンは現実的な思考を元にフルトヴェングラーとを批判する
これはヨーロッパの人間(フランスなどの)がフルトヴェングラーを強烈に批判しなかったが、
遠く離れたしかもフルトヴェングラーの演奏を経験していないアメリカが批判しているのと被る
あのときのドイツを知らない人が、のうのうと暮らしているアメリカから批判じみたことをいう
(マンはフルトヴェングラーとだけでなくドイツ人の精神傾向まで問題とした)
この心情がドイツ人のトーマス・マンに対する批判につながる
実際トーマス・マンは母国ドイツでは批判が多かった
あの敗戦前の悲惨な状況を知らない人物が好き勝手に自分たちドイツ人を批判する
これはもう感情の織りなすことで、討論でなんとかなる範囲を超えているのかもしれない

1946年10月18日連合軍共同管理委員会の指令第38号で
ナチの責任を負う者のグループを5つに分けられている
1.主たる責任を負う者
2.有罪者(=活動家、軍国主義者、受益者)
3.軽度の有罪者(=執行猶予者)
4.同調者
5.無罪者
フルトヴェングラーはこの内下から二番目の同調者分類された
庇いたいフルトヴェングラーだが、この判定は致し方ない

ドイツに残ったフルトヴェングラー
音楽以上のなにか人を酔わせるような体験を引き起こす魔術師のような存在
確かにヒトラーが定期的に自分たちのために演奏会を開いた
だがそこに来ている他の人(多くの聴衆)の経験したことは(残っている映像の中で演奏を聞き入る人たちの表情は)
置かれている立場を一瞬でも忘れたいというよりも、もっと何かを求めるようなものに見える
音の中に何か計り知れない秩序・真実があるような、、その時だからこそそれを求めるような、、

話は思い切り飛んで、北海道の地震の話に移るが、北海道は一時全地区停電状態になった
それから順次、回復していったが、回復するのは地区ごとでその中にはパチンコ屋さんがあった
パチンコ屋さんは営業を開始した
こんな時に電気を大量に消費するパチンコを営業するとはけしからんとの声があがった
しかし、その様子を伝えるSNSの画像・動画にはそれを楽しむ人たちが少なからずいた

戦時中でも、単なる気持ちの上での気晴らしにしかならないような(?)音楽の演奏会がもたれる
優先順位は現実的なものと思われ、それから外れそうでも演奏会を開き、それを楽しみにする人たちがいる
これはどんなときでもパチンコをしてしまう、、のとどこか似ているような気がする

フルトヴェングラーは楽譜の中に見られる秩序・真理・美を直感的に感じとり、彼しかできない方法でそれを再現した
素人や聴衆は今起きていること(音)から何かを感じるしかない
戦時中の演奏は今は録音媒体から体験できるが、それらの多くの与える第一印象は
(何度も聴くと印象が変わってしまうので、最初の印象を取り上げるが)
フルトヴェングラーも精神的に参っているかもしれない、、ということ
確かにいつものように生き生きとした演奏がある
しかしもっと根底に感じられることは焦り、苛立ち、苦悩というものが聞かれる
そしてその音色は暗くて重い
そして、それらを聴くのは少しつらい
でも、これらの演奏を毎日のように爆撃を受ける人々は聴いた(体験した)

実際に聴いた多くの人が真善美を感じ取って、より良いドイツを考えるきっかけになったかどうかは
実際のところわからない
でもあの映像に残る一般の聴衆のその時を愛おしむような、一つの音も聞き逃すまいとする表情は
ドイツには音楽が不可欠だということを感じさせる
(だからこそヒトラーは音楽を利用したのだろうが)

ところで、単純にトーマス・マンはフルトヴェングラーの演奏を生で聴いたことがあるのだろうか
(若干あるようなこと記述されているが)と気になった
その時何を感じたのかがとても興味がある

最終的には相性があるから、なかなか最後まで折り合えないのは仕方ないのかもしれない
フルトヴェングラーは政治音痴、無知だったかもしれないが
どうしても彼を庇いたい自分がいる







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山の国

2018年09月07日 08時51分34秒 | あれこれ考えること

滅多に乗ることのない飛行機
乗る機会があると子どもみたいに窓際を選んでしまう
窓に顔をひっつけて普段生活している町の地形を上から眺めると
地上で感じているものと少し違うような気がする
例えばあの地点からこの地点までは案外遠いな、、とか

この飛行機から眺めた風景で一番印象に残っているのは
「日本は山の国だ」ということ
数年前、10数時間前のヨーロッパの上を飛んでいる時は
平原が広がり時折森が見え、活用しやすい土地がふんだんにあるものだ
と(うらやましく)感じたものが、日本の上空に来ると見えるのは山ばかり
そして木(森)ばかりの光景
現実に使えるスペースは少ないな、、とか思ったした

昨日午前3時8分ころ、北海道に震度7の地震があり、震源地の山からは土砂崩れが起きた
その映像がテレビニュースから幾度となく流れている
山の頂上付近から相当量の木々が滑り落ち、普段見えるはずのない土が露出して
しかもそれが信じられないほど広域に渡っている
それが一つの山に限ったことではなく、その光景は隣接する山々全体に起きていた
まるで山がなにか大きなナイフで削りとられたかのように

普段は特に気にすること無く、当たり前のように山は存在し
そこから得られる木々や空気のありがたさを感じているのだが
今回のことで、(先日の豪雨雨被害もあって)つくづく日本は山の国だと再確認した

山の国だから川の流れも早い
大雨が降れば土石流も流れやすい
山の近くに住んでいる人は土砂崩れにも遭いやすい
危険と隣り合わせなのだが、そんなことは自分には起きないだろうとつい思い込んで
ささやかな平凡な生活を続ける多くの人々

普段の生活が実はどれだけの危険性を有しているか、、
災害が起きた時の対処法を考えておくだけでなく、
こうした覚悟も必要なのだと、強く感じる今日このごろ

ところで、飛行機から眺めた風景で印象的なのはロシアの大地
川が曲がりくねって、ヘアピンのように大きく曲がったところの水が大回りをせずに、
まるでショート・カットするように乗り越えて川は新たな形を作る、、
そんなところがいくつも見られて、
なるほど三日月湖というのはこのようにできるのか
と妙に感心したものだった

最近の豪雨・台風、今回の地震のニュースで、気分は少しばかり落ち込み気味な感じ
昔は天災や疫病が流行するのは怨霊のせいだと思われていたらしい
また政治が悪いと天災がやってくるとも信じられていた事もあったらしい
因果関係はなさそうだが、そうかもしれない、、
いや、そのように考えたほうが良いのかもしれない、、とも思えてしまう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人はパンさえあれば良いのか、、、

2018年09月04日 09時41分17秒 | あれこれ考えること

先日読んだヒトラー・ナチ関係のことが気になっている
どうしても今の日本と重ね合わせてしまうのだが、似ているところがあまりにも多い
ちなみに読んだ本は、「ゲッベルスと私」「白バラは散らず」「ヒトラーに抵抗した人々」

現在では当たり前のように批判されるヒトラーとナチ
しかし当時のドイツ国民は彼らを支持していた
第一次世界大戦の敗戦でどん底状態だったのを、アウトバーン等の公共投資を
積極的に行うことで経済の回復を実現、そして迫り来る共産主義との戦いを声高々に訴える
そしてユダヤ人が世の中の富を不当に搾取している、優れているのはアーリア人で
ユダヤ人や不具な人々は生きるに値しないとまで決めつけ
それを排除することまで行うことを、国民の多くは無言、あるいは見て見ぬふりとか
無関心で結果的に支持した

その時の大衆・国民の関心事、重要なことはただただ経済的なことだけだった
それさえクリアされれば、どこかで行われつつあった気持ち悪くなるような非人間的行為も
知らないことと自分自身を納得させようとした

その時代に、目覚めた市民、と政権中枢部分にいた一分の人々
彼らは打倒ヒトラーを目指した
しかしそれはすでに戦勝中であった自国ドイツの敗戦を願うことであり、そこには彼ら自身のなかにも
気持ちの踏ん切りが必要だった

抵抗した人々の行動がバレたり失敗した時、大衆は彼らを反逆者とか非国民と批判した
しかしミュンヘンの大学生ショル兄妹によって行われたビラによる対ヒトラーへの戦いは
「ドイツ国内にもこのような人たちがいる」という事実を対戦国にも伝わり
全部のドイツ国民が問題ではなく、政権に問題があるとの考えを持つのに役立った

市民(ショル兄弟)の活動は地味なチラシ印刷と配布
その内容は、人としてどうあるべきか、今のドイツはそれができているか、、といった
とても高邁な多分キリスト教の影響と哲学的な内容で、分かる人には分かるといった内容だったが
(わかる人が多かったのは驚くことだが)
後によりわかりやすいヒトラーや彼の進めていることへの批判がわかりやすく記述されるようになった

もう一つ抵抗運動である立場の上にいる人々は、ただ単に打倒するだけではだめだと考えた
フランス革命が起きた時、自由・平等・博愛が叫ばれ人類の夢のような民主主義が可能になったと思われたが
現実にその後のフランスに起きたことは不完全な人間の不完全な政治や社会のあり方
この歴史を踏まえて、抵抗する知識人は「もう一つのドイツ」なる打倒したあとのあるべき姿を模索した
しかし7月20日の計画は失敗、計画に携わった人々は刑死され、多くの国民は彼らヒトラーに抵抗した人々を批判した

戦後となって評価はかなり変わってきて、ショル兄弟の活動は映画になったり、
7月20日の国家に対する活動のように思えるものも、正義の抵抗をしめしたものとして肯定的に捉えられている

でも、問題はそれらは戦後の評価
重い事実は、あの当時のドイツ国民はヒトラーを、ナチを熱狂的に支持したということ
ただ単に自分たちの周りの生活(経済)さえ良くなれば、人として見過ごしてはいけない多くのことを
見過ごしたり、無関心を装ったこと

この部分が今の日本と似ていないかとついつい思ってしまう
アンケートをすれば政治で一番の課題は経済政策と出てくる
経済が良いから(本当かな)求人倍率が高いから、株価が高いから
その他の不都合な事実(森友学園・加計学園・南スーダン日報問題・公文書改ざん問題・伊藤詩織氏をレイプした人物の突然の逮捕中止
十分に議論されないまま進められた参議院議員の定数増加・同じく強硬に進められたIRカジノ法案等いろいろ)
は目を閉じて見ないふりをしつつあるようなこの国の現状
おまけにナチがユダヤ人を区別したようなことが、この国では「朝鮮人とか韓国人・反日」軽蔑的な使い方・ヘイトスピーチが行われている
それを批判する人には「ヘイトスピーチにも表現の自由がある」と無理筋の理屈をこねる

ナチには「エリート」への恨みが根底にあったとも言われる
当初のナチの主要なメンバーは、知識人・最初から軍部にいた軍人・政治家ではなく
彼らエリートが為したことは屈辱的なベルサイユ条約を承認したに過ぎないと批判する
どちらかといえば非エリート・底辺に生きる人々が占めていたとされる
そしてその非エリートの直接的な訴えは国民の感情に届いた

実際には国民がナチを支持したという事実
これは、国民は(大衆は)正しい選択ができないかもしれないという理解にもつながる
いつまで経ってもこのことが気にかかる

民主主義のシステムはもともと不完全なもので、その時々で注意して見守っていかないと
うまく機能しないといったことよりも、いま現実に日本の世の中で起きていること
自分だけが良ければ、他の重要なことには目を閉じたままにするとか、無関心とか
それこそ心が何も感じないと思われるようなことが、、、とても不安

歴史は繰り返すといわれる
バカな歴史を繰り返さないためには、、、謙虚に過去から学ぶこと
でも、その歴史を知ってきたら今が怖くなてしまった、、また繰り返すのではないのかと

ちょいと心配症の小市民の不安


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御園座で「ジークフリート」(愛知祝祭管弦楽団の演奏会形式による)

2018年09月03日 08時46分59秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

チケット購入は数ヶ月前、ずっと楽しみにしていた愛知祝祭管弦楽団の演奏会形式による「ジークフリート」
一昨年の「ラインの黄金」昨年の「ワルキューレ」に続く三番目の上演が昨日(9月2日)あった
会場はなんと御園座、いつもの芸術劇場のコンサートホールが改修中で使えないので
新しくなったばかりの御園座に白羽の矢が当たった

数ヶ月前、ネットで早々とチケットを手に入れた
早いうちだったので、「良い席」を優先的に回してくれたのだろうけれど
この席が前から7番目の中央
音楽を聴くのとセリフを見るのには「良い席ではないかもしれない」と思ったが
たまにはこのような席も良いかもしれないとそのまま手にした
そしていざ現場で座ってみると、やたら近い、、これが歌舞伎なら役者さんの表情も見えて
「良い席」なんだろうが、音楽はどうなんだろうと少し不安になった


4年をかけてアマチュアオーケストラによる「ニーベルングの指輪」の全曲演奏のこの企画
とても気合が入っている
演奏は上手い下手を超えてどこか熱っぽい、それだけじゃなく演奏会形式というものの舞台は
証明やら小道具だけでなく、会場で配布されるパンフレットもいつもかなり充実している

ストーリーをわかりやすく漫画で紹介したページもあリ、これをざっと読んでおけば
あまりセリフを気にしないでも聴いて(見て)いられる

と言っても、やはり歌っている内容は気になる
左右に縦に電光掲示板でセリフの表示があるかと思ったが(新国立劇場はそうなので)
今回の御園座では舞台のとんでもなく高い部分
自分の席から電光掲示板を見ようとするとかなり見上げなければならない
そうすると、今度は音楽に集中できない
困ったな、、と思いつつ、音楽に集中すべきか、、慣れに任せるか、、と最初は戸惑いがち

今回は予習しなかったが、昨年新国立劇場で飯守泰次郎の「ジークフリート」を体験し
大体のストーリーの記憶があるので、セリフをパット見ただけでどのような状況かが
何となくわかり、徐々に音楽に集中できるようになった

ところで、あれっ!と思ったことがある
歌い手さんの声が響かない、、
新国立劇場では歌い手さんの「声」の力そのものに驚いたものだ
大声を張り上げているわけではないのに、体が共鳴体のように増幅してどこまでも届く
その驚くような感覚が今回は殆どなかった
これは歌い手さんの実力によるものか、それとも会場の音響がデッドなせいかわからない
でも、明らかに違いはあった

歌手の中ではアルベリヒ役の歌い手さん大森いちえい氏が圧倒的な存在感だった
その独特な風貌と演技力、そして声の力で、「ラインの黄金」では間抜けな小人だったのが
時間を経過して筋金入りの悪になっていったのがわかる気がした

ジークフリートの見せ場、よくできたところは多分2幕
大蛇となったファフナーと戦うところ、森の小鳥たちと会話するところなど
メルヘンチックな味わいがあるが、この日の小鳥役は子どもたちがカラフルな衣装を着て登場
(歌うのは大人だったが)これは大いに納得がいったというかホッとした
恐れを知らない純なジークフリート、彼と会話ができる様になるのはあの子どもたちのような存在である小鳥
大蛇の血を舐めたから小鳥の会話を理解できるようになったとあるが、これが新国立劇場のような大人だと
なんだかしっくりこない、、この演出はこちらのほうが良かったかな

演奏はどうしても尻上がりにノッてくる事が多い
第一幕でも証明が赤くなり、ジークフリートが自分で刀を鍛え始めるところぐらいから急に音楽が
説得力を持つように感じられた
奏されたライトモチーフが体の中にどんどんと浸透していき、
一幕が終わったあとでも頭に中にいつまでも繰り返し繰り返し鳴っていた
(ヴァーグナーの音楽は時々こういうところがある)

3幕はヴォータンとジークフリートのやり取り
無邪気な孫が自分を乗り越えて行く、それに期待するヴォータン、、このあたりまでは良いのだけれど
新国立劇場でもそうだったが、眠っているブリュンヒルデが目覚めてからが、やたらと長い
ジークフリートを見守ったのは自分だたっとか、ジークフリートの求愛に直ぐに応じない理由を挙げてみたり
行きつ戻りつ、、、正直なところ、退屈する(ヴァーグナーの台本のくどさ、、みたいなものを感じる)

オーケストラの演奏はバランスの良いブレンドされた豊かな音色というわけにはいかない
でもそれを補ってあまりある熱さがあった
会場で見ていた(聴いていた)人も満足だったが、一番充実感を味わったのは一年かけて練習してきた
オーケストラのメンバーだったのではないか、、、(きっとそうだ)

これで4年越しの指輪の企画も残すところ「神々の黄昏」のみ
これは2019年8月18日に、今度は芸術劇場コンサートホールで行われるとのこと
ここまで来たら最後も聴く(見る)予定
何しろチケット代が破格に安い、、今回の席は4000円だった(これなら絶対に元は取れる)

ところで、会場で配布された音楽関係のたくさんのパンフレット
いつもの透明の袋に入っていなくて、そのまま渡されたので持ち運ぶに不便
ということで、指輪絡みのトートバックを購入した

書かれている言葉は「ニーベルングの指環」の最後のセリフ
Zurück vom Ring(指輪に近づくな」
そうそう危ないものには近づかないほうが良いってこと、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3度目の正直(ポール・マッカトニーライブチケット)

2018年09月01日 16時20分38秒 | ポール・マッカートニー

タレの目の左利きの音楽バカ
偉大そうなオーラを発することなく、誰でもタメ口で話しそうな雰囲気で
それでいてライブはTシャツではなく、きちんとした(?)服を着て(イギリスに税金を払い続けて)
水を全然飲まずに、楽器をとっかえて2時間以上も歌い続け
何年後の音楽の教科書には間違いなくフォスター並には扱われると思われるのがポール・マッカトニー

8月下旬に突然、ナゴヤドームで彼のライブがあるとの新聞広告がでた
年齢を考えると、今度こそ最後かもしれない
そんな思いと2013年の東京ドームの感動が蘇って
早速「ぴあ」で予約抽選の申し込んだ
ところが、「ぴあ」から届いたメールは、抽選から外れたという知らせ

でも、しばらくすると「ぴあ」から二次募集の案内メールが来た
今度こそはと再度トライしたが、返ってきたのはまたもや外れのメール

今回はアカンかな、、と思ったが、先程「イープラス」の方でも扱っていて
現在受け付け中とのこと
それで、三度目の正直で申し込んでみたら、、、
ことわざというのはよくできているもので、今度はゲットできた

楽しみだな
きっとライブのエンディングはあのアビーロードのメドレーで締めて
「ヘイ・ジュード」はみんなで歌うようにして
イエスタデイは、最後までもったいぶって出し惜しみして
ジョンの思い出の「ヒア・トゥデイ」を混じえて
リンダに捧げた「マイマブ」、今の奥さんへの「マイヴァレンタイン」も欠かさずいれて
他には、バンド・オン・ザ・ランから数曲、、、それにニューアルバムから少し
こんなふうにセットリスト見当がつくが、今度は前回やらなかった曲がどんなのが入るか楽しみ

三度目の正直
とりあえず挑戦してみて良かった、、というところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする