二人のドイツ人 フルトヴェングラーとトーマス・マン
指揮者と作家
第二次世界大戦時にドイツ国内にとどまった人、国外に脱出した人
この二人は残念ながらその選択のために最後まで折り合うことはなく生を終えた
この本は、非ナチ化審問、手紙等の資料からそれぞれの闘いを紹介する(二人の関係に関する)
この対象的な二人
だが人はどちらかに肩入れしてしまう
客観的事実以前に、直感的共感を覚えてしまう方に自説を正当化する理屈を探そうとする
自分の場合はフルトヴェングラーの擁護に気持ちは傾く
フルトヴェングラーはカラヤンの前のベルリン・フィルの主席指揮者
彼の指揮する演奏はいろんな楽器の織りなす音色とテンポ・音量の変化等による
音楽体験といった言葉では現しきれないような心的に大きな影響を与える(聴いている人に)
それはまるで自分の脳内(体の中に)楽器が存在し、その内部の音が鳴っているような
(確かに演奏を聴いているのだが、自ら音楽を作っているかのような)そんな錯覚とか忘我の瞬間を引き起こす
音楽は指揮されて演奏されているのか、それともはじめから存在する音楽があるきっかけ(指揮という)で
始まっているのか、、そこに演奏者という存在はあるのか、、という気分にさえなってしまう
彼の演奏するベートーヴェンの第9の三楽章などは沈潜し、思索し、音楽はが始まったら勝手に流れていき
聴いていると言うことすら忘れさせてしまうような演奏
このようにフルトヴェングラーからは個人的に絶大なる感動体験を得ている
(有名なバイロイトの第九、同じくエロイカと第7番、トリスタンとイゾルデの全曲盤、マーラーのさすらう若人の歌、ブラームスの4番
シューベルトのグレート、ブルックナーの8番などなど)
このような稀有な体験が得られるから、ついつい心酔してしまい、彼に興味を持ち、ついには
ドイツのハイデルベルクにある彼のお墓参りに行ったりもした(しかも二回も訪れた)
一方トーマス・マンは、簡単に言ってしまえば相性が悪い
読んだのは、というより最後のページまでいったのは、「トニオ・クレーゲル」「魔の山」「ヴェニスに死す」
これらのうち「トニオ・クレーゲル」の一部を除いて、正直なところ何も心に残っていない
(大好きな北杜夫がトーマス・マンはいいと言っているのだけれど)
客観的な描写、どこか夢中になるところがないような表現は
(ファウスト博士のベートーヴェンの32番のピアノソナタの解釈の部分は熱気があって面白かったが)
ページ全体に文字が隙間なく埋まる息の長い文体・表現は根気のない自分には辛いものだった
国内に留まったフルトヴェングラーは非ナチ審問で、完全に無罪というわけではなかった
確かに彼はヒトラーの誕生日に彼の前で演奏した
その様子は映像で撮影されプロパガンダとして使用された
そして、それなりの立場を確保していた
だが彼は、楽団のユダヤ人を守った
役割としての報酬は得ていなかった
国内にいるドイツ人のために(ナチではなく本来あるべきもう一つのドイツのために、そして自分を真に理解できるドイツ人のために)
演奏をし、音楽のもつ真善美の価値がいつか人々を正しい判断に導くものだと感じながら演奏をした
それは第九の4楽章(人類は皆兄弟になる、、)のメッセージやフィデリオの自由・平等のそれは
聴く人の中になにか大きな変化を引き起こす、、と考えたいようなロマン主義的な、あるいは非現実的な思考を持っていた
トーマス・マンは現実的な思考を元にフルトヴェングラーとを批判する
これはヨーロッパの人間(フランスなどの)がフルトヴェングラーを強烈に批判しなかったが、
遠く離れたしかもフルトヴェングラーの演奏を経験していないアメリカが批判しているのと被る
あのときのドイツを知らない人が、のうのうと暮らしているアメリカから批判じみたことをいう
(マンはフルトヴェングラーとだけでなくドイツ人の精神傾向まで問題とした)
この心情がドイツ人のトーマス・マンに対する批判につながる
実際トーマス・マンは母国ドイツでは批判が多かった
あの敗戦前の悲惨な状況を知らない人物が好き勝手に自分たちドイツ人を批判する
これはもう感情の織りなすことで、討論でなんとかなる範囲を超えているのかもしれない
1946年10月18日連合軍共同管理委員会の指令第38号で
ナチの責任を負う者のグループを5つに分けられている
1.主たる責任を負う者
2.有罪者(=活動家、軍国主義者、受益者)
3.軽度の有罪者(=執行猶予者)
4.同調者
5.無罪者
フルトヴェングラーはこの内下から二番目の同調者分類された
庇いたいフルトヴェングラーだが、この判定は致し方ない
ドイツに残ったフルトヴェングラー
音楽以上のなにか人を酔わせるような体験を引き起こす魔術師のような存在
確かにヒトラーが定期的に自分たちのために演奏会を開いた
だがそこに来ている他の人(多くの聴衆)の経験したことは(残っている映像の中で演奏を聞き入る人たちの表情は)
置かれている立場を一瞬でも忘れたいというよりも、もっと何かを求めるようなものに見える
音の中に何か計り知れない秩序・真実があるような、、その時だからこそそれを求めるような、、
話は思い切り飛んで、北海道の地震の話に移るが、北海道は一時全地区停電状態になった
それから順次、回復していったが、回復するのは地区ごとでその中にはパチンコ屋さんがあった
パチンコ屋さんは営業を開始した
こんな時に電気を大量に消費するパチンコを営業するとはけしからんとの声があがった
しかし、その様子を伝えるSNSの画像・動画にはそれを楽しむ人たちが少なからずいた
戦時中でも、単なる気持ちの上での気晴らしにしかならないような(?)音楽の演奏会がもたれる
優先順位は現実的なものと思われ、それから外れそうでも演奏会を開き、それを楽しみにする人たちがいる
これはどんなときでもパチンコをしてしまう、、のとどこか似ているような気がする
フルトヴェングラーは楽譜の中に見られる秩序・真理・美を直感的に感じとり、彼しかできない方法でそれを再現した
素人や聴衆は今起きていること(音)から何かを感じるしかない
戦時中の演奏は今は録音媒体から体験できるが、それらの多くの与える第一印象は
(何度も聴くと印象が変わってしまうので、最初の印象を取り上げるが)
フルトヴェングラーも精神的に参っているかもしれない、、ということ
確かにいつものように生き生きとした演奏がある
しかしもっと根底に感じられることは焦り、苛立ち、苦悩というものが聞かれる
そしてその音色は暗くて重い
そして、それらを聴くのは少しつらい
でも、これらの演奏を毎日のように爆撃を受ける人々は聴いた(体験した)
実際に聴いた多くの人が真善美を感じ取って、より良いドイツを考えるきっかけになったかどうかは
実際のところわからない
でもあの映像に残る一般の聴衆のその時を愛おしむような、一つの音も聞き逃すまいとする表情は
ドイツには音楽が不可欠だということを感じさせる
(だからこそヒトラーは音楽を利用したのだろうが)
ところで、単純にトーマス・マンはフルトヴェングラーの演奏を生で聴いたことがあるのだろうか
(若干あるようなこと記述されているが)と気になった
その時何を感じたのかがとても興味がある
最終的には相性があるから、なかなか最後まで折り合えないのは仕方ないのかもしれない
フルトヴェングラーは政治音痴、無知だったかもしれないが
どうしても彼を庇いたい自分がいる