行政の行為の正当性は手続きを守っていることで確保されるようだ
「手続きに瑕疵はない」
その一言で断定されたのが、少し前の出来事
でもよくよく流れをチェックすると、疑念が湧いても仕方ないことは多い
市はある企業から土地を購入することになった
建物があった場所は更地にして渡すことになっていた
渡す前には行政のチェックが行われる
これは当たり前のことだが、少し驚いたことがあった
チェックをしたという行為の証明となる書類は
何月何日に誰々が確認をした、、というだけの記録しかないのだ
実は引き渡しのチェックが行われる少し前に、議員さんがその現場をチェックしていた
その時議員さんは、更地できれいになっているはずの土地にコンクリート片とか
鉄筋が幾つか見えたらしい(聞いた話だが)
こんなのでは更地の条件に適さないから、善処してほしい
議員さんたちはこう指示してその日の役目を終えた
その何日か後、行政が検査をして確認書類が作成されたのだが
それには議員さんが指摘したところがちゃんときれいになっていたのか?
がわかる写真や処理した記述のあるものはない
素人としては写真を撮ってきれいな更地になっていることを確認できるものとして残すのが
普通のことだと思うし、議員さんのあのような指摘があったばかりなので
余計に気を使って、きれいな更地の状態を記録として残すのは当然だと思う
しかし、今のところ行政の細かな確認作業の内容とか写真はない
(少ししてそれらは出て来るかもしれないが)
このことで驚くのは、行政は手続きとか段取りを規定の方法で行えば
それで問題はないとされがちということだ
手続きがどんなにアバウトすぎても、それを行ったという事実だけが
正当性の確保につながるとは、、、
いろんな手続きは、その内容こそが問題となるべきで
例えばパブリックコメントではこれの募集を行ったという事実よりは
そのパブコメにどのような問題点が指摘されたかが重要だと思う
だが、大半のパブコメは行政のアリバイ作りに利用されてしまう
(市民説明会、パブコメはアリバイ作りの定番らしい)
なんだかな、、、
結局はアバウトな手続きでいろんなことが進んでいくのか
そんな気持ちにさせられた最近の思い
13年前のあの日から3月11日は悲しい記憶の日になってしまった
それまではめったに食べることのないカニ料理を家族で食べに行く
お祝いの記念日だった
あの日、母は「いやだなあ、、私の誕生日がこんな日になるなんて」
と毎年繰り返されるだろうニュースを思いながらつぶやいた
そして今年もやはり東北大震災のことが放送されている
島根に住む母のひ孫からこんな手紙を先日受け取った
ひ孫の彼も3月11日生まれだ
一緒なのが単純に嬉しいらしい
毎年郵送でお年玉を送っているので、ちいばあは大事な人になっている
今朝、近所の小学生と校門まで付き添って歩いて、帰宅すると
埼玉の妹からお祝いの電話があった、、と母は口にした
ラインで昨夜、朝電話するね!とあったから電話があるのはわかったいたが
母には内緒にしておいた
玄関の呼び出しで家に入ってきたのは、亡くなった妹の息子だった
彼は出勤途中に立ち寄って、誕生祝にリザーブドフラワーを置いていった
3月11日は世間では残念な日だが、我が家ではささやかな幸せを感じる日でもある
世の中が、平和な世界でありますように!
妹が一生忘れることのない「優情純深大姉」の戒名を授かったときから
少し時間が経過して、ようやく日常の感情を取り戻しつつある
当初は音楽を聴くことさえ、何か違うと思えて仕方なかった
最近、ようやく聴く気になれた音楽がフォーレの「レクイエム」だった
静謐で心に染み入るこの音楽は、何年か前にラ・フォル・ジュルネで実演を聴いた
最後の穏やかな曲「楽園にて」を聴いているとき
気がついたら熱いものがにじみ出ていた
すごく感動したというのではなく、知らず知らずに慰められていた
そんな感じがしたものだった
妹の棺に収められたのは「平和な世界」と書かれた孫たちの習字
妹のいる世界が「楽園であってほしい」と思って聴く気になったのだろうか
フォーレ:レクイエム op.48より Ⅶ.楽園にて
もう一つ久しぶりに聴いたのがベートーヴェンのミサ・ソレムニスから「アニュス・デイ」
木管の暗いトーンで始まるこの曲は、バス、アルト、ソプラノ、テノールの4つの声が
徐々に絡み合って、その音楽はベートーヴェンが死を意識しだしてたどり着いた
境地を現していて、その切実さはフォーレのときとは違う心への関わり方だ
(初めて聴いたときは、ヴァイオリンの奏する経過句部分に泣けて泣けて仕方なかった)
「アニュス・デイ」に続いて曲は「パッセム」(平和)という歌詞が出てきて
それがキーワードとなって曲が進んで行く
それは妹の棺に収められた「平和な世界」の習字そのもののように思えて
今こそ聴くタイミングそのものだ!と確信したのだった
Missa solemnis, Op. 123: Agnus Dei
音楽はいつ体験するか!によって感じ方違う
適切な時期に適切な聴き方をすると、それは単なる音楽体験以上のものを
得ることができると思う
今朝の朝刊に鳥山明さんの訃報が伝えられていた
68歳、まだ若い、早すぎる
1月に永遠の眠りについた妹は67歳
これも早すぎる、そして今日は四十九日
喪失感は不意に襲ってくる
そのうちに慣れっこになってしまうことも少し悲しい
鳥山明さんの漫画はDr.スランプが好きだった
埼玉に嫁いだ妹の娘、自分にとっては姪がアラレちゃんが大好きで
あの帽子を被ったり、「うちゃ、、」と言って笑わせてくれた
Dr.スランプは無邪気な笑いだった
何故か子供が好きな「うんち」を棒でツンツンするのも
あるある!と肯定的に受け止めていた
彼のヒット作ドラゴンボールは初期とZがついたのは少し雰囲気が違う
自分はDr.スランプの雰囲気を受け継いだ無邪気な笑いの初期が好きだった
後になると強い敵が出現してそれを乗り越える物語になって
エンタメ的には優れたストーリかもしれないが、ちょいとついていけなくなった
この作風の変化は出版元の希望も反映していたのではないか
と勝手に想像した
それはブルックナーが弟子や評論家のアドバイスを聞いて
何度も作品を手直ししたのと似ていると思えて仕方ない
妹はようやく平和な世界に行く(仏教的には)
スマホには妹とのラインの記録が残っている
これはずっととっておくことになるだろう
どこかの国の国会中継(だと思うが)ニュースで印象に残るものがあった
ある人物が質問に答えていた
よくあるように抽象的な話になっていた時、議長は
「わかりやすくイエスかノーで答えてください」と指示した
それでも答える人物は長々と本質に繋がらない話を続けた
すると議長は今度は
「わかりました、答えたくないということですね!」
これを見てとてもスッキリした気分になれた
議長はこうして生産的な議論ができるように仕切るべきだ
それに比べて日本は、、、
議長が政権与党の自民党員がなっているので、自分たちに都合の悪い話は
どうしても避けがちな仕切りになってしまうのだろう
話は変わって、アメリカでは人気ミュージシャンのテイラー・スウィフト氏が
大統領選で誰を応援するかが注目されている
彼女の選択は選挙に大きな影響を与えるからだが
アメリカではこうして芸能人が政治的な発言をすることは
ごく自然のこととされているようだ
ところが日本では、政治的な発言をしないことが暗黙のうちになされている
以前は小泉今日子さんが何か発言をしたら、それに対して多くの苦情がきたそうだ
(政治的な発言でも、政権寄りの発言はそれほど問題視されない?)
日本は少し変だと思う
日本ではまことしやかに「ヘイトスピーチをする表現の自由はあるはずだ」
このような詭弁をする人がいる
だが外国では(確かフランスだったと思うが)
「そんな自由はありません」の一言でヘイトスピーチは禁止されてしまう
日本国内の人は日本は民主主義国家として成り立って
自由に溢れている国として認識しているかもしれないが
日本の姿を別の指標で比べると日本は「批判的思考」という概念とか教育が
十分になされていないようだ
文部科学省の公式サイトでは学校で「児童生徒の批判的思考を促す」教育を
しているかという問いについて、「非常によくできている」「かなりできている」
「いくらかできている」「全くできていない」の4択のうち
最初の2つと答えた教員の割合は、この調査をした世界の48カ国では平均で
82・8%だが、日本の中学では24.5%、小学校では22.8%という数字
となっている
また生徒に「批判的に考える必要がある課題を与える」という問いへの肯定的な回答は
48カ国平均は61.0%だが、日本は中学で12.6%、小学校では11.6%
つまりは、他の民主主義国家と比べると情けない数字になっている
ここで言葉の説明をすると「批判的思考」とは物事を鵜呑みにせず
与えられた説明や解釈が妥当であるか否か、自分の頭を使って
様々な角度から検証する思考能力のこと
なんだか当たり前に必要なことと思えるが、これらは現実的には
教育の過程を経ないと身につかないようだ
この批判的思考の欠如とか、抽象的なやり取りだけで進められていく国会の議論とか
表現の自由の勝手な使い方とか、それらは現在の日本がもしかしたら危機的状況に
あることの証明なのかもしれないとも思う
そんなことを考えさせられのがこの本「詭弁社会」山崎雅弘著
この本では、テレビなど報道された具体的な詭弁の例を挙げている
「お答えを差し控えさせていただく」
「丁寧に説明する」
「〇〇の意図はなかった」
「記憶にない」
「それは当たらない」
これらはある時から急に増えてきた言葉だそうだ
そしてそうなっているのは、現在の議員さんたちの人間性の劣化と同時に
マスメディアの劣化が拍車をかけているとしている
この本の著者の山崎雅弘氏は「天皇機関説事件」を図書館で借りて以後
個人的に注目している人物で、問題意識をもって丁寧に説いて行く方で
池上さんよりもっとわかりやすい気さえする
この本はメディア関係の人は読むべきだと思うし
少し面倒だが多くの人が読んで欲しいと思う
期待した結果が出なかったのは仕方ないとしても
(不満のほうが多いので先に行くことにしたが)
今回の件で反省すべきだったのは、この案件(養鶏場の裁判)を
ほとんどの市民が知らないという事実だった
この裁判は三年ほど前に新聞記事に載ったが
見ていない人も多いし、見たとしても忘れている人が大半だ
次の裁判で答えが出る前に、今更だが
原告たちは何故このような(過激な)行動に出たのか?
を多くの人に説明することは、その時起きていた奇妙な出来事の認識とか
今も市で起きつつあるかもしれない似たような危なかっかしい状況への
警鐘になると考えられるから、自分はなるべく多くの人にこの案件を伝えている
細かく話すと時間がかかる面倒くさい話だが
これを聞いた人たちはだいたい同じような印象を持つ
それはこちらがそう感じるように話している面もあるが
そうでなくても「何かおかしい!」と湧き上がってくるようだ
この話を聞いてくれた人のなかには、裁判に訴えたことに
感謝してくれている人も何人かいる
その人たちは、原告が「何かおかしいとか変だ」と思うのは無理からぬことで
そこで終わらずに行動してくれていることは
市が事業を進めるにおいて、チェックしている市民がいるということで
市や市議会に緊張感を与えるきっかけになると評価している
何も知らないところで粛々と進められていると思っていたことが
調べてみると、かなり怪しいと思われても仕方ないように進められている
それは問題意識をもって調べたからこそわかったことで
調べなければわからずに済んでいたことだった
そうしたことに取り組んでいてくれる人たちがいることは
ありがたいと話す
行動を起こす人は、現実としてお金(弁護士費用)と時間と
多少の精神的ストレスが伴う
そしてそれらの結果が好ましい形で出たとしても
自分たちの(経済的に)得になることは何もない
だからこそ、感謝していてくれるのだ
本当に実感するのは、物事はできる人が、できることから行う
という当たり前の事実だ
大きな理想を掲げた壮大なことではなく、これなら自分もできる
こういったところから一人ひとりがやっていけば何かは少しずつ変わる
(と思いたい)
今回の件で、普通なら知らなくて済んだかもしれない現実の厳しさとか
裁判制度への不満は、個人の心に刻まれれることになった
そしてそれは、世の中はなかなか思い通りにならないものだということに繋がる
だが、それでも、、、ここからは多分個性なんだろうと思うが
できることをする!としつこく思い続けることは、
自分が自分を褒めるためには必要だと感じている
ということで、自分を鼓舞する日々が続く
「これ読んでみりん!」
同居人が投書欄を指し示して新聞を渡してきた
読む場所はいつも違うことが多いが、時々ある光景だ
世の中には同じようなことが多いな
その投書を見て思う
そこには可燃ごみの収集場所にカラス対策のネットを用意しているが
そのネットが使われない曜日には、だらしなくほったらかしになっている
のが気になって仕方ない人の投稿が載っていた
幸い、最近はゴミ収集のスタッフがきれいに片付けておいてくれるので
安心していられるとあったが、我が家の近くの可燃ごみの収集場所も
似たようなことになっている
頭の良いカラスは食べ物の存在に気づくと、ゴミ袋をつついて穴を開け
そこから残飯を食べる
彼らはそれらが散らばってもお構い無しで、片付けようにも気力が失せる状態だ
それはカラス対策にかけられているネットが古くなって破れたり
サイズが小さくなっていたり、つまりは役立たずになっていたからだ
今までのネットは地元のある人がカラス対策用に自費でネットを購入して
取り付けたものだったが、それから時間が経って
今度もその方の世話になるのは心苦しい
こういうときは誰かがしびれを切らして何かすることで
一旦解決となることが多い
そしてその誰かは、今までの惨状をみて我慢できなかった同居人が
声を上げて、自分にいろいろ指示してとりあえず対策をすることになった
ネットは幸いお金を使わずに、あるところから借りてくることができた
ただしそのまま使うことができないので、横長のネットを半分に切って
それを縦に繋いで可燃ごみを被せる面積を大きくした
面倒くさいな、、と口に出そうだが、ここまできたら食べるのは後
同居人は目前の仕事に集中している(昼食前にこの作業に取り掛かった)
この人は偉いな!
何の得になる訳でもないのにこうしたことが、すっとできる
近所の道沿いの雑草をに抜いたり切ったりするのは
やはり我慢でできなくなったときだ
可燃ごみのネットは、使わない曜日にをまとめて小さな石を重しにして
ネットが広がらないようにしているが
近所の人たちはそうした使い方に気がついただろうか
難しいことはできなくても、できることをする
そんなことを教えられる同居人
しっかり者の妹はこうした人の娘だった
図書館に本を返しに行って、ついでに借りてきた本が
「堤未果のショック・ドクトリン」
ショック・ドクトリンはカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが
書籍化した本で、災害とか戦争とか不慮の出来事が起きたときに
どさくさ紛れに超法規的にいろんなことをしようとするもの
堤さんのこの本ではこのように書かれている
堤さんは9.11の事件の際、ニューヨークにいて自身がパニックになった
経験を持っている
確かにショックは大きく心の安定を失わせるものだったが
それより怖かったのはその後のアメリカの空気の変容だとしている
それはナオミ・クラインの唱えるショック・ドクトリンで
それはこのようになされるとしている
9.11以後のアメリカの変化は、経済的な分野にとどまらず
国家の安全保障の問題にも通じていて、なし崩し的に進められる法の変更等を
彼女は実体験として経験し、その怖さは読んでいても心拍数が上がりそうなものだ
実はこのようなショック・ドクトリンは日本でも利用されていて
マスメディアもその片棒を担いでいるかもしれないとしている
試しにチェックシートがあるので、一度トライしてみると良いかもしれない
思い当たるフシがあるのが恐怖感を覚えるが、何も感じない人も多いかもしれない
マイナンバーカードは政府がしゃかりきになって進めているが
その必要性は国民にはわかりにくいし、年寄が使うには現実的ではない
また同じようなカードのあるアメリカや他の国は
そのカードは持ち歩かないようにするように忠告している
だが日本は持ち歩かないと機能は果たせない
(落としたらどうするのだろう)
このマイナンバーカードに関する法律も、よく見ると不安を覚えそうだ
なんだか、責任はデジタル庁にないというところは
知らなかったので自身には責任がないとする政治倫理審査会の
自民党の議員を連想させる
ボンヤリとしていると、いつの間にか新自由主義者による
少数者の収奪が進み、結果平等どころか機会平等さえも
手にすることができないかもしれない
ということで、ひょいと図書館から借りた本だが
なかなかの問題提起の本ということで
これは多くの人に読んで欲しいと思う
ケースまでガッシリとして豪華だった
昨日、同居人に知られずにヤマト運輸の営業所まで取りに行ったのが
ウエスタン・エレクトリック社製の300B真空管2本
真空管の世界では王様扱いされる製品だ
昨年末、年内予約なら〇〇万円、年を越すと数万円アップと出ていたので
自分に言い訳を考えてエイヤッと注文をした
ちょっとした出費だが、いざとなれば中古オークションでも現金化できる
と思い込むことにした
問題は音だが、今のところは今まで使っているもので問題はなさそう
でも、手元にあれば試してみたくなるのは人情
どうせなら記憶に残りそうな日に初お披露目といきたいので
3月3日の桃の節句の今日セットした
さてどんな音が出るか
エージングをいくらかしないと落ち着いた音にはならないらしい
こうして写真を見ると、アンプは結構ホコリを被っている
もっと大事にしないとあかんな!と少し反省
最初に聴く音楽は何にしようか?
候補はキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」
あるいはスタンダード集(1)から 「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」
(この演奏好きなんだ)
あるいは、バッハの音楽の贈り物から「トリオ・ソナタ」
ウォーミング・アップもそろそろ完了する
縁起を担ぎたいし、初めての音楽は、、どうしよう
※結局、最初はバッハの音楽の贈り物からトリオ・ソナタ第1楽章
次にキース・ジャレット スタンダーズ1からゴッド・ブレス・ザ・チャイルド
そしてモーツアルトのK364のヴィオリンとヴィオラのための協奏交響曲から第2楽章
以上の曲を聴いた
バッハではエイジングが済んでないのに柔らかい音だなと感じたし
ゴッド・ブレス・ザ・チャイルドでは低温のベースの音が前よりくっきり聴こえる
やはり前の真空管は疲れていたのだろうか、、とも思ったりした
そしてK364では思わず泣きそうになってしまった
楽器の音が迫ってきて、演奏している息遣いまで聴こえる気がした
ということで、これからの音楽生活は楽しめそう
以前、登山しているときに写真を撮るのはやめるようにした
と決めたことはここで書いた
それは写真撮影に気がいって山を楽しめないからだが
これとは反対に写真を撮っておけばよかった!ということもある
9年ほど前、ドイツに行った
このときも昔旅したところを再び回って、そこでの自分の感じ方の違いを
見るためだったが、それ以外にも有名どころも抑えていた
有名なローテンブルクへ行く予定でニュルンベルクから列車に乗ったが
その列車は途中で止まって、それから先には行かないと車内アナウンスがあった
ネットで計画したコースでその先の駅で乗り換えるはずなのだが、何故か行かない
どうやらバスで乗り換えて、いくつか先の駅まで行くようになっている
となんとか理解してバスに乗った
このバスから見える風景がすごく興味深かった
バスは小さな町を巡ってのんびりと走っていった
教会、町役場?それぞれの家がこじんまりと固まって
それは生活を感じさせるもので、ドイツ人の本当の暮らしを
垣間見ることができた気がした
そしてそれは日本人の自分にとっては、まるでメルヘンの世界のように思えた
バスの時間は予定外だったが、この予定外の時間は本当に楽しかった
写真に撮っておけばよかった!
今でも残念に思えて仕方ない
記憶の中の風景は時間とともに美化されて更に忘れがたいものになっている
この日、電車に乗り換えて、そこで同席したドイツ人のおばさんが
とても親切な人で、ローテンブルクに行く方法を
駅のインフォメーションまでいって聞いてきてくれた
旅は困っても、なんとかなる!
と実感することが多いが、このような親切な人との出会いも
いい経験となった
50年ほど前には、バイロイトで初めて会ったフランス人のおばあさんと
ホテルを二人で借りて泊まった事もあった
(着替えのときは部屋から追い出された)
この方もとても良い方で、バイロイトの出しものまでの時間は
二人であちこち出かけたものだった
人の一生は記憶でできているのかもしれない
その記憶とか経験、それらは自分が満足できるものなのだろうか