我が家のしっかりものが非常用持ち出し袋のチェックをした
賞味期限の過ぎた乾パン、手軽な化学反応を利用した熱源も
2年ほど過ぎていた
しっかりものだからお金も用意していた
財布を見ると、新渡戸稲造の5000円紙幣が2枚入っていた
今は樋口一葉だから、ずいぶん久しぶりの対面だ
心配症は「使えるかな?」と不安の声
そこで、スーパーのセルフレジで使ってみることにした
今となっては珍しい5000円札
家には、記念用にとってある(2000円札も)
レジに新渡戸さんは入っていった
ところが直ぐにお釣りが出て来る場所からそのまま出てきた
もう一度繰り返したが同じことの繰り返し
つまりは新渡戸さんは今のセルフレジでは使えなかった
そこで銀行に行って両替をすることになった
ついでにお賽銭箱に入っていたものすごく汚い硬貨も両替を依頼した
その額、37円
でも硬貨は数が多いと手数料がかかる
そこで、かからないようにATMで10円だけ口座に入金して
窓口で5円が5枚、1円が2枚の27円に交換してもらった
そういえば新しい500円硬貨も使えないレジがある
便利になっていくレジでも現金主義の人には使いづらい!みたい
子どもの発想が斬新なのは、大人では当たり前の関係性ではなくて
大人では排除する関係性でも無邪気に結びつけているからかもしれない
それは生き物が生き延びるために、あらゆる可能性の突然変異を
起こすのと似ている気がする
生き物は意図を持って突然変異を起こすのではなく
手当たり次第に変化を起こし、その中で都合の良いものが
結果的に残るだけのことと考えるのが進化論の考え方のようだ
大人なら何かと何かは関連付けて記憶しているが
子どもはそうした知識がないために、
勝手に関係ないもの同士を結びつけてしまう
それが大人には斬新な発想と思えるのだろう
最近の囲碁、将棋の世界は若い人の活躍が目立っている
30代はもう現役のトップにはいられないかのようだ
それなりの経験を積んだ人は、直感的に良い手が頭に浮かぶそうだ
素人と玄人の違いは読みの深さではなく
最初に思いつく手の的確さとする調査もあるそうだ
(限られた時間内に手を選択しなければならないので、これは重要)
一方、経験の少ない人は手当たり次第にいろんな手を試みる
それはAIが様々な手を検討するのに似ているかもしれない
(もっともAIの方向性もプログラムを作る人の影響を受けているので
完全にあらゆる可能性を想像しているわけでなないと思うが)
そして従来なら顧みられなかった手も検討に値するとなって
経験以上の成果を得ることができるようになっているかのようだ
(これは想像でしかない)
これは他の多くの場合にも言えそうで
その世界の経験豊富な人間になるということは
実は良いことばかりではなさそうだ
特に最近の政治に関するメディアは、あまりにも通好みの内容になりすぎて
素人とか一般人が知りたい情報よりは、力関係のみを伝えている気がする
それは戦国時代の大名たちが誰と組んだら得か!
の判断を解説しているかのようだ
だが、肝心なのは組む相手の選択とか権力闘争ではなく
もっと根本的な「良し悪し」のはずだ
だが現実的には、これは話が遠いために、
断定的なわかりやすい権力闘争の扱いの方に流れてしまうようだ
ということで、世の中は「誰かが悪い!」
に集約されてしまう傾向にあるということ
でも、大衆はまさか「選んだ自分たちが悪い」
とは気づかないと思われる
例のごとく、まとまらない話!
世の中には適度な怒りは必要だと思う
一方的な思い込みによる怒りは好ましいものとは言えないが
それでも怒りのエネルギーは、その強さゆえに意味がないとは言えない
最近怒りを覚えるのは、政治倫理審査会でも問題の人たちの言論
追求が稚拙云々よりもはっきりしているのは
知らぬ存ぜぬという方針を徹底しようとする問題の人たちの意志だ
最初から本当のことを話す気がない人には
自白のような言葉を期待するのは難しい
責任には説明責任、道義的責任、結果責任があるとされているが
彼らはそのどれに対しても責任を果たそうとしないように見える
彼らがそれで良しとする根拠は推定無罪という考え方のように思える
「悪いことをしたとする証拠はあるのか?
ないなら推定無罪の原則で無罪だ」
推定無罪は刑事裁判で使われる言葉で被告としての有罪が確定するまでは
「推定無罪」の原則に則り、犯罪者のように扱ってはならないとする考え方だが
政治家のような公人に対してこの理屈を使うことは適切なのだろうか
公人である政治家などは、公金の不正使用や私物化などの疑いを
持たれないように、公的記録で潔白を証明する義務を負っている
一般の裁判では「犯罪の疑い」が濃厚でも、推定無罪の原則に基づいて
「無罪」として扱われることがある
それは潔白という意味合いではなく単に「グレーゾーン」との意味でしかない
上記の説明は「詭弁社会」山崎雅弘さんの本に書かれた一部で
まさに現在このテクニックが過度に使用されている気がしてならない
こうした場合、もやもやが鬱積する庶民の怒りはどういう形で現したら良いのか?
となるのだが、それは世論調査で支持率を下げるだけでは十分ではない
もっと強い気持ちを具体的に示すことが必要だ
つまりは選挙において、該当人物に対してキツイ結果をもたらすことが
必要だと思われる
だが、昨日近くの公民館で自民党代議士の国政報告会があったが
その場の雰囲気は、そうしたキツイ結果を出すようには思われなかった
そこに集まった人々は自民党関係の人々だったように思う
少し前に八名地区で行われたものよりは批判的な質問をする人がいたが
どうも「現実論として自民党を支持するのがベター」
と考えている人が多そうな雰囲気だった
自民党の底力を感じることになったが、こうして少しばかり大目に見ることが
日本にとって良いことかは大いに疑問を覚えてしまう
実は帰り道で、「口には出さなかったが代議士は麻生派の人間で
派閥も解消しないグループの人間だ、全部が全部肯定的には思えない」
と本音を漏らす人もいた
あそこにいた人々が報告の後の拍手と異なる判断をするならば
社会は少し変わると思われるが、人の心はどうなのだろう
ところでキックバックをやめるように安倍さんが言い始めたとする話
個人的にはにわかに信じ難いと思っていたが
昨日エックス(旧ツイッター)で、なるほど!と思われる投稿を見つけた
それはキックバック問題が明らかになる前のこと
キックバックを調査している上脇教授という人物がいて
追求されるとヤバいことになりそう、、との誰かから(この誰かが問題だが)
のアドバイスを受けて、安倍さんがやめるように言い出したとするものだ
なるほど、これならあり得ると妙に納得してしまった
もっともこれは逞しい想像の世界のことかもしれないが
そう考えるほうがスッキリするのは、仕方ないと思う
嘘をつこうとする人に、本当のことを話させるのは本当に難しい
最近はこれを痛いほど経験している
まとまらない話
既に何人かの人が指摘しているが、昨日の「光る君へ」で
道長がまひろに妻になって欲しいと申し込んだシーン
心はまひろ第一にあるが、地位としては正妻ではないが
勘弁して欲しいとする状況は、光源氏の最愛の妻
紫の上の立場を連想させるようだ
紫の上は、女三の宮が光源氏に嫁いだために
紫の上の形式上の立場は弱くなってしまったが
この関係が昨日の場面とシンクロしているとする見方だ
確かに今回のドラマは、源氏物語に採用された部分のネタ探し
に注目するとなかなか面白い
少し前は「雨夜の品定め」のシーンを連想させる部分があった
自分が気づかなかった部分では、源氏物語の桐壺のエピソードですら
ドラマで匂わせるような部分があったらしい
このドラマは単純にストーリーを追うだけでなく
このような別の楽しみ方があるわけだが、本来何かを楽しむということは
こうした深読みができるとか、それなりの知恵を持つことが必須なのかもしれない
何でもそれなりに知ってくると物事はより楽しめる
楽しむには少しばかり努力が必要ということだろう
地方議会では一般質問の傍聴者は少ないとはいえ何人かは見かける
だが予算決算委員会となるとそれは圧倒的に少ない
だが傍聴してみるとこれがなかなか面白い
それは市が使うお金のことを扱っているからで
そんなところに使っているのか!と思うことや
無駄だなと思うことが実感として感じられるからだ
今回、少しだけ傍聴して(新城のそれはとても長い)
頭に浮かんだことを2つほど紹介する
新城市は世界中の「新城」と名付けられた都市と
ニューキャッスル・アライアンスという提携をして
何年かごとに一箇所に集まって交流や会議を行うことになっている
その他にも提携している都市に人を派遣するようなことも行っているが
来年度は高校生10人をモンテネグロの「新城」に派遣する計画で
その予算を計上していた
10人分の高校生の旅費・滞在費が議員さんからの質疑で明らかになったが
高校生への市からの補助は5万円だった
もちろん5万円で全て賄えるはずがない
だから不足分は各家庭で補うことになる
現実は、ここでも親ガチャ!か
頭に浮かんだのはこの思いだった
若いときに外国を経験することは個人にとって素晴らしい体験となる
それを経験したほとんどの人間が同じような感想を持つようで
英語を話せるようにならないとダメ!とか
自分自身の意見を言えるようにならないと認めてもらえないとか
自分の住んでる町や国のことをもっと知ることの重要性を再確認したとか
そういうことを身にしみて感じるようだ
つまりは個人の内的な経験として、有効なきっかけとなる
ところが、5万円の補助だけだと実際にかかる費用は必然的に各家庭の負担だ
すると、実際に行けるのは家庭のお金の余裕のあるひとに限定されてしまう
派遣高校生は抽選で選ばれたり何らかの選択方法で決められ
一見機会均等に見えても現実はそうではないようだ
(お金のない人は体験の格差が生じてしまうということ)
それは仕方ないことなのだろうか?
市の予算は潤沢な訳では無い
その中で良かれと思われることを選ぶのだが、
こうした社会的に生まれている不公平はなんとか
なんとか打開策はないものだろうか?と考えてしまう
(全額補助というのは無理なんだろうか?)
これにはいろんな意見がありそうだが、経済的弱者にも
機会を与える方法があっても良いと思う
もう一つ予算決算委員会を見聞きして感じたことは、
新城市は異様に会議が多いのではないのか?ということ
若者議会、地域自治区の地域協議会、市民自治会議、
まちづくり集会に関する会議、その他にもいくつかある
会議が多いだけなら、担当者の方々にはご苦労さま!で済むのだが、
現実には会議出席には出席手当が支払われている
そしてその費用はちょっとばかり大きな金額に達している
地域自治区を採用している他の自治体の地域協議会では
メンバーに出席費用は払わないものとしているところもあるようだ
出席者の費用の有無が問題というよりも
そもそもの会議の存在が(実態を見たうえで)有効かどうかを
そろそろ検討してみるべき時期にきているような気がする
自分が幾つか見た会議は、会議をしただけ!(時間を費やしただけ)
の印象に残らないものがあった
昔、原稿用紙で100枚を超える物語に挑戦したことがあった
勢いに任せて書き進めていったが途中で収集がつかなくなってあえなく挫折!
今は、そんなこともあった!と思い出だけになっていたが
先日、知人に「なにか書いたことはあった?」と聞かれて
久しぶりにこのことを思い出した
そこで知人には大まかなストーリーを話し始めたが、案外忘れていた
謎が多くて面白そう、、と自己評価していて
一度だけ途中の段階のそれを見せた人があった
今も書棚のある場所にそれ(原稿用紙)はとってある
読み返せばその当時のことを思い出しかもしれない
自分でつくっておいて記憶が曖昧なのは情けないが
必死に思い出せば思い出せるかもしれない、、と
振り返るのも悪くないかもしれない
舞台は何故か外国で、中心人物はフランスの女の子の告白から始まる
彼女は田舎の友人たちとは自分が少し変わっているいる人間であることは自覚していた
そして変わっている自分を産んだ母は、田舎の平凡な父と結婚して
自分と兄を育てたのはなんとなく納得できない思いでいた
母はもっと別の人と結ばれるべきだった思っていた
(父のことは好きだが、その思いは消し去ることはできなかった)
母は彼女が小さい時になにかの理由で亡くなった
その理由は父も祖母も何故かみんな口を閉じていた
兄は成長して画家になった
そして彼はある時、絵画コンクールで賞を得た
だが、彼はそれを少しも喜ばなかった
青い目のマリーは夏休みの旅に出た
電車の中で同じくらいの年齢の女性に会い、話が盛り上がった
彼女は電車で知り合った若い男と直ぐに関係を持つような行動的な人だった
男と女の関係というのは、、、理屈じゃないかもしれない
夏休みで訪れた場所は海沿いの観光地
そこで彼女は一人の日本人の男性から声をかけられた
「◯◯さんの娘さんではないですか?」と
彼は母をよく知る人だった
というより母の運命の人だった
彼は画家で、母とは結婚寸前まで行ったことを告げ
彼が母から受け取った最後の手紙を大事に所有しており
それを娘であるマリーに見せた
そこに書かれていたのは、普通の生活を安心して迎えるタイプの
平凡な人間である自分は(母は)精神の活動を至上のものとする人とは
一緒になれない、、ということが綿々と書かれていた
母が平凡な父を選んだのは理由のあることだった
話は兄の独白に変わる
兄が受賞した作品は実は模写したものだった
それは母が日本人の画家からプレゼントされた作品で
兄はある時それを見つけ、魅入られて必死に模写したのだった
たまたまそれを応募して、受賞などしてしまったから彼の悩みは深くなった
あの作品は自分のつくったものではない
それどころか、自分にはそもそも最初からそういう特別な能力はないのではないか
創造者の資格はないのではないか、、
彼の苦悩は続く
このあたりから自分の能力では話にまとまりがつかなくなって
訳がわからなくなっていく
最後に母の死は実は事故によるものだが、その事故は青い目のマリーが
幼いときに間接的に引き起こしたものだった
家族は幼すぎて記憶が残っていないマリーにはそのことを知らせないように
口をつぐんでいたのだった
さあ、ここからどうまとめるか!
真の創造者はここからの馬力が違う
物語の母とか兄のように平凡な人間である自分は
結局は、未完のまま討ち死に!
今は、いい思い出となっているわけだ
こうして振り返ってみるもの悪くないかもしれない
さてこれからは、思い出に浸るか、再挑戦にトライするか、、、
4合のお酒を8日間かけて飲む
つまりは飲み手ではない自分だが、時々好んで購入するのが梅酒
蝶屋の梅酒のいろいろ、日航の機内で使われる梅酒などある内で
最近気に入ってるのが「日本酒でつくった梅酒」
大吟醸「空」(くう)で有名な隣町の関谷酒造で作られたお酒だ
(空の看板を知らない人が見ると、そらと読んでしまうそうだ)
飲み手ではないので辛口が良いなどとは言わない
飲みやすいのが良い
少し飲むだけだから(食前酒くらい)口当たりの良いほうが好ましい
焼酎のものよりは柔らかなもったりした感じ?
でもこの商品、直ぐに店から無くなってしまう
次に店に行った時はあるかな
NHKの大河ドラマ「光る君へ」の先回は
家族で見る人も多いあの時間に、まひろと道長のあんなシーン
が出てきて落ち着いて見ていられなかった親御さんもいたと思われる
このラブシーンと花山天皇の出家の陰謀が同時進行したのだが
もしかしたら男は陰謀の方に関心が集まり
女は恋愛のほうに関心があつまったのではないか?
と勝手に思ってしまった
子供の頃の男は機械ものに関心が集まり
女は食べ物とかファッションに関心が集まるように
根本的に向かっていく方向が違うと思えるから
そんな風に思ったのだが、さてどうなんだろう?
今年の大河ドラマは、放送後のYoutubeを見ると面白い
ものすごく細かな解説があったり、歴史を教えてくれたりする
先日も知り合いと話をしていたら、彼もYoutubeで復習をしているとのこと
つくづく、そう言う時代になったものだと驚く
ところで、まひろ(紫式部)は源氏物語のエピソードのネタを
どのように仕入れていったか?と考えながら見るのもちょいと面白い
先日は「雨夜の品定め」のネタと想像されるシーンがあったし
Youtubeでは深読みする人たちがいろいろ教えてくれるし
今のところ昨年の家康よりは、個人的には面白いと感じている
季節の変わり目は体調が優れないことがある
新聞に「めまい症」に関する書籍の広告が目に入った
似たような思いをしている人が結構いるものだと想像した
新聞広告もそうだが目に入るのは関心のあること
同居人とはいつも違うが、今日目に入って写真を撮っておいたのがこの記事
新アリーナ建設絡みで騒がしい豊橋市のニュースだ
豊橋市は地方自治法による住民投票を求めたが、署名数は規定に達したものの
議会で否決されたので住民投票は実施されなかった
すでに住民投票の経験のある新城市民としては、署名活動をした人を思うと
少し同情してしまう
この記事は、新アリーナの市場調査として豊橋市が日本総合研究所に依頼したが
その最終報告書が豊橋市主導で本来のものとは違う内容に修正されていたとする内容だ
日本総合研究所は民間資金活用による社会資本整備の一種PFI-BTOと
民間事業者に運営権を与えて自由度を高めるBTコンセッションの2つの方法の比較が行われ、
前者は赤字、後者は黒字との試算が出たが、最終的な報告書では前者のPFI-BTOの予測だけが
掲載されていたというものだ
収支以外にも周辺環境の影響についても修正がなされているとされている
この記事で驚いたのは豊橋市職員の次のような言葉だ
「係争中なので取材に応じられない」と話す一方で
「今回の報告書のような報告書で業務委託先に
修正や削除を指示することは一般的にある」
こうした行政主導の数字の修正とか評価の違いは珍しいことではなかったのか
それが、現在自分たちが抱えている事例に関してもなされているとしたら、、、
思いつくのはこのことだった
つまり、不動産鑑定も委託業者に市主導で意図的に算出(修正)されているとしたら
そしてそれらは一般的にあり得ることだとしたら、、
このような逞しい想像力は、実は突飛なものではない
数年前行われた「新庁舎建設地以外の移転補償費に関する裁判」で明らかになったのは
市がコンサルタント会社に依頼した報告の内容が、最終報告の3ヶ月前とは
全く反対の意見であったのだ
そしてその判断は3ヶ月前の報告のほうが実態を反映していて正確と思われるものだった
裁判はこの証拠が力を発揮して訴えた側が負け!ということにはならなかった
(勝ったとも言えないが)
そして直近では新城市では似たような事件が起きていた
それは新城市が随意契約をした家屋調査の委託業者が
「職員らの求めに応じて完了していないのに嘘の完了届けを提出」し
それを元に委託業者は契約料金を受け取ったというものだ
これは流石に許しがたく県警がはいるという事件になってしまい
新聞記事にもなったし、市議会でも問題視された
しかし、これらは今回はたまたま見つかっただけのことで
実はもっと頻繁に似たようなことは起きていたのではないのか
こうした幾つかの事例を知ると、それは決して想像力の賜物だけではない
と思えて仕方ない
それにしても、豊橋も新城も問題が多い
豊川市も蒲郡市も田原市は大丈夫なのだろうか?
とつい余分な心配をしてしまう
高校時代の音楽の時間、歌うのが好きだったのがシューベルトの「冬の旅」
一曲目のおやすみ、それからイタリア民謡の「帰れソレントへ」とか
トスティの「マレキアーレ」だ
後者は声をいっぱいに張り上げて歌うのが心地よかった
シューベルトはピアノ伴奏がとても魅力的に思えた
しかし、冬の旅はハンス・ホッターの歌うレコードを聴いてから
聴くのが辛くなった
そこには単色の風景が思い浮かび、絶望しかないようなイメージが浮かび
気楽に向かい合えない気がしていた
だから「冬の旅」は聞くことは多くなかった
だが不意に冬の旅を聴いてみようか!
という気になって、やはりハンス・ホッターのものを引っ張り出した
レコードはフィッシャー・ディスカウのものもあるが
音色の変化とか転調の効果があまりにも賢く思えて
無骨で真面目なホッターを聴いてみることにした
すると案外思い違いをしていたことに気づいた
ハンス・ホッターの声は思いの外良かった
良かったというより美しいと思えた
解釈がどうの、、という前に、素材としての声が良い
それは若い時には思えなかった点だった
そして、冬の旅はやはり傑作なのだろう、、
と当たり前の事実を今更感じた
「冬の旅」は実演ではラ・フォル・ジュルネでロシアのピアニストの伴奏で
聴いた気がするし、宗次ホールで女性の歌い手さんと
現代音楽の作曲家兼ピアニストの伴奏で聴いた
だがそれは残念ながらあまり感動するものではなかった記憶しかない
ということで、久しぶりの「冬の旅」の鑑賞は思いの外良かった
そういえば、10年ほど前、1月の冬の時期に郡山から会津若松に向かう列車のなか
外は雪景色で光は乏しく、曇天の窓の外は雪をかぶって木々は薄っすらと見えるだけ
それは幻の太陽の下での景色のようで、それらを見た時には
「冬の旅」の心象風景のような気がしたものだった
そしてその心象風景はとても美しかった