最近気になっている言葉が「一次資料、自然法、ルサンチマン」
一次資料は歴史研究に使われる言葉で
「対象となる出来事と同じ時期に書かれた新聞記事、本、音声記録、写真、
日記、絵画、映像、政府文書などの資料」との解説がネットに出ている
自分がこの言葉を知った時は、一次資料は「出来事の関係者、当事者」が残したもので
それを見聞きした人がそれを参考に残すものを二次資料とすると理解していた
今、この言葉が気になっているのは、自分たちが当事者である案件を
なにかの形で残しておかないと、後の時代に勝者によって都合よく
書かれたものが残されることを危惧するためだ
その案件とは行政訴訟のこと
いつかは結論が出るが、裁判で結論が出たと言ってもそれが完璧に真実とは限らない
以前から文句を言っているが、市民が手にできる証拠は行政によって限定されている
都合の悪い書類は「不在」として扱われ、出てくるのは自分たちに有利なものだけ
そこまで極端ではないにしても、この傾向はおそらくどこでも存在する
だからこそ、結果がどうであれ当事者の記録(感情を含めた)を残すことは意味がある
と思われる
以前、新城市の住民投票について静岡大学の学生が研究・調査を行って
そのメンバーが住民投票に関わった市民の話を聞きにきたことがあった
彼らが事前に手にしていた資料は市のホームページなどからもので
一見客観的に見えるとしても、住民投票を求められたのは市側で
その立場からの記述が多いのではないか、、と思われた
そこで、おせっかいにも彼らは知らないだろうと思われた当事者である市民側の
活動記録(怒りの感情を含めた)を提供することにした
そこには市民に向けて公平に行われると思われた住民投票の2つの意見の討論会が
実は全くそうでなかったことも残されている
それが市側の説明によれば、市民自治条例にある「まちづくり集会」で
2つの意見の是非を討論会形式で行われた、、、くらいな記述だろう
でも実態はそうではなかった
当事者から見ればとんでもなく不公平な集会だった
これはこのブログの住民投票のカテゴリーに残されている
歴史は勝ったもの、支配する層が残す
だから「彼の話」ヒストリーという言葉があるのだろう
この話をしだすと怒りで止まらなくなりそうなので
とにかく敗者を含めた一次資料はとても大事ということ
次に「自然法」について
この言葉に対するのが「実定法」
後者はいわゆる明文化された判断基準となるもの
一方自然法は人間がなんとなくそうした方が良いと感じるような
正義感とか倫理観とか道徳みたいなもの
ぼんやりとしているがとても重要なものだ
今の世界は実定法で過度に運営されている
つばさの党の選挙妨害にしても、表現の自由とか政治活動の云々などと
言い出すと収集がつかなくなる
誰もが「それはないでしょう」と思われる行為として
よろしくないと判断したほうが世の中は上手く回ると思われる
実定法は時代・社会によって運用が実態と合わなくなってくる
未来のことを想像する時は人間のもっている叡智を信用して
つまり自然法の知恵を借りて判断するのが適切だろうということで
自然法は実定法よりも上位の概念らしい
ところが世間で幅を利かすのが、専門家が物事をより難しくしてしまう実定法主義
実定法が悪いというのではなく、もう少し人間の本姓を信用する自然法の概念を
大事にしてほしいということ
最後に「ルサンチマン」
ネットで調べると、弱者の怨恨、遺恨、復讐感情。
特に、ニーチェの用語で、弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、
内攻的に鬱積した心理をいう。
とある、そしてこれはネットのSNSでのヘイト的な内容とか人格否定のような
極端な言動の原因理由だとされている
そしてそれは、そうかも知れない、、と実感する
ということで、すべて社会にちょいと文句があるという内容
あまり面白くない内容だと思われるが、自分にとってはとても大事なことなので
備忘録とした
相変わらず、まとまらない話