民主党のみ党独自の普天間移設案を提示しないのはなぜなのか

2010-03-11 07:16:38 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 3月8日に社民、国民新の両党が普天間移設案を政府・与党の検討委員会に提示した。

 《シュワブ陸上案で調整 普天間移設 社・国が案提示》東京新聞Web記事/2010年3月9日)

 社民党案は、〈グアムや米自治領北マリアナ諸島テニアンへ移す国外案を第一とし、実現困難なら県外の国内に移す内容。地元の反発から、具体的な候補地は検討委に参加する阿部知子政審会長、服部良一衆院議員が非公開の私案として示した。陸上自衛隊東千歳駐屯地(北海道)、陸自北富士演習場(山梨県)、米軍岩国基地(山口県)、海上自衛隊大村航空基地(長崎県)など七、八案を示したもよう。〉

 国民新党のシュワブ陸上案は、〈千五百メートルの滑走路を建設するもの。同党は米軍嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)への統合案も示した。いずれも十五年の暫定利用としている。〉――

 政府は5月決着を公約とし、アメリカ側にも「トラスト・ミー」と約束しているから、両党案を叩き台にいずれかに嫁ぎ先を決めるということになる。自民党が5月決着が不可能だった場合は退陣を求めるとしたのに対して鳩山首相が「覚悟を持って臨む」と応じたから、公約に反したなら退陣だなと思ったら、野党の挑発には乗らない、決意の程を示したに過ぎないと解釈訂正したから、まさしく「トラスト・ミー」である。

 社民党と国民新党が移設案を提示した。与党が社民党と国民新党の連立政権ならそれでいいが、民主、社民、国民新の3党連立政権である。社民と国民新の2党のみ提示し、3党連立政権のうち最大議席数を有し、連立の要となる民主党が提示しないのはなぜなのだろうか。

 このことを問うマスコミは調べた範囲では皆無となっている。

 民主党が普天間基地移設問題にノータッチだったわけではない。常に積極的に関わってきた。以前ブログにも書いたことだが、民主党マニフェスト07年版は、「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化に応じて国外への移転を目指す」(琉球新報)と、県外・国外移設を堂々と謳っている。

 但し衆議院選挙向けた09年版マニフェスト「政策集インデックス2009」は次のようになっている。

 〈外務・防衛

 新時代の日米同盟の確立

 日米両国の対等な相互信頼関係を築き、新時代の日米同盟を確立します。そのために、主体的な外交戦略を構築し、日本の主張を明確にします。率直に対話を行い、対等なパートナーシップを築いていきます。同時に国際社会において、米国と役割を分担しながら、その責任を積極的に果たしていきます。

 米国との間で自由貿易協定(FTA)を推進し、貿易・投資の自由化を進めます。

 日米地位協定の改訂を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進めます。〉――

 「在沖海兵隊基地」の文言はどこにもなく、07年版から「トラスト・ミー」が遥か後退している。

 後退したとしても、衆議院選挙を09年版通りに戦うなら整合性が取れる。沖縄基地問題に関しては07年版は反故にしました、09年版でいきます、と。

 だが、09年衆議院選挙戦では当時の民主党代表鳩山由紀夫自らが先頭に立って、「トラスト・ミー」の07年版マニフェストで戦っている。

 《普天間、県外移設「行動する」 民主党・鳩山代表》琉球新報/2009年7月20日)

 09年7月19日、民主党候補の選挙応援に駆けつけた沖縄市民会館で次のように演説している。

 「県外移設に県民の気持ちが一つならば、最低でも県外の方向で、われわれも積極的に行動を起こさなければならない」

 「日米政府の合意を『何も変えてはいけない』と地元に押しつけるのは、違うと思う」

 これらの言葉には例え無意識下であっても、「トラスト・ミー」の意識を込めていたはずだ。込めていなければ、口先だけの言葉と化す。政治家は常に「トラスト・ミー」の意識に立って発言し、行動しなければならない。

 そして8月30日の投票、政権交代、内閣成立後の9月21日~26日の日程で訪米。24日夜(日本時間25日昼)、ピッツバーグ市内で同行記者団と懇談。以下のように発言している。

 《普天間は県外移転 鳩山首相が表明》琉球新報/2009年9月25日)

 鳩山首相「ベースの考え方を変えるつもりはない。だが年内に決めなければいけないかどうかは見極める必要がある。オバマ米政権の関心は、アフガニスタンの課題が先だと認識している」――

 選挙戦で訴えてきたとおりに「基本(=ベース)の考え方を変えない」と宣言したということであろう。記事も、〈県外移転前提に移設計画を見直す考えを表明した。〉としている。

 いわば選挙期間を通して一貫して“トラスト・ミー県外”を発信し続け、日米合意を言いつつ、現在もなお「トラスト・ミー」と沖縄県民の気持を訴え続けてきた。こういった鳩山首相を先頭とした民主党の「トラスト・ミー」の反映として現れた沖縄県民の県外・国外移設への期待値でもあろう。

 鳩山首相以下の「トラスト・ミー」に沖縄県民の多くが乗っかったと言い換えることもできる。

 であるならば、民主党自身も最低限、県外移設案の提示があって然るべきだが、県外どころか、県内移設案の提示もない。国外・県外移設を謳っておきながら、実現不可能となったことからの責任逃れの提示回避なのだろうか。

 既に多くのマスコミが政府が沖縄県内移設の方向で検討を進めていると推測している。

 3月2日、長島昭久防衛政務官(民主党衆院議員)がブルームバーグ・ニュースのインタビューに応えて次のように発言している。

 《防衛政務官:普天間は県内移設が現実的、暖かい見返りを》ブルームバーグ/2010/03/03 13:32)

 「米国がなぜアジア太平洋地域に前方展開しているのかという問題に直結している。オペレーションの上で現実性がないといけない。・・・・ある程度、沖縄で受け止めていただかなければならない。負担を理解してもらうだけの、もう少し沖縄に対して暖かい見返りを提供することで何とか満足していただくという道があると思っている」

 ――沖縄に基地を残すということを示唆したのか?

 「イン・オキナワ、イエス」――

 県外・国外移設を言い続けて、その実現を果たすどちらかへの移設案の提示を目指して鋭意努力中であったなら、「ある程度、沖縄で受け止めていただかなければならない」などといった発言は出てこない。どちらへの移設案の提示も考えていなかった上での「ある程度、沖縄で受け止めていただかなければならない」である以上、県内移設=「イン・オキナワ、イエス」以外ない唯一残された道ということであろう。

 民主党による県外・国外移設案提示ナシという現時点での結末を見ると、1月24日投開票の辺野古移設反対派稲嶺市長当選を受けて平野官房長官が、「民意の一つであることは事実であり、それを否定はしないが、今後の検討では、そのことを斟酌して行わなければいけない理由はないと思う。名護市辺野古への移設という選択肢をすべて削除するということにはならない」(NHK)と発言したことは、移設案提示回避に向けた伏線を示していたのかもしれない。

 例え止むを得ない選択であったとしても、二つの問題が残る。

 一つは言ったことが実行できていないこと、「トラスト・ミー」が「トラスト・ミー」となっていないことであろう。

 二つ目は、県内移設先として国民新党のシュワブ陸上案を考えているなら、そのことを正直に言うべきを何も言っていないことである。言わないままにしておくのは県内移設となった場合の鳩山内閣に向けられる沖縄県民の批判を国民新党案に乗っかった県内移設ということで、間に国民新党を置くことになり、批判を和らげるクッションの役目を負わせようとする打算からだと疑えないこともない。

 少なくとも共犯行為となり、責任を分割できる。

 鳩山首相が言う「トラスト・ミー」も、平野官房長官が言う「トラスト・ミー」も、アメリカ向けの言葉で、沖縄向けでなかったらしい。

 鳩山首相は「命を大切にする政治」をモットーとしている。勿論、無意識下に「トラスト・ミー」を置いたモットーでなければならない。だが、いくら「トラスト・ミー」を発信したとしても、相手に通じない「トラスト・ミー」であったなら、誰からも相手にされない「命を大切にする政治」となる。

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核密約/安倍元首相が言うように「日本を守るため」の判断なら政治に秘密があっていいのか

2010-03-10 07:11:37 | Weblog

 昨3月8日「JNN世論調査」記事――

 鳩山内閣を「支持できる」――37.7%(前月比-6.7%)
 鳩山内閣を「支持できない」――61.9%(前月比6.9%)

 政党支持率
 民主党――29.6%(前月比-2.0%)
 自民党――19.3%(前月比+0.6%)

 夏参議院選挙投票先
 民主党――25%
 自民党――20%
 まだ決めていない――41%

 無党派層
 民主党――7%
 自民党――10%
 まだ決めていない――69%

 「総理大臣を任せたい国会議員」

 自民舛添要一――13%(1位)
 鳩山首相   ――8%(2位)
 谷垣自民総裁 ――1%(その他大勢の中)
 小泉進次郎  ――1% 

 授業料無償化の対象に朝鮮学校も含めるべきか
 含めるべきだ――35%
 含めるべきではない――53%
 答えない・分からない――12%


 歴代自民党政権が「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を日本の核政策としながら、「持ち込ませず」に関して日米間に事前協議の対象外とした密約の存在を指摘した外務省有識者委員会報告書の提出に関して、自民党の安倍元首相が「いわゆる核の密約についての申し渡しは前任者(小泉純一郎元首相)からなかった」とした上で、次のように国会内で記者団の質問に答えたという。

 《【密約】安倍元首相「核密約の申し渡しはなかった」》msn産経/2010.3.9 17:14)

 「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した。秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難するのではなく、今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」

 「日本を守るために判断」することなら、政治権力が国民に対してどのような秘密を持っても許されるのだろうか。

 許されるなら、「秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難する」ことは安倍晋三が言うように間違っていることになる。

 だが、許されないなら、「秘密を暴露して、過去にそういう判断をした人たちを非難する」ことは間違ったことではなく、逆に二度と繰返さない今後の教訓とするためにも、“非難”されたことの事実の内容、非難されることを行った者の名前を歴史に刻み込むべきではないだろうか。

 政治権力がいつ、如何なる場合でも国のため(=国を守る)と称して国民に事実を隠してまで政治を行っていい理由があるだろうか。「平和のため」だとか、「国を守るため」だとか、「お国のため」だとか、政治権力が唱える正義が常に国民にとって正義である保証とならないことは戦前の戦争が何よりも証明していることで、政治権力にとっての単なる虚栄や利害、あるいは判断の間違いといったケースもある。

 政治権力が常に絶対でもなく、常に正義を体現するわけでもなければ、国民に知らされない秘密はあってはならないはずだ。国民に秘密を持たないことによって、いわば政治権力が国民にとって常に裸の状態であることによって、あるいはすべて国民の目に見える状態を保つことによって、政治権力は自らの間違いをよりよく制御し得る。

 国民の判断がよしとして認めた政治の間違いなら、国民の責任となる。

 国民の利益に適うなら、秘密はあってもいいという論は一見正しいように見えるが、国民の利益に適うとする解釈が常に正しい保証はない以上、それを判断するのは政治権力側ではなく、国民の側になければならない。当然、秘密があったのでは国民は判断の任を負えなくなる。

 また“判断”は“知る”行為を前提とせずに成り立たない。国民に知る権利を認めているのは、その権利を遮断することになる秘密を排除することをも含めているはずである。

 元々民主主義国家に於いては政治は国民の負託を元に行われるのだから、政治権力は国民と情報を共有する責任と義務を負うはずである。当然、国民に知らされない秘密は存在しないことになり、存在させてはならないことになる。

 またそのための国民主権でもあるはずである。

 勿論、政治を行う上で、特に外国との交渉が関わる外交に関しては秘密保持が必要なケースもあるだろうが、その判断が正しかったかどうか国民に知らせ、検証を受けるために何年を経過した外交文書は公開するという情報公開のルールが民主国家には存在する。

 いわば一定期間を置いて政治権力は自らを裸とする義務と責任を負う。

 このことは政治権力は国民に対して秘密を持ってはならないという原則に立ったルールの反映物でもあるはずである。

 今回核密約に関して破棄された文書の存在が疑われるということだが、事実なら、一定部分の政治行為を国民の目に見えない闇に葬り去ったことを意味する。これは国民の負託に対する裏切り行為でもあろう。
 
 政治権力はいくらでも国民を騙せる位置にいる。このことも戦前の日本の政治権力が証明してくれる。大本営発表と称して、国民を騙すニセの事実をタレ流した。新聞・ラジオにウソの事実を発表させた。天皇にまで、ウソの戦果を伝えた。結果、ムダに戦争を長引かせることとなった。何しろ大本営発表上は日本はアメリカに対して有利に戦争を進めていることになっていたからだ。有利に進めているとしたために、そこでやめる手を自ら縛ってしまった。

 戦後の日本が国民の負託を受けて政治を行う民主国家としてスタートを切ったことを無視して、安倍晋三は無責任に政権を投げ出した愚かしい政治家らしく、結果的に投げ出したことは正解ではあったが、いわばその無責任さが偶然にも助けた政治推移であったが、「日本を守るために判断」することなら、政治権力は国民に対して秘密を持ってもいいとしている。
 
 これは国民と情報を共有することで果たし得る民主主義に則った負託違反を意味する。

 負託違反は最終的な判断は国民が権利として持つとするルールの無視そのものであるが、このことは「今後、日本の安全に資する形で考えていくべきだ」という言葉に象徴的に表れている。

 誰が「日本の安全に資する形で考えていく」か、その誰かは政治権力(=国家)を指していて、その判断による執り行いのみを言うことで政治権力(=国家)を常に正しい場所 無誤謬とする場所に置いている。

 だからこそ、「当時は冷戦時代で指導者が日本を守るために判断した」と核密約を正当化できるのだろう。
  
 だが、政治権力(=国家)を常に正しいとする無誤謬の場所に置くことによって、逆に最終判断の権利を持つ、当然権利と同時に責任を持つ国民の存在及びその判断を無視し、省くことになっている。このことが負託違反に当たる。違反に気づかないのは安倍晋三が代表的な国家優先の(=国家の判断を優先する)国家主義者だからだろう。

 安倍晋三と同じ代表的な国家主義者の一人である麻生元首相も核密約を正当化している。

 《【密約】麻生前首相、「自分は承知していない」とコメント》msn産経/2010.3.9 20:19 )

 「『密約』については、自分は承知していない。核の持ち込み問題についての当時の国会・国民への説明ぶりは、我が国の安全保障を確保するとの観点に立った賢明な対応であったと考える。そのような対応により、今日の我が国の安全と繁栄が確保されていると考える」――

 これは国民の利益に適うなら、秘密はあってもいいとする論と同一を成す発言であると同時に、安倍晋三と同じく、政治権力(=国家)無誤謬説(政治権力、国家の類は常に正しいとする説)となっている。

 冷戦の影響を受けてどうしても秘密が必要だったとしても、政治権力側のその判断は最終的には国民の判断を受けるべきで、その判断を待たずに政治権力側に立っていた者が国民の判断抜きに「賢明な対応であった」とか、「今日の我が国の安全と繁栄が確保されている」と正当化していいものではないはずだ。

 いわばこのようなゴマカシの正当化を 「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を提唱した佐藤栄作元首相も犯している。

 《日米密約:佐藤栄作元首相「非核三原則は誤り」》毎日jp/2010年3月9日21時07分)

 1969年の沖縄返還交渉時に、「『持ち込ませず』は誤りであったと反省している」と、外務省幹部との会議で発言していたことが9日公開の外交文書に記されているという。

 意識の中では自らの政治性から「持ち込ませず」を抹消し、非核三原則を破綻させておきながら、そのゴマカシを隠して1974年に非核三原則の提唱などが評価されノーベル平和賞受賞の正当化を果たしたのは政治権力者であった自身と国民に対する何よりの欺瞞行為であったはずだ。

 政治権力(=国家)のどのような政治判断であっても、最終的な判断は国民の側に権利として存在する。政治権力(=国家)のみの判断で終わらせてはならない。

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「総理大臣を任せたい国会議員」の第1位を舛添と見る有権者の鑑識眼

2010-03-09 07:37:07 | Weblog

 昨3月8日「JNN世論調査」記事――

 鳩山内閣を「支持できる」――37.7%(前月比-6.7%)
 鳩山内閣を「支持できない」――61.9%(前月比6.9%)

 政党支持率
 民主党――29.6%(前月比-2.0%)
 自民党――19.3%(前月比+0.6%)

 夏参議院選挙投票先
 民主党――25%
 自民党――20%
 まだ決めていない――41%

 無党派層
 民主党――7%
 自民党――10%
 まだ決めていない――69%

 「総理大臣を任せたい国会議員」

 自民舛添要一――13%(1位)
 鳩山首相   ――8%(2位)
 谷垣自民総裁 ――1%(その他大勢の中)
 小泉進次郎  ――1% 

 授業料無償化の対象に朝鮮学校も含めるべきか
 含めるべきだ――35%
 含めるべきではない――53%
 答えない・分からない――12%


 「総理大臣を任せたい国会議員」に早くも小泉進次郎が顔を出して、谷垣自民党総裁と肩を並べている。いくら世襲、親の七光りとは言え、並べられた谷垣天下の自民党総裁はどう快く思っているのだろうか。

 安倍晋三を2006年に自民党総裁に選出する際には自民党の殆んどの派閥が政界のプリンスと持てはやされた安倍晋三にバカでもチョンでもの支持の雪崩現象を起こし、朝日新聞の2006年9月8日、9日の緊急電話世論調査でも当時の安倍晋三官房長官、若きプリンスに「次の首相にふさわしい人」はこの人だと54%の有権者がツバをつけ、対立候補の谷垣財務相11%、麻生外相10%と、両者には殆んどの有権者は眼中に置かなかった。

 そのように自民党派閥と有権者の圧倒的な支持を受けて内閣発足時は70%近い支持率を頂戴していたが、稼いだカネのように銀行に預けて温存してあとで不足分を小出しに引き出して補うわけにはいかず、2007年7月の参議院選挙で安倍内閣の自民党が大敗すると、次の衆議院選挙では安倍晋三では戦えない、選挙の顔を変えるべきだと“安倍降し”の嵐が吹きまくった。

 それ以来、総裁に選出するときはフィーバー状態を呈しても、たいした時間を経ない“総裁降し”が自民党の歴史と化し、文化となった。

 “安倍降し”に始まって、“福田降し”、“麻生降し”と歴史を繰返し、文化を引き継いだ。そして現自民党総裁谷垣に対する“谷垣降し”がまさに幕を切って降ろされようとしている。「総理大臣を任せたい国会議員」が「政治とカネ」の問題で支持率を下げているとは言え、与党首相の8%に対して最大野党自民党の総裁が自民党新人議員と肩を並べる1%の位置にやっとつけているようでは、“総裁降し”の嵐が吹いても止むを得ないということか。

 しかしこの歴史と化し、文化となった“総裁降し”の嵐は同時に初期の世論調査の支持率が如何に当てにならないかということをも証明している。世論調査の支持率は有権者が決める。期待しては裏切られる歴史を繰返していながら、同じ歴史を繰返すこととなっているにも関わらず、相も変わらず同じことを繰返すことになっている。前以てどんな政治家かを見る鑑識眼にどこも狂いがないからこそ、こういった繰返しを許すのだろう。

 いい例が長期自民党政権を手放すこととなった麻生太郎自民党総理・総裁であろう。総裁になる前後の麻生人気は凄かった。池袋、新宿、アキバと東京の有数の繁華街に顔を出そうものなら、若者の麻生コールと共に麻生フィーバーが吹き荒れた。それを心得ていて、麻生太郎は街頭で若者を前にして「少々キャラが立ちすぎて、古い自民党の方々に、あんまり評判の良くない麻生太郎です」と、古い人間を否定的存在に位置づけ、対する若者を肯定的存在に位置づける自己紹介で尚のこと若者の人気を獲得していった。

 それが失言や発言のブレ、政策のブレで支持率を失っていき、2009年衆議院選挙が近づくと、麻生では衆議院選挙は戦えない、選挙の顔を代えるべきだと“麻生降し”の嵐が吹き荒れ、それができなければ党を出て、新党結成だと、現在舛添や与謝野が騒いでいることと同じ騒動を勃発させていた。

 そして衆議院選挙の自民党歴史的大敗と政権交代。

 自民党は野党に下っても、一旦歴史とし、文化とした“総裁降し”の嵐はそれを繰返す宿命にあるらしく、現自民党総裁の“谷垣降し”が同じ歴史を辿り、同じ文化に色づけられようとしている。

 その一人が与謝野だと既にちょっと触れたが、自民党は与謝野馨元財務相が3月10日発売月刊誌「文芸春秋」4月号掲載の論文で、夏の参院選前に谷垣禎一総裁ら執行部の刷新を求め、実現しない場合は新党結成も辞さないと“谷垣降し”に言及し、舛添要一は3月1日の日本外国特派員協会講演で、「世論調査で民主党の支持率は自民党の2倍で致命的だ。この点を党内の良識派が考慮すれば、谷垣総裁を降ろす方向に動くだろう」(YOMIURI ONLINE)と既にあからさまに“谷垣降し”を、いわば間接的、他力本願的に煽動しているが、同じ歴史、文化再演の導入を予兆する出来事となっている。

 自民党が参議院選挙の勝利を優先させて“谷垣降し”に動いたなら、次の自民党総裁は世論調査で最も多くの有権者の鑑識眼に適った「総理大臣を任せたい国会議員」の1位13%を占めた舛添要一に流れていくのだろうか。

 尤も自民党内派閥力学が有権者の鑑識眼にどう応じるかも決定要因となる。とりわけ自民党最大派閥の陰のオーナー森喜朗元首相の意向を無視することはできないはずだ。自民党が野党となって麻生に代る新総裁選出のとき、舛添は立候補の意思を見せながら、都内で森喜朗と会談、自民党最大派閥を握り、日本の政界の時代錯誤の黒幕森喜朗に支持を得ることができなかったのか、会談直後に立候補断念を表明している。

 だが、森喜朗が“福田降し”を謀り、麻生を次にと目指して、「福田さんの無味乾燥な話より、麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている。・・・・我が党も麻生人気を大いに活用しないといけない。『次は麻生さんに』の気持ちは多いと思う。私も、勿論そう思っている」(毎日jp)と麻生総裁選出の先導役を果たしたように舛添に対しても、「我が党も舛添人気を大いに活用しないといけない。『次は桝添さんに』の気持ちは多いと思う。私も、勿論そう思っている」と舛添総裁を請合ったなら、有権者の13%を占めた鑑識眼は自民党内派閥力学の利害と合致して、舛添新総裁も実現可能となる。

 但し、自民党は有権者の鑑識眼に高い確率で適った政治家を総裁に選出しては降ろしにかかる“総裁降し”の党内抗争を既に自らの歴史とし、文化としている。殆んどのケースで「総理大臣を任せたい国会議員」に1位を獲得してきた舛添にしても同じ歴史・文化に絡め取られて、有権死者の鑑識眼の確かさを証明することにならないとは決して言えない。。

 要するに歴史・文化として引き継いでいく次の“総裁降し”までのピンチヒッターで終わらない保証はない。何しろ有権者の政治家を見る鑑識眼は高いのだから。

 この予想を証明してくれる記事がある。
 
《舛添氏「切磋琢磨で党が良くなる」》(NIKKEI NET/10.3.9)

 自民党の舛添要一前厚生労働相は8日、与謝野馨元財務相が谷垣禎一総裁らを批判する発言を繰り返していることについて「小沢独裁民主党と違って、われわれは自由だ。切磋琢磨(せっさたくま)することが党が良くなることだ」と述べ、自らも批判を続ける考えを強調した。国会内で記者団に語った。(00:37)

 何度でも同じことを言うことになるが、舛添は「誤解を恐れずに言うなら、今の自民党には小沢さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要だ」と小沢以上の“独裁者必要論”を説いていながら、「小沢独裁民主党と違って、われわれは自由だ」などと以前に言ったことと矛盾する、あるいは二枚舌となる“小沢的独裁者否定論”を平気で展開しているが、この言葉は民主党と違って自民党は自由に批判できる土壌がある、批判するのは自由だという意味となるはずである。

 だが、後段の「切磋琢磨(せっさたくま)することが党が良くなることだ」は、お互いが建設的な意見・政策を提案し合って全体を高めていき、党を良くする相互性を言っているはずだが、舛添の党執行部批判はその殆んどが建設的な意見・政策の相互提案ではなく、「このまま党の支持率が低迷したり、古くさい経済政策をやるようなら、新党もあるし、(党に残って)今の党を変える可能性もある。・・・参院選前、谷垣禎一総裁を総裁の座から引きずりおろす動きが出るかもしれない。そうすれば改革は可能」だと、「切磋琢磨」の相互性とは無関係な党内政局、あるいは党内人事に関わる一方的な批判のみである。

 「大辞林」(三省堂)には【切磋琢磨】は次のように出ている。

 「友人同士が競い合い励ましあって、自分を磨くこと。」

 競い合い励ましあうのは友人同士なのだから、自分を磨くだけではなく、友人も自らを磨く相互性を含めた言葉であるはずである。だが、舛添の批判は党執行部を貶めることで自身を有為ある政治家に見せようとする思惑しか見えてこない。

 いわば、「小沢独裁民主党と違って、われわれは自由だ。切磋琢磨(せっさたくま)することが党が良くなることだ」という言葉自体が既に自己欺瞞に満ちた二枚舌となっているのである。「総理大臣を任せたい国会議員」1位13%の有権者の鑑識眼が鑑識眼どおりの有効性を保って自民党総裁の椅子に無事着席可能となったとしても、舛添が性格として抱えている自己欺瞞に満ちた二枚舌、他力本願が自民党の歴史・文化となっている“総裁降し”の嵐を自ら招く起爆装置にならない保証は限りなく小さく見えてくるが、どんなものだろうか。

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学力格差は経済格差よりも人間関係格差が原因ではないかとするコメントに対する回答

2010-03-08 09:01:30 | Weblog

  夏の参院選挙共同通信世論調査

 「民主党が参院でも単独過半数を占めた方がいい」――28・3%
          「過半数を占めない方がよい」――58・6%

 比例代表の投票先
  民主党――26・9%(-6・7ポイント)
  自民党――26・3%(+2・9ポイント)

 参院選挙が世論調査どおりの結果なら、「政治とカネ」を含めて“旧体制”に戻ることになるだろう。

 2009年12月4日の当ブログ《学力格差は経済格差が原因ではなく、人間関係格差だとする主張は事実なのか》について「Oku」氏から3月8日に2つのコメントを頂いた。 

 私が書くことが常に正しい、あるいは全面的に正しいわけでは決してなく、ごく当たり前のことだが、また学校で学んだ知識ではなく、様々な職業を転々として積み重ねた経験から得た、知識と言うよりも情報を組み立てて思ったこと、感じたことを書いた記事に過ぎず、もとより学問的に系統だった内容を備えているわけではない。ときには起承転結の約束事からはみ出して、文章の体裁をなしていない場合もあるように思えることもある。このことを踏まえて、以下のコメントに頼りない回答を寄せたいと思う。

 連続投稿の無礼、申し訳ありません…。  2010-03-08 03:31:51  Oku

 本HP主様の本文いついてですが、「かもしれない」「であるとするならば」といったものが多いように感じました。私は大阪に長くおりますが、ホームレス状態の方々の食いつなぎなどのご考察につきましても、ちょっと実際の「子供の学力や学びの環境への影響」としてはいまひとつな主張に感じます…。

 (数値での机上の考察にあまりウェイトが大きくなりすぎないように…という志水先生の長期的な現場観察研究の報告などが公表されればいいのですが、数値ではないのでなかなか見えてこないのが残念です…。きっとまとめなおして改めて著書などになさるのではないかと思うのですが…。今回の記事はほとんど、数少ない過去のデータの一部を掘り起こされただけで、実地のお話がほとんど無いので…。今回の公表はまだまだ、は本HP主様のご視点のような問題点がたくさん考えうる程度の研磨度の発表のように感じます)

 確かに、「経済面の影響が否定されない」という点は正しいと思いますが、離婚のお話など、本文を逆にたどるとやはり経済面の格差を生みだす要因が「つながり」にあるように見えますし、あるいは隣りあわせで相関的に動くモノとして見えます。志水先生のグループの公表も、論理よりもデータを主に出しており、「コレまでの想像以上に、つながりの影響は大きいようです」といった姿勢のものであって、経済面の影響を否定する立場ではないように感じます。

 また、本文締めくくりで、世論が民主党の政策を選んだから…。という部分がありますが、「これまでの認識とはちょっと違った原因がありかもしれません」という提案に対して「これまでの認識で動いた世論」のことを挙げてもいまひとつな説得力ですし、多数派は正しい…という、少し誤った民主性の扱い方のように見えました…。(民主党案以外に、同件について別の選択肢が大して掲げられていなかった点を考慮すると、なお世論の真理性は薄いように思います)

 教育がそもそも自然科学ではないので、数値というものにもあまり精密に現れるものではないのかと思います。今回のように新たな理論で過去の理論が塗りつぶされるというような理科的なものでなくて、様々な積み重ねをして「傾向」を見定められればよいのだ、という立場で今回も受け止めるのがより賢明なように思います。

(データ収集時の細かな経済状況などはともあれ、カネがたくさんあることよりもあたたかい環境やつながりの元で子供が育つことのほうが、勤勉で平和な考え方の人を作るのに理想的であろうことは、冷静に全体を眺めると明らかなように思います・・・)


 「上の方のコメントなどについて」 2010-03-08 03:30:53  Oku

 新聞記事などの公表には直接現れないですが、他の場面で志水先生のご講演記録などを拝見させていただいた経緯がありますので、そのことなどを踏まえて少し書かせていただきたいと思います。

 家族構成や親の帰宅時間、親子の接触時間などを調べるべきだとのコメントがありますが、志水先生は実際に秋田県と沖縄県の学校に長期間とどまって研究をされています。

(余計かもしれませんが・・・ 志水先生は、他の多くの数学的考察研究者と一味違って、実際に現地に赴かれて研究をなさるという点や人柄などで評価の高い方です…。)

 秋田県の中でも学力調査でTOPをマークした街の様子は、三世代同居率(家屋は別でも敷地が同じ場合を特別に含めた場合だそうです)が9割に達するような状況であります。加えて、学習塾は周囲には無いそうです。

 やはり、両親が共働きでも、家に帰ればおじいちゃんやおばあちゃんがご飯を作って待ってくれている…という暖かい家庭環境が、多いどころか「基本」となっている点を強調しておられます。

 また、大阪はテレビ番組も充実していて夜遅くまで子供と一緒になって夜更かしする家庭も少なくありません。隣近所とのつながりも薄いです。(人が多すぎるなどあるかと思います…)

 あるアンケートでは、「親の最終学歴と子供の成績」についての相関を調べた結果、(数値化ではなくて評価的なものですが)、収入や学歴よりもむしろ「おうちのひとは普段ニュースをよくみていますか?」などの項目との相関が強く示されたようです。

 やはり、経済的なもの同様かそれ以上に家庭や地域のようすが子供の学びに影響するようです。

 志水先生は沖縄にも行かれたようです。(ちょっとした配慮からなのか)あまり深くは述べておられませんでしたが、沖縄の地域の方々は「子供には、学力よりも、地域の中で信頼されて生きていく力・近所づきあいの力のほうが身につけて欲しい」というお考えの方が多いようです。学校現場においても、学力調査の結果などについて教師の方々から聞いたお話では、「う~ん、まぁお勉強はいいんですよ^^。なんといってもお友達と仲良くやって、地域で生き生きと暮らしてもらえれば」というご意見が多く出てくるそうです。

 秋田のように地域性が残る場所ではありますが、県民性といいますか、志水先生のお言葉をお借りしますと「構造が同じでも中を流れる物質が違う感じですね」とおっしゃられていました。

 最初のコメントは、子どもの学校の成績は親の収入よりも人間関係(=つながり)により大きな影響を受ける。「カネがたくさんあることよりもあたたかい環境やつながりの元で子供が育つことのほうが、勤勉で平和な考え方の人を作るのに理想的であろうことは、冷静に全体を眺めると明らかなように思います・・・」と主張している。

 だが、「あたたかい環境やつながり」は収入が保証する側面を否応もなしに抱えている。すべてのケースについて言えるわけではないが、往々にしてカネなくして成り立たない要求物であろう。

 貧乏は人間をギスギスさせる要因ともなり、当然人間関係もギスギスさせる。カネのあるのとないのとで、精神的な余裕の度合いに違いが生じる。貧乏が夫婦関係を壊すこともある。

 特異な例ではあるが、50歳の義母に収入が少ないとなじられた22歳の男が義母と24歳の妻と6ヶ月の長男を殺害した事件が起きたばかりである。例え特異な例であっても、このケースはカネの有無が人間関係を決定する主要因となっていた。

 勿論、貧乏であっても、家庭円満で、子どもたちも健やかに育つ家庭は多く存在するだろう。だが、貧乏なりに生活が成り立つ収入の保証があって初めて可能となる家庭環境ではないだろうか。

 その収入さえ失った場合、子どもたちが健やかに育つ家庭環境を維持できるだけの人間が果たしてどれくらいいるだろうか。

 オランダのフィリップ社製太陽電池搭載のLED読書灯(値段が5~6千円)を利用者に先ず最初に渡して、買主が製品価格に到達するまで貯金箱に余裕の出たカネを入れて、それを月々回収してペイしていく方式で外国人NPOがアフリカの貧困社会で普及に務めている様子をテレビでやっていたが、いわば払える金額だけ払っていく月賦方式だから手に入れやすく、今までローソクで明かりを取っていた場合は不可能だった、親が台所仕事をしていても、傍らで子どもが勉強できる明るさを確保できるようになったと親の喜びの声を伝えていた。これも安価で手に入れやすい利器の出現に影響を受けているものの、本質的には収入(=カネ)の問題であろう。

 またモンゴル政府派遣の若者が日本に太陽光関係の研修に来ていて、ゲルを住居にしている遊牧民が夜明かりがなく子供が勉強できない、電気を通すにしても、遊牧民だから、季節に応じて移動するために電気も通せない、そこでフィリップス社製かどうか分からないが、同形式の太陽電池搭載のLED読書灯が移動式住居のゲルでも利用できると、その案を持ち帰って政府に報告するといったようなことをテレビで言っていたが、フィリップス社等がその利器を開発するにしても、生産ラインも含めて相当額の資本を投資しなければならない、アイデアと同時にカネの問題でもある。
 
 次のコメントでは、秋田県の学力テストの成績のよさの原因を三世代同居率が9割に達する人とのつながりと、〈あるアンケートでは、「親の最終学歴と子供の成績」についての相関を調べた結果、(数値化ではなくて評価的なものですが)、収入や学歴よりもむしろ「おうちのひとは普段ニュースをよくみていますか?」などの項目との相関が強く示されたようです。〉としている。

 まず、「経済的なもの同様かそれ以上に家庭や地域のようすが子供の学びに影響するようです」と言っている“人とのつながり”であるが、私はここに“権威主義”をキーワードに人間関係を解釈してみたい。

 〈両親が共働きでも、家に帰ればおじいちゃんやおばあちゃんがご飯を作って待ってくれている…という暖かい家庭環境が、多いどころか「基本」となっている点を強調しておられます。〉と肯定的に把えているが、しかし日本の社会の場合、〈秋田のように地域性が残る場所〉の場合、より権威主義性が色濃く残っているものではないだろうか。

 子どもが目上の人間の指示・命令により忠実に従う関係が都市よりも地方の方が、あくまでも一般的にだが、強く作用してるのではないかということである。

 この権威主義性を沖縄と言う日本に於ける地方に当てはめて親子等の目上の者と目下の者の人間関係を考えてみる。

 〈沖縄の地域の方々は「子供には、学力よりも、地域の中で信頼されて生きていく力・近所づきあいの力のほうが身につけて欲しい」というお考えの方が多いようです。学校現場においても、学力調査の結果などについて教師の方々から聞いたお話では、「う~ん、まぁお勉強はいいんですよ^^。なんといってもお友達と仲良くやって、地域で生き生きと暮らしてもらえれば」というご意見が多く出てくるそうです。〉と学力よりも“人とのつながり”をより重視する風潮、あるいは生活環境が沖縄にあるということをいい、志水先生は「構造が同じでも中を流れる物質が違う感じですね」と言っているということだが、学力が「つながりの影響は大きいようです」と“人とのつながり”との間に相関関係があるとするなら、「なんといってもお友達と仲良くやって、地域で生き生きと暮らして」いる沖縄に於いても、そのことが学力に影響して、成績が上がってよさそうだが、沖縄ではそうなっていないのはどうしてなのだろうか。

 同じ地域性が残っていても、秋田県は目上の人間の言うことが一種の圧力となって目下の行動を支配する権威主義性が強く、逆に沖縄は開放的で、そういった権威主義性が弱いことからの、似たような“人とのつながり”を構造としていても、教育という一種の上からの支配から自由のところにいるということが学力テストの結果に現れているのではないだろうか。

 それが志水先生が言う、“人とのつながり”という「構造が同じでも、中を流れる物質」の違いということではないだろうか。

だとすると、沖縄県民の「う~ん、まぁお勉強はいいんですよ^^。なんといってもお友達と仲良くやって、地域で生き生きと暮らしてもらえれば」はテストの成績が悪いという結果を埋め合わせる体裁に聞こえないこともない。

 子どもの頃は「地域で生き生きと暮らして」いくことができても、失業率は日本一高く、成人になると、いわゆる本土に出て行く若者が多いという状況を沖縄は抱えている。

 これも暮らしの問題――カネの問題であろう。

権威主義性の強弱の度合いに関しては《平成20年度全国学力・学習状況調査 小学校調査実施概況(全国-都道府県(公立))》からも窺うことができる。

 秋田県は小学校1位、中学校2位で、福井県は逆に小学校2位、中学校1位だそうだが、合わせて成績と正答率を挙げてみる。

 小学校  平均正答数(平均正答率 %)

     国語A       国語B     算数A      算数B

秋田県 13.4 (74.4%)  7.6 (62.9%)  15.3 (80.7%)  7.7 (58.9%)  
福井県 12.7 (70.5%)  6.9 (57.5%)  14.9 (78.3%)  7.3 ( 56.5%)

 中学校  平均正答数(平均正答率 %) 

     国語A       国語B     算数A      算数B

秋田県 26.7 (78.6%)  6.7 (66.8%)  25.3 (70.1%)  8.2 (54.7%)

福井県 26.6 (78.4%)  6.7 (67.3%)  26.0 (72.1%)  8.8 (58.5%) 

 両県の小・中学校とも、国語も数学も応用力、考える力を問う「B」の方が成績が悪い。これは全国的な傾向でもあるが、「A」は暗記学力でも解決可能な成績で、「B」は自分自身で考え、それを発展させる能力を必要とするから、暗記知識のみでは解決しない。暗記知識に考えると言うプロセスを介在させることによってよりよく応用可能となる。

 いわば全国的な傾向だとしても、秋田県の場合存在し、学力に力となっているとしている三世代同居率が9割に達するいう“人とのつながり”が「A」問題でも「B」問題でも共通に役立って然るべきだが、暗記知識でも回答可能な「A」問題に関しては確かに役に立っていると見ることはできるが、「B」問題には少なくとも同じようには役には立っていない。

 応用力、考える力は権威主義を排したところによりよく成り立つ。他人の知識・情報をなぞるだけ、従うだけの権威主義的な受容では他者の知識・情報をそのまま自分の知識・情報とする構造の暗記には役立つが、他から与えられた知識・情報を自らの情報につくり替えて、いわば発展させて、それを自身独自の知識・情報として発信するには偏に権威主義性に則った暗記能力ではなく、それを排した応用力にかかっているからだ。

 また、〈収入や学歴よりもむしろ「おうちのひとは普段ニュースをよくみていますか?」〉が「親の最終学歴と子供の成績」との間に相関関係が見られたと言うことだが、例え「普段ニュースをよくみてい」たとしても、単にニュースの内容を暗記知識同様になぞるだけなら、知識の応用に役立たず、当然、「A」問題に役立っても、応用力を問う「B」問題に対して役立つことはないだろう。応用力とは自分なりの解釈力を言うからなのは断るまでもない。

 ニュースの内容をなぞるだけの知識・情報の獲得は権威主義性を構造とした知識・情報の授受となっているからに他ならない。

 「A」問題よりも応用力、考える力を問う「B」問題の方の成績が悪いのは全国的な傾向としてあるのは、日本の教育が権威主義性を構造とした暗記教育で成り立っているからであろう。

 だとしても、やはり“人とのつながり”を保証するのも一定の収入――カネの保証があっての保証であって、決して無視はできない基本の要素だと私は信じている。
 

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「政治とカネ」による内閣支持率低下、社、国民新の連立離脱カード等が仕向けた公明党との連立意志?

2010-03-07 08:10:20 | Weblog

   夏の参院選挙共同通信世論調査(3月6、7日実施)

 「民主党が参院でも単独過半数を占めた方がいい」――28・3%
           「過半数を占めない方がよい」――58・6%

 比例代表の投票先
  民主党――26・9%(-6・7ポイント)
  自民党――26・3%(+2・9ポイント)

 参院選挙が世論調査どおりの結果なら、「政治とカネ」を含めて自民党支配の“旧体制”に戻ることになるのではないだろうか。

 民主党は今夏の参議院選挙で過半数獲得を絶対使命とし、民主・社民・国民新連立政権に於ける絶対的主導権の獲得をこれまた絶対使命としている。

 民主党が衆議院で310議席、対する社民党が7議席、国民新党が3議席、対する参議院で民主党が115議席、社民党が5議席、国民新党が6議席の数からしたら絶対多数を握っていながら、絶対的な主導権を握れないでいるのは3党足さないことには参議院で過半数を握れないからなのは断るまでもないが、虎の子の過半数を握るための代償が政策の違いに目をつぶるであった。

 3党の共通点は反自民でのみつながっている。政策の点から言ったなら、連立は野合の側面を抱えている。自民党がその点を徹底的に突かないのは不思議現象としてある。

 また政策の違いに目をつぶった代償が社民、国民新への連立離脱のカード付与となって現れた。そのカードは鳩山首相や小沢幹事長、その他の「政治とカネ」の問題に影響を受けた内閣支持率の低下によって一層の力を獲得することとなった。支持率低下が今夏の参議院選挙での民主党単独過半数に黄信号を点灯させることとなったからなのは改めて言うまでもない。

 既にその前兆は2月21日の長崎県知事選での民主党の敗北となって現れている。

 前原国交相は長崎知事選敗北となって現れた「政治とカネ」に影響を受けたさらなる地殻変動を懸念したからだろう、2月28日のテレビ朝日の番組で次のように発言したと、「スポニチ」記事――《なおも迫る前原氏「首相も幹事長も何をすべきか考えて」》(2010年02月28日 17:58)が伝えている。

 「自身が幹事長という立場にあって、どうすれば参院選に勝てるのか考えてもらうことが大事だ」

 「支持率も下がり、選挙にも負ける状況になれば、国民の歴史的な負託に応えられない」

 「参院選で負けたら衆院は多数、参院は少数になり、にっちもさっちもいかなくなる。鳩山首相も小沢幹事長も大局に立ち、自分が何をすべきか考えてもらいたい」

 記事はこれらの発言を、〈国民の理解が得られない場合は自ら進退を判断すべきだとの認識を示した〉ものだとしている。

 前原国交相だけではない。仙石国家戦略担当相も「政治とカネ」の問題にどこかでケジメをつけなければ前に進めないと発言しているし、北沢防衛相も小沢幹事長が参院選で民主党単独過半数獲得のために2人区に民主党候補を2人立てる戦略に対して、自身も2人区の長野県選出で、今回改選を迎える自己利害も計算に入れている部分もあるだろうが、「『政治とカネ』の問題で(支持率が低下する)はるか前の戦略だ」と批判、見直しを求めている。

 だが、民主党候補者をより確実に当選させる戦略として2人区でも1人しか候補者を立てなかった場合、参議院単独過半数は確実に遠のく。遠のけば、社民党と国民新党の連立離脱カードが持つ力を一層強くすることになる。

 既に昨年12月の時点で社民党党首福島瑞穂が普天埋設問題で現行計画通りにキャンプ・シュワブ沿岸部に決まった場合は連立離脱するとカードを切っているが、現時点でそのカードの力は以前に増して力を増しているはずである。

 国民新党の場合の連立離脱カードの現れの一つが亀井静香国民新党代表の外国人参政権付与のみならず、選択的夫婦別姓導入法案が国会に提出された場合は連立の解消もあり得るとする発言と言える。結果、民主党のこれらの政策の迷走を誘発し、国民の目に内閣の頼りなさを植えつけているはずだ。

 さらに国民新党の下地国会対策委員長が昨3月6日に那覇市で記者会見、政府が普天埋設問題で、「普天間基地を今の場所に放置することと、キャンプシュワブ沿岸に移設するとした現行案を選択することは認められない。その場合には政治的に野党になるという判断をするべきで、国民新党内で強く主張していきたい」(NHK)と基地問題でも連立離脱をカードとする可能性に言及している。

 結論は参議院選挙まで待たなければならないが、「政治とカネ」の影響から民主党が単独過半数を獲得できなかった場合、社民、国民新と合わせてこれまでのように参院過半数を握ることができれば、2党の連立離脱カードに一層の力を付与することと、そのことによって民主党独自の政策の障害となる危険性を孕む以外、国会運営は自民党に対してはどうにか作動する。

 だが、社民と国民新を合わせても過半数を握れなかった場合、社民、国民新が持つ連立離脱カードの神通力を失わせることができるが、連立内閣自体が安倍、福田、麻生内閣時代の自民党に逆戻りする。当時の自民党同様に鳩山降しだ、鳩山では次の衆議院選挙は戦えないだ、選挙の顔とはなり得ないだ、新党結成だ、政界再編成だの雑音で賑わいを見せ、党自体の足腰を弱めることは間違いない。

 果してこのような光景を描くことになるのだろうか。

 内閣支持率が低下し、小沢幹事長と鳩山首相の「政治とカネ」の問題に国民の目が厳しく、社民、国民新党の連立離脱のカードが力を増す中、2月26日夜、小沢幹事長が公明党の支持母体である創価学会前会長の秋谷栄之助・最高指導会議議長と都内のホテルで会談している。

 会談が日の明るい昼間ではなく、夜だということが何となく象徴的である。輿石東民主党参院議員会長も同席したという。

 《小沢氏、創価学会秋谷氏と会談 民・公連携へ意見交換か》asahi.com/2010年3月2日5時0分)

 記事は、〈夏の参院選や選挙後もにらみ、民主、公明両党の連携について意見交換したと見られる〉こと、〈小沢、秋谷両氏は1993年の細川連立政権樹立のころから親交があ〉り、〈関係者によると、小沢氏が民主党代表に就任した直後の06年4月にも会談、その後も数回の会談を重ねているという〉こと、〈参院選では社民、国民新両党との連立政権を維持しながら、民主党の単独過半数をめざす方針〉だが、〈選挙結果次第では、公明党との連携の可能性も視野に入れているとの指摘もある〉といったふうに解説している。

 民主党としてはいくら内閣支持率が低下しようと、参議院の過半数維持は絶対使命としている。参議院過半数を維持できなければ、次の総選挙で衆議院の過半数も危うくなりかねない。思いのままに政策を実現・運営できない政党に国民は信頼を置かないだろう。

 小沢幹事長としても、民主党の保身ばかりか、幹事長としての自己保身のためにも参議院過半数維持は譲ることはできない何よりの絶対使命としているはずである。

 それが参議院選挙で単独過半数を獲得できなかった場合の保険としての公明党との連立ではないだろうか。

 小沢幹事長がそのことを視野に入れているとしたら、前原国交相の「参院選で負けたら衆院は多数、参院は少数になり、にっちもさっちもいかなくなる。鳩山首相も小沢幹事長も大局に立ち、自分が何をすべきか考えてもらいたい」の「自分が何をすべきか」は小沢幹事長にとっては自らの進退を判断することではなく、公明党との連立であった可能性が生じる。

 多分、小沢幹事長の自身の「政治とカネ」の問題も影響した内閣の支持率の低下、社民党と国民新党の連立離脱カード、参院選挙の不透明な情勢等々が強いた「自分が何をすべきか」が公明党との連立の模索ではなかったろうか。

 勿論、あらゆる可能性を考慮して、前々から準備していたと見られるが、2月26日夜の創価学会前会長の秋谷栄之助との会談は現在置かれている鳩山内閣と民主党の状況が新たに仕向けることとなった小沢幹事長の今後に向けた動向であろう。

 公明党は衆参21議席ずつ確保している。国民新党は衆議院3 参議院6。社民党は衆7、参5。

 公明党は夫婦の自由意思で同姓か別姓かを決める「選択的夫婦別氏制」導入のための民法改正案を2001年の国会に提出、賛成の立場にある。永住外国人の地方参政権付与にも公明党は賛成している。

 公明党が賛成しているから、国民新党が反対票を投じても国会通過は可能となるため、法案自体の国会提出に反対、連立離脱カードを切る姿勢を見せることとなっている。

 今後の情勢次第では好むと好まざるとを問わずに、連立離脱カードとは反対の民公の連立カードを国会というテーブル上に切るシーンを目にしなければならないかもしれない。

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児童餓死虐待容疑者に見る“同姓”の意味と自律性

2010-03-06 07:04:50 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 奈良県桜井市の5歳長男に食事を与えずに餓死させ、保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された26歳の母親。夫は虐待によくあるパターンの再婚相手でもなく、子どもも夫の連れ子と言うわけでもなく、多分生涯を誓い合って一緒になり、二人の間に設けた子どもであった。

 《母親「不仲の夫に似ていて憎くなった」 奈良5歳餓死》asahi.com/2010年3月5日10時55分)と《奈良5歳餓死 祖父母を自宅に入れず 虐待隠す目的か》asahi.com/2010年3月5日15時1分)から見てみる。

 餓死させられた長男が2歳の頃、「夫が親類の借金の連帯保証人になり、督促状が来るようになった」頃から夫婦仲が悪くなり、「夫に似ている息子が憎くなって顔をたたいたりするようになった」

 長男を「不満のはけ口」とみるようになり、「毎日ではないが、(手を)パーやグーにして顔をたたいたり、つねったりするようになった」

 「1月初めごろから、朝に1回だけしか食事や水を与えなかった。この1週間ぐらいは何も食べていなかった」

 県警は長男が激しく痩せ、歩けない程衰弱していたことから、虐待が長期間続いていたとみているという。
 
 「顔をたたいたり、つねったり」よりも、食事を与えないことの虐待、長期に亘って空腹の苦痛を与えたことの虐待、そして空腹のまま衰弱させ、死に至らしめたことの虐待は何よりも残酷な犯罪であったはずだが、その残酷さに気づかずに夫への憎しみを夫に似ているという理由でより弱い存在に向けた。自らの憎しみを5歳の子どもに食事を取り上げることで代償させた。

 35歳の夫は育児に関わろうとせず、「衰弱しているのは分かっていたが、何もしなかった。妻にも何も言わなかった」

 形ばかりの夫婦となっていたわけである。

 記事は県警は夫が、〈暴行にはかかわっていないとみている。〉としているが、相手は5歳の子どもである、「衰弱しているのは分かっていたが、何もしなかった」は未必の故意に限りなく近い犯罪に相当しないだろうか。

 体重は5歳児平均の3分の1の6.2キロ、身長も平均より約25センチ低い2歳児程度の85センチしかなかったという。そこに継続的に積み重ねられた虐待の総量を見るべきだろう。

 長男は保育園や幼稚園に通っていなかった。両親が訪ねてきても、会わせないようにしていた。市が行っている4カ月、10カ月、1歳半、2歳半、3歳半の計5回実施の無料乳幼児健康診査に最初と二度目の4カ月、10ヶ月の2回しか受診させていなかった。

 記事は、〈奈良県は未受診家庭について、催促しても応じない場合、家庭訪問をして虐待がないか確認するよう市町村に求めている。〉と書いているが、最初と二度目のみで、あとの3回続けて受診ナシなら、何らかの疑問を持ってよさそうなものだが、桜井市は家庭訪問をしていなかった。

 健康推進課の担当者「電話などで連絡が取れないなど、よほどのことがなければしない」

 電話で連絡が取れたから、家庭訪問はしなかったということなのだろうが、電話で連絡が取れただけのことで、それが受診という結果につながらなかったなら、なおさら疑って然るべきだが、1歳半、2歳半、3歳半と受診がないまま放置したと解釈できないこともない。

 だが、「NHK」記事――《両親 乳幼児健診を受けさせず》(10年3月4日 19時0分)では、母親が健診ができない事情を話して、相手を納得させている。

 厚生労働省が長期間受診しないケースでは問題が起きている怖れがあるとして、なるべく家庭訪問をするよう自治体に求めているとしているのに対して、桜井市は厚労省の通達を忠実に守ったのか、1歳半健診時に職員が電話で問い合わせている。

 母親「2人目の子どもを妊娠中で安静が必要なため、受診させられない」

 妊娠していた長女を出産した頃から夫と不仲となり、夫と似ている長男が憎くなって虐待を開始したということになる。

 3歳半健診時は母親の方から電話があって、「介護のため、健診を受けさせに行けない」

 記事は長女の健診について何も書いていない。長女は2歳前後となっているのだから、生後4カ月、10カ月、1歳半と3回受診していなければならない。長女だけ受診し、長男が一度も受診していないケースと、長女も長男も受診していないケースが考えられるが、後者の場合は長男と同様に母親が口実を設けて受診できない理由をでっち上げたに違いないが、兄妹共に受診ナシなら、疑ってかかるべきだろうが、例え前者であったとしても、兄と妹の違いに何らかの疑問があって然るべきだと思うが、後付の要求事項だろうか。

 記事は桜井市の八倉文作健康推進課長の声を伝えている。

 「両親とまったく連絡が取れない場合は、家庭訪問を行うなどの手段が考えられるが、今回のケースでは、母親が電話でそれなりの受け答えを行っていたので、それ以上の対応を行うことはなかった。結果として虐待が見抜けなかったことは残念で、ショックを受けている。今後、再発防止策を考えたい」

 この記事の動画の同じ人物の言葉から受ける印象と大分違う。

 「お母さんのことばーを、信用していたわけですけども、節目節目の、その受診について、あまり、ィー、続くような場合は、やはり、今後、オー、そういう対処の仕方も、オ-、ま、考えていかねければならないだろうな、ということは、考えています」

 「考えていかねければならない」と強く断定しているのではなく、「考えていかねければならないだろうな」と弱めの断定となっているところに決意の真剣さを窺うことができる。

 市の無料乳幼児健康診査を後半の3回受診しなかったことに電話で対応しながら、「母親が電話でそれなりの受け答えを行っていたので、それ以上の対応を行うことはなかった」ことがもたらした「結果として虐待が見抜けなかった」最終事態が母親から5歳の子どもが満足に食事を与えられず、暴行も受けて餓死したという痛ましい事実でありながら、言葉では「残念で、ショックを受けている」と言っているものの、その残念さもショックも痛ましさも責任意識も何ら感じさせない事務的な口調で他人事のように淡々と話していた。

 それは「そういう対処の仕方も、オ-、ま、考えていかねければならないだろうな、ということは、考えています」の言葉面自体にも現れているはずである。

 要するにどこかに手落ちがないとは言い切れない自分たちも関わっていた幼い子どもの残酷な死でありながら、本心のところでは他人事の死としか受け止めていない。

 こういった身近な死にさえ無関心な人間が健康推進課長だと言っても、健康についてもそれが他人の健康なら、関心を持つはずはなく、単に職務として関わっているに過ぎないのではないだろうか。無関心だから、「健診を受けることができるときに、例え有料であっても受けているのか」と尋ねることもしなかったのではないのか。

 尋ねていたなら、例え受けていなくても母親が受けたとウソをついたとしても、そのことは市の無料健診の代りとなる健診となるから記録しなければならない。当然、そういった話は出てくるはずだが、出てこない。ただ母親が電話でこう言ったからと、それをそのまま鵜呑みに受け止めたといったところなのだろう。

 母親は少なくとも生涯を共にすることを誓い合って結婚し、同姓を名乗った。子どもを二人設けて、長男は5歳となり、長女は3歳となった。だが、3年前から夫と不仲となり、その頃から夫への憎しみを夫に似ているからという理由で長男に向けて虐待を繰返すようになった。

 夫を憎み始めてから3年間も夫婦であり続け、同姓を名乗っていた。なぜ離婚して、長女は自分が引き取り、長男は夫が引き取るという形に持っていかなかったのだろうか。夫の方も長男が「衰弱しているのは分かっていたが、何もしなかった。妻にも何も言わなかった」と妻にも子どもにも無関心となっていたのだから、離婚の理由にならないはずはない。

 それでも夫が離婚に反対していたということなら長女を連れて家を出る自立も選択肢としてあったはずである。 

 離婚できずに同姓を名乗り続けたのは夫に対して妻が経済的にか何かで依存状態にあり、自律していなかったからだろう。夫婦関係の形骸化に伴って同姓も形骸化し、絆も形骸化していたはずだが、妻に自律精神を欠いていたために離婚という形を以てしても同姓を解除することができなかったし、如何なる修復も図ることができなかった。

 経済的な自立が不安であったとしても、精神的な自律心さえ備えていたなら、生活保護でも何でも選択したろう。

 このことは同姓、別姓が問題ではなく、それ以前の問題として夫婦が相互に自律した存在であるかどうかが問題となることを証明していないだろうか。

 逆説するなら、夫婦が相互に自律した存在であったなら、同姓だろうと別姓だろうとたいした問題ではないということである。たいした問題ではなければ、本人の選択に任せるべきだろう。

 

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夫婦別姓と夫婦同姓/“姓”が夫婦、家族の価値を分けるわけではない

2010-03-05 05:13:24 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

  ――夫婦家族とも、自律した存在であることを基本に据えなければならないはずである――

 極々当たり前のことだが、例え同姓家族であっても、形ばかりの夫婦もあるし、親子がばらばらの家族もある。家庭内離婚、あるいは家庭内別居を実質的な婚姻関係とし、あるいは会話のない親子関係となった家族の形は同姓が家族の絆の保証書とはならないことを如実に物語っている。

 生涯を誓って一緒になり、同姓をその証として名乗っていたとしても、離婚によってその証はいとも簡単に崩れる。年間離婚件数25万組以上、4秒に1組の離婚割合といった現在の状況がそのことを証明している。

 例え離婚という形式に進まなくても、家庭内別居、家庭内離婚といった形ばかりの夫婦の場合、同姓にどれ程の意味があるのだろうか。あるいは離婚しても、子どものために夫の姓を名乗り続ける女性がいるが、単に生活上の便宜からで、離婚した以上、同姓としての意味は失っているはずだ。離婚しても同姓だよと言ったら、笑われるだろう。

 法律上であろうとなかろうと、夫婦でなくなったなら、同姓はもはや意味を失う。夫婦としての実質性を失ったなら、同姓としての実質性も失われることになる。同姓自体に価値があるのではなく、実質的な人間関係にこそ価値を見い出すべきであろう。

 逆に別姓であっても、夫婦、親子の人間関係が密接で、それ相応の絆で結ばれていたなら、外から見た表札に違いがあろうとなかろうと、問題はないはずである。

 このことと同姓が必ずしも家族の絆の保証書とならないことを併せて考えると、別姓が家族をバラバラにするという反対論は根拠を失う。

 現在の結婚とは自律した個の存在が夫婦と言う形でその自律性を確保しつつ共同生活を営むことを言うはずで、自律した存在が相互に依存関係へと進むのが結婚ではないはずである。依存した関係は共同生活とは言えなくなるからだ。

 経済的に夫一人の収入に依存した生活だからとあらゆる点で夫の意思にまで従うとしたら、妻は自律した存在であることを失い、夫に支配された存在と化し、個としての意味を失う。

 子どもは幼い間経済的にも精神的にも親に依存した関係を持ち、ある意味親に支配される関係であり続けるが、少なくとも精神的には中学生の頃から自律した存在へと成長していく。個として生きる姿を取り始める。

 いわば夫婦にしても親子にしても、相互に自律した存在を維持してこそ、その絆は意味を持つ。どちらかがどちらかに依存した関係、どちらかがどちらかを支配した関係を絆とは言わないはずである。

 自律した存在であるなら、同姓であろと別姓であろうと構わないことになる。自律を実質的中身としたなら、“姓”という名乗りは形式と化す。元々社会的な便宜的形式に過ぎない。

 自律とは学歴や職業や地位やカネや家柄や血を、あるいは女性に対して男を権威とすることで、それら権威に精神的に支配され、有難がることから自由であることを言う。

 夫婦別姓で、子どもの姓が一方に決まり、もう一方の姓の家が絶えるとの反対論があるが、それは家や家柄、血を権威としているからだろう。誰の姓を継ごうと、子どもが健やかに育ち、自律した存在として社会人としての務めを十分に果たすことへの期待に意義を置き、そこに価値を見い出すべきで、自律した存在として社会に生き得なかったなら、結婚しても自律した存在として伴侶に対峙できず、継いだ姓そのものの意味さえ失う。

 また、夫婦の姓が違うからと子どもが学校でいじめられると言うが、法案が成立したなら、こういった家族が出てくると教えない学校はあるまい。日本の教師はそれほどバカではないはずだ。学校で教えたなら、「夫婦別姓よ。知らないの」と言えば済むこととなるし、そう言って済む社会でなければならない。

 日本社会は結婚すると、夫婦同姓が大原則だと言うが、同姓が夫婦の絆の保証書とは必ずしもなり得ないなら、大原則とすることの意味を失う。

 例え夫婦の絆が壊れることがあっても、相互に自律した存在であることによって迷惑が他に及ぶのを最小限に食い止め可能となる。そのとき子どもが自律した存在にまで成長していたなら、基本的には父親と母親の問題だと、自分は自分だと受け止めることができるはずである。

 例え自律とまでいかない成長段階にあったとしても、自律の芽生えを育んでいたなら、その当座はショックを受けたとしても、自律の確立と共に自分は自分として生きる道を選択いていくはずである。またそうしなければ、社会人としての当たり前の務めを果たすことはできない。

 同姓であろうと別姓であろうと、相互に自律した存在であることを欠いていたなら意味を失うなら、先ずは自律した存在となることを目指すことを結婚や家族形成の大原則とすべきであろう。

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舛添“谷垣降し”発言等に対する谷川参議院幹事長事情聴取虚偽証言に見る人間的信用の置けなさ

2010-03-04 07:54:53 | Weblog

   
 
 自民党舛添前厚生労働大臣が3月1日、日本外国特派員協会で講演、自民党の支持率が上がらなければ、新党結成もある、政界再編も視野にある、“谷垣降し”も出てくるかもしれないと発言したことに対して、舛添が所属する参議院の76歳だが、選挙区議員だから自民党比例区70歳定年制に引っかからずに済む(?)幹事長谷川秀善の事情聴取を受けた。

 どのような虚偽証言をしたか、「NHK」記事――《舛添氏“発言 問題なかった”》(10年3月3日 12時45分)から先ず見てみる。

 舛添「講演では、自民党の支持率が上がらないことは問題で、こういう状態が続けば不満を持つ人が党内から出てくる。全員で努力すべきで、努力が足りなければ執行部にも責任はあるという趣旨の発言をした」

 事情聴取した取調官谷川参議院幹事長は事情聴取後に記者団に次のように語ったという。

 谷川「あまり神経質になる必要はない。自民党は開かれた政党であり、自由に発言することも必要だ」

 問題なし、無罪釈放と言うわけである。

 舛添議員の取調後の記者団への発言。

 舛添「誰も批判しなければ独裁政党だ。民主党とは違うので、自由かったつに議論して、国民のための政策を作ることに尽力したい」

 批判しつつ、自民党に協力することを宣言した発言となっているが、「誰も批判しなければ独裁政党だ」は、講演で批判したことの暴露となっている。だが、谷川事情聴取に対して、「NHK」記事を見る限り、舛添が支持率の低迷のみを批判課題に取り上げて、誰に対しても批判していない書き方となっている。

 また、舛添証言には問題とする原因と結果を講演のそれと巧妙にすり替える虚偽、いわばペテンを働かせている。

 「自民党の支持率が上がらないことは問題で、こういう状態が続けば不満を持つ人が党内から出てくる。全員で努力すべきで、努力が足りなければ執行部にも責任はあるという趣旨の発言をした」は、「支持率が上がらないこと」を原因に据えて、「不満を持つ人が党内から出てくる」を結果的局面とした説明となっている。「全員で努力すべき」はこれからの課題への位置づけであって、さらに課題の解決が不足した場合を原因として、「執行部」の「責任」を結果とする可能性に言及している言葉であるはずである。

 だが、講演で言った「あらゆる選択肢がある。このまま党の支持率が低迷したり、古くさい経済政策をやるようなら、新党もあるし、(党に残って)今の党を変える可能性もある。・・・参院選前、谷垣禎一総裁を総裁の座から引きずりおろす動きが出るかもしれない。そうすれば改革は可能」(日刊スポーツ)は、「支持率」の「低迷」と「古くさい経済政策」を原因に据えて、「新党」及び「今の党を変える可能性」、あるいは参院選前の「谷垣禎一総裁を総裁の座から引きずりおろす動き」を原因に対する必然性ある結果に置いていて、同じ原因に対して谷川事情聴取の証言では明らかに結果をすり替えている。これをペテンと言わずに、何と表現したらいいのだろうか。

 舛添は「誰も批判しなければ独裁政党だ」だと言って自己を正当な場所に置いているが、一見正当性ある発言に見えるが、だからと言ってすべての批判が正当性を持つとは限らない。自己の利害のみに立った的外れな批判も存在する。民主主義国家であることを以って批判は許されるを口実にした批判――批判のための批判、自己目的化した批判も存在する。
 
 「asahi.com」記事――《舛添氏、どこまで本気? 「谷垣降ろし」周囲は冷ややか》(2010年3月3日20時23分)が、〈舛添氏は昨秋の党総裁選で青木幹雄参院議員の説得で立候補を思いとどまったこともあるだけに、「谷垣降ろし」の「本気度」が問われそうだ。〉と、その「本気度」に疑問符を投げかけ、次のように「本気度」の中身を解説している。

 〈舛添氏はこれまでも過激発言を繰り返しながら行動が伴わず、「結局、何も行動できない」との見方もある。若手のホープ小泉進次郎衆院議員は「関心も興味もない」と突き放し、舛添氏が連携を探るみんなの党の渡辺喜美代表も「まずは党を出て」と模様眺めだ。〉

 発言に行動がついていっていない男だとの見方があると断じている。発言に対して行動は別物としている男ということなのだろう。

 その一方で、青木幹雄参院議員の説得を受けて、〈総裁選での立候補断念の際は若手の失望を買った。それに懲りたのか、年明け以降は青木氏らを念頭に「小沢一郎さんは自民党の最も古いやり方を踏襲しているが、我が党にもそういう考えの方がいる」と指摘。青木氏からにらまれる世耕弘成、山本一太両参院議員とも連携する。〉とその動向を肯定的に把えているが、青木幹雄の今夏の参議院選挙の公認を巡って自民党内の中堅・若手の一部が世代交代を理由に公認しないよう党執行部に求めていたが、いわば引退させようとしていたが、その中に舛添の名前を一度も見かけることはなかった。

 要するに発言に行動が伴わない舛添式行動様式がそのまま当てはまる、言葉だけで終わっている「小沢一郎さんは自民党の最も古いやり方を踏襲しているが、我が党にもそういう考えの方がいる」に過ぎない、その程度の発言だと看做すこともできる。

 「msn産経」記事――《自民党 若手の意見聴取でガス抜き 舛添氏「努力が足りないのは執行部の責任だ!」》(2010.3.3 19:26)は舛添の説明として、英語での講演であったために翻訳の手違いから生じた行き違いだとしているとしている。

 記事の前段は谷垣総裁を含めた自民党執行部が3月3日に衆院当選1~4回の若手議員を期別に党本部に集めて懇談会を開催、不満のガス抜きを図ったとする内容となっていて、後段で舛添発言を取り上げて、谷川参院幹事長の話として、「英語での講演だったため、通訳の際に行き違いがあった」と舛添が釈明証言したと伝えている。

 いわば舛添自身が「英語での講演だったため、通訳の際に行き違いがあった」と谷川参院幹事長に説明したわけである。新党構想も“谷垣降し”も、発言の問題となっている点はすべて通訳の行き違いによって生じたもので、自身は問題となっているようには発言してはいないと否定したことになる。

 また谷川参院幹事長の舛添無罪釈放の理由を記事は次のように書いている。

 「舛添氏は新党を作って飛び出すとは考えていない。(同氏の発言に)あんまり神経質にならない方がいい」

 要するに新党構想も、「英語での講演だったため、通訳の際に行き違いがあった」ことから生じた誤解であって、自分は飛び出すことはしないと証言したということであろう。そうでなければ、発言に整合性が取れない。発言に行動が伴わないばかりか、発言自体がデタラメな男ということになる。

 但し、事情聴取後の記者団に対する日本語の発言は問題点が講演の英語の通訳の手違いから生じた誤解であることを否定したものとなっている。

 「わが党の支持率が上がらないのを問題じゃないと思う人がいたらおかしい。努力が足りないところは執行部の責任だ。直さなければ、参院選で自民党はなくなる。鳩山内閣との戦の仕方に問題があると言うことの何が悪いんだ」

 支持率上昇の努力途上にある執行部をほぼ確定的に見放した批判発言となっていて、執行部見放しは次に“谷垣降し”へと進展する可能性を持つだろうから、講演で展開した批判とさして変わっていない。いわば講演での批判が「通訳の際に行き違いがあった」誤解だとする証言は罪逃れのペテンに過ぎないことが分かる。

 「日刊スポーツ」記事――《舛添氏「翻訳行き違い」、谷垣降ろし発言》(2010年3月3日12時13分)には次のような件(くだり)もある。

 〈関係者によると、谷川氏が「腹を固めているなら出て行ってもらってもいい」などと迫り、舛添氏は「そんな気はありません」と否定する一幕もあった。谷川氏は「発言は注意した方がいい」と自重を促し、いったん収めた。〉――

 「そんな気はありません」は発言に行動が伴わないことの証明ともなる一例と看做すことができる。

 外に対しては強いことを言い、内に対しては従順な態度を示す。この面従腹背の二面性は発言に行動が伴わないことと併せて、舛添要一なる政治家が人間的には信用できないことを何よりも物語っていると言えないだろうか。

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舛添要一の他力本願な新党&党改革&政界再編構想

2010-03-03 09:18:46 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 自民党の舛添前厚生労働大臣が3月1日に日本外国特派員協会で講演、政界再編や新党問題、自民党改革等について穏やかならざる発言をしたようだ。他の政治家とは違うところ見せるためか、すべて英語を使っての講演だそうだが、例の如く目を剥いて怒ったように断定的に発言したに違いない様子が目に浮かぶ。発言の全文、もしくは要旨を伝えている記事がなかったものだから、どのような発言か、各記事を拾ってみた。

 《“民主内不満勢力と連携を”》”(「NHK」/10年3月1日 17時56分)

 「自民党の政党支持率、特に谷垣総裁や大島幹事長ら執行部の支持率がどうなるかによる。民主党は長崎県知事選挙で負けたが、自民党の支持率は変わらないままか、下がっているものすらある。・・・・党執行部は、政策面で、われわれが検討している経済政策を取り入れるべきだ。そうでなければいっしょに仕事はできず、党を割らなければならない。・・・・みんなの党の渡辺代表とは共有している政策もあり、意見交換している。さらに、民主党内の小沢幹事長の独裁態勢に対する不満がポイントで、前原国土交通大臣や枝野行政刷新担当大臣、それに仙谷国家戦略担当大臣らと連携したい」

 《舛添氏の選択肢、新党か谷垣おろし》”(日刊スポーツ/2010年3月2日7時22分)

 「あらゆる選択肢がある。このまま党の支持率が低迷したり、古くさい経済政策をやるようなら、新党もあるし、(党に残って)今の党を変える可能性もある。・・・参院選前、谷垣禎一総裁を総裁の座から引きずりおろす動きが出るかもしれない。そうすれば改革は可能」

 (渡辺喜美・みんなの党代表や、前原誠司国交相ら民主党閣僚の名前を挙げて)「他党と連携の可能性もある」

 (「新党結成なら名前は『舛添党』か」との記者の質問に)「日本では、自分の名前をつけるケースはない。・・・・表に立とうが裏に立とうが、変えなければならない時には変える」

 「表に立とうが裏に立とうが、変えなければならない時には変える」と鼻息は荒いが、意外と常識的な考えの持主だ。「日本では、自分の名前をつけるケースはない」なら、「じゃあ、日本で最初に自分の名前つけてやりましょうか?」ぐらいのユーモアを発揮してもよさそうだが、常識的であることと独立独歩的なこの鼻息の荒さはどこか矛盾している。独立独歩が見せ掛けなら、矛盾は直ちに解消可能となる。

 《舛添前厚労相:「谷垣降ろし」可能性に言及》”(毎日jp/2010年3月2日 朝刊)

 「自民党の優秀な政治家が憂慮するなら、彼らが谷垣(禎一)総裁を辞任させて党を変革する可能性がある。・・・・もし執行部がわれわれの経済政策に同意しなければ、一緒に行動することはできない」

 記事は、〈「優秀な政治家」の具体名は明らかにしなかった。〉と書いている。

 《『谷垣降ろし』示唆 自民・舛添氏》”(東京新聞/2010年3月2日 朝刊))

 「(自民党支持率が)このままだと(党内の空気は)谷垣禎一総裁の辞任を促す方向に行くだろう」

 (総裁交代の可能性に関して)「党内の賢明なる政治家は熟慮している。・・・・(総裁が交代することによって)党改革が可能になる」

 そのときは自身が総裁選に打って出るということなのだろう。著書の中で既に首相宣言している。

 「政界再編という目的を遂げないといけない」

 「自民党を改革するか、新党を立ち上げるかの両方の選択肢を考えている」

 この新党結成意志を覗かせた発言を記事は、〈約一カ月前に出版した著書では「内部でけんかしながらやっていく」と、ひとまず新党は封印する考えを示していたが、この日は「自民党を改革するか、新党を立ち上げるかの両方の選択肢を考えている」と再び言及。参院選に向け、発信を強める必要があると判断したとみられる。〉と解説している。

 《舛添氏「谷垣氏おろしも」 自民執行部を批判》”(NIKKEI NET/10.3.2 01:26)

 「長崎県知事選に勝利しても世論調査の支持率は横ばいもしくは下がっている。見識ある政治家だったら谷垣禎一氏を総裁のいすからおろす方向に動くだろう」

 (自らが立ち上げた「経済戦略研究会」がまとめる経済成長戦略案を)「執行部が受け入れなければ、党を割って出ることもありうる」

 《新党結成or自民改革…舛添氏、2つの選択肢》”(YOMIURI ONLINE/2010年3月1日19時18分)
 
 「世論調査で民主党の支持率は自民党の2倍で致命的だ。この点を党内の良識派が考慮すれば、谷垣総裁を降ろす方向に動くだろう」

 (新党結成の可能性について)「経済政策に関して、党執行部が我々と合意できないなら、一緒にやっていくことはできない。その場合、党を割らなければならない」

 党を割った場合の次の手としてある政界再編に関して、記事は次のように書いている。

 〈みんなの党の渡辺代表について「考えを共有し、親密に議論している」と強調。民主党の前原国土交通相や仙谷国家戦略相、枝野行政刷新相らとも親しいとして、政界再編への意欲を示した。〉――

 講演後の記者への発言。

 「新党結成か、(自民党の)改革をするか、二つのオプションを考えている。マグマのようにいろんな不満がたまっている。不満が解消するか、党の支持率が上がるか(が重要だ)」――

 ここでも鼻の穴を膨らますほどの鼻息の荒さを目を剥いた顔の表情に見せていたに違いない。

 《参院選前の「谷垣降ろし」も=舛添氏》”(時事ドットコム/2010/03/01-17:37)

 「世論調査では自民党の支持率は変わらないし、むしろ下がっている。党内の賢明なる政治家がこの点を考えれば、谷垣禎一総裁の辞任を促す方向に行くだろう。その場合は党改革はできる」 

 「自民党を改革するか、新党を立ち上げるか両方のオプションを考えている。・・・・当然として、他党との政界再編の可能性も念頭にある。他党とは民主党のメンバーも含む」(以上引用終了)――

 以上見てきた舛添日本外国特派員協会発言はこれまでの自民党執行部批判発言及び政界再編発言と殆んど変わらない。ほぼ同じことの繰返しと言える。違いは場所を日本外国特派員協会に変えたことと、「谷垣降ろし」に直接言及したことの二つのみだが、鼻息を荒くする余りの勢い余って予期せず口を突いて出てしまった発言でなければいい。

 先ず新党結成を契機とした政界再編について、「民主党内の小沢幹事長の独裁態勢に対する不満がポイントで、前原国土交通大臣や枝野行政刷新担当大臣、それに仙谷国家戦略担当大臣らと連携したい」(NHK)と言っているが、この発言と昨年12月22日の新刊『舛添メモ 厚労官僚との闘い752日』の出版記念講演(都内)で、「誤解を恐れずに言うなら、今の自民党には小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要」と発言した“小沢評価”との矛盾はどう整合性をつけるつもりでいるのだろうか。

 「今の自民党には小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要」が事実なら、「民主党内の小沢幹事長の独裁態勢に対する不満」を持っている「前原国土交通大臣や枝野行政刷新担当大臣、それに仙谷国家戦略担当大臣ら」は逆評価し、排除しなければならない対象のはずである。

 また2月10日出版の自著『内閣総理大臣』で「時期が来たら私自身がリーダーシップを取ることを拒否はしない。首相に必要な能力を持つよう努力している」(毎日jp)と首相宣言しているということだから、舛添自身が必要としている「小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者」とは首相となった場合の自身が目指さなければならない首相としての資質ということでなければならない。

 にも関わらず、政界再編は「民主党内の小沢幹事長の独裁態勢に対する不満がポイント」だとする変節を犯して平然としている。この変節を隠したまま、いつも目を剥いた鼻息荒いあの表情を見せていた?

 いずれにしても、舛添の言葉は信用が置けないことになる。

 あるいは小沢的独裁は許せないが、舛添的独裁は許せる、日本のためになるということなのだろうか。著書『内閣総理大臣』の副題が「鳩山、小沢よ。今すぐ去れ!」となっているそうだが、だからこそ、「今すぐ去れ!」の対象に小沢を含めたということなのだろうか。

 次に、「世論調査で民主党の支持率は自民党の2倍で致命的だ。この点を党内の良識派が考慮すれば、谷垣総裁を降ろす方向に動くだろう」(YOMIURI ONLINE)と言っていることの、「この点を党内の良識派が考慮すれば、谷垣総裁を降ろす方向に動くだろう」の主体は舛添自身ではなく、「党内の良識派」となっている。いわば自身が率先して“谷垣降し”に動くと宣言したわけではなく、「良識派」への期待値を示した他力本願の発言に過ぎない。

 つまり、「良識派」の「考慮」待ち。あるいは「良識派」の「考慮」頼みの他力本願と言い換えることもできる。

 党改革にしても他力本願の形式を踏んでいる。

 「世論調査では自民党の支持率は変わらないし、むしろ下がっている。党内の賢明なる政治家がこの点を考えれば、谷垣禎一総裁の辞任を促す方向に行くだろう。その場合は党改革はできる」(時事ドットコム

 「その場合」の「その」は断るまでもなく、“谷垣降し”を指す言葉である。いわば、「党内の賢明なる政治家」頼みの他力本願な“谷垣降し”という初期的局面を前提とし、それとの連動で「党改革」を次なる局面に置いているのだから、同じ他力本願に支配された「党改革」ということであろう。

 裏返して言うと、“谷垣降し”がなければ消えてしまう「党改革」となる。まさしく自らが率先して動く“谷垣降し”でもなく、「党改革」ともなっていない。

 「毎日jp」記事の「自民党の優秀な政治家が憂慮するなら、彼らが谷垣(禎一)総裁を辞任させて党を変革する可能性がある。・・・・もし執行部がわれわれの経済政策に同意しなければ、一緒に行動することはできない」の発言からも他力本願を説明できる。

 自力本願な自らの「憂慮」を主体的原動力としているわけではない。既に触れたように「憂慮」の主体は「自民党の優秀な政治家」であって、自身を「憂慮」の主体に置いていない。他力的「憂慮」に乗っかっての党改革の可能性を言っているに過ぎない。

 大体が舛添は、「自民党は歴史的使命を終えた」と言っている。時代的な存在価値を失ったと宣言したのである。時代的な存在価値を失った党は一旦消滅させて、新しくつくり直す以外に改革はあり得ないはずだ。党内改革の可能性が残されているというなら、完全には「歴史的使命を終えた」とは言えない。時代的な存在価値を僅かながらにも残していなけらばならない。

 それを「新党もあるし、(党に残って)今の党を変える可能性もある」と改革の余地があるようなことを言って、「自民党は歴史的使命を終えた」とする過激な発言に矛盾させているのだから、舛添の言葉はますます信用できなくなる。

 この“新党意欲”にしても、「新党結成か、(自民党の)改革をするか、二つのオプションを考えている。マグマのようにいろんな不満がたまっている。不満が解消するか、党の支持率が上がるか(が重要だ)」(YOMIURI ONLINE)と伝えている発言からも他力本願意志を窺うことができる。「マグマのようにいろんな不満がたまっている。不満が解消するか、党の支持率が上がるか」の状況次第だと、状況に“他力”を置いた願望となっていて、決して自分から自力で状況をつくり出そうという決意とはなっていない。

 他力本願となっているからこそ、的を一つに絞ることができず、「新党もあるし、(党に残って)今の党を変える可能性もある」とどっちつかずの態度を取ることになっているのだろう。

 それだけ決意が甘いということになるが、他力本願の分、決意が甘くならざるを得ないのだが、「自民党は歴史的使命を終えた」と自ら発した言葉に責任を取るためにも、みんなの党の渡辺喜美代表が2日に記者団に話したように、「舛添氏はわれわれのように行動を起こすことが大事だ。自民党の中にいて自民党を批判しても始まらない。飛び出す覚悟が問われる」(《大島幹事長:舛添氏に自重促す 総裁辞任に講演で言及》毎日jp/2010年3月2日 18時22分2010)とする決意を示すべきだが、決意を甘くしている他力本願から逃れられないでいるから、どう選択しようとも、自ら率先して行動する態度を示すことができないでいる。

 また新党を結成した場合の連携相手として名前を挙げられた民主党の仙谷由人国家戦略担当相は2日午前の記者会見で連携に否定的な発言をしたと、《舛添氏の“新党ラブコール”…仙谷氏は否定的》日刊スポーツ/2010年03月02日 11:24)が伝えている。

 「医療、介護など社会福祉関係で共通の問題意識があるが、彼のリップサービスが過ぎるのか、ほかの意図なのかは分からない」――

 この否定的発言は連携相手として確たる見通しを立てた上で名前を挙げたわけではないことの暴露となる。民主党は虎の子の衆議院308議席(石川議員が離党したとしても、隠れ民衆党として頭数の力を発揮する。)を抱えている。夏の参議院選挙で議席を減らしたとしても、ここのところの小沢幹事長の動きを見ると、公明党と組む最後手段に出る可能性も考えられる。意見を異にする集団だとしても、政策推進の大きな力であることに違いはない。舛添と組んで民主党以上に大多数を獲得できる成算がなければ、誰が舛添と徒党を組むだろうか。

 確かに発言は勇ましい。鼻息荒いいつも怒っているような表情にマッチした勇ましい発言ではある。だが、それぞれの発言を詳しく検証すると、そこに現れるのは他力本願意志のみで、自力本願意志を見受けることはできない。

 このどうしようもなく舛添に巣食っている他力本願意志は首相の資質と言えるだろうか。

 他からの、いわば他力的なチャンスが訪れない限り、結局は自民党に残って総裁になるチャンスを窺うのではないのか。

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“在留特別許可”は難民をなるべく入れたくない日本の希望形式?

2010-03-02 04:48:30 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《難民認定、8カ国30人に減少 09年、低水準続く》asahi.com/2010年2月26日14時50分)

 日本で難民認定を申請して2009年中に滞在を認められた外国人は531人。法務省入国管理局が「過去最高」と26日に発表。

 531人のうち、難民条約上の難民と認められたのは30人。約5.65%。

 内訳はミャンマー(ビルマ、18人)、イラン、アフガニスタン(各3人)など8カ国の30人。

 この30人は06年認定数34人に近く、07年(41人)、08年(57人)の増加傾向が一転、06年に近づいたということは、ある意味“先祖返り”したとも受け取れる。

 531人-30人の501人は、法相の裁量によって日本人との結婚や本国に帰せない事情があるとする「人道上の配慮」から滞在を認める「在留特別許可」。

 記事には出ていないが、参考までに在留特別許可人数の推移を見てみると、03年―10327人、04年―13239人、05年―10834人、06年―9360人、07年―7388人と漸減している。

 因みに07年の被送還者数は18年と比べて5105人(15.5%)減少し2万7913人だそうだ。法務省の報道発表資料の一文、〈平成21年1月1日現在の不法残留者総数は11万3072人で、前回調査時(14万9785人)に比べ3万6713人(24.5%)減少している。これを男女別に見ると、男性は5万8411人(構成比51.7%)、女性は5万4661人(構成比48.3%)であり、前回調査時からの減少も男性1万7967人(23.5%)、女性は1万8746人(25.5%)と、概ね男女同様の状況となっている。〉ことから推量すると、不況による働き口が狭まっていることから、不法入国者そのものが減少していることからの被送還者数の減少であり、このことに対応して在留特別許可人数の減少に反映しているのかもしれない。
 
 このことは記事にもある、〈申請者は47カ国にわたり、ミャンマー(568人)、スリランカ(234人)、トルコ(94人)、パキスタン(92人)、インド(59人)の順に多かった。〉ものの、〈09年中の申請者は1388人で、ミャンマー人の申請が急増して過去最高となった前年から211人減った。〉とする難民認定申請者の減少にも現れている。

 先進国の景気が回復して仕事が増えるまで国外に出るのは暫くの間じっと我慢しようということなのだろうか。だとしても、日本の難民認定が万単位で受け入れている欧米先進国と比較して少な過ぎる事実に変わりはない。

 記事は最後に、〈法務省は難民認定の要件について、難民条約の規定に基づき、(1)人種(2)宗教(3)国籍(4)特定の社会集団の構成員(5)政治的意見という五つの理由で、迫害を受けるおそれがある――ことを挙げている。〉と書いているが、「要件」よりも、受入れる意志の積極性がより重要な問題点となるはずだ。

 積極性の差が欧米先進国との間の認定数の差に現れているということであろう。いわば積極性とは逆の難民をなるべく入れたくない消極姿勢が09年に於ける難民認定数30人という数字となって表れてと言える。

 このことは日本列島に外国人をなるべく混ぜたくない、なるべく日本人だけで維持したいと言い替えることができる。

 あるいは日本の社会に外国人をなるべく増やしたくない、なるべく日本人だけで社会を構成したいと言い替えることもできる。

 あるいは観光客やビジネスマンといった一時滞在の姿で訪問する分には大いに歓迎するが、完全に日本社会に入り込むのは歓迎しないと言い替えることもできる。

 難民の認定を受けた外国人は原則として締約国の国民あるいは一般外国人と同じような待遇を受けることができ、国民年金、児童扶養手当、福祉手当などの受給資格が認められて、日本国民と同じ待遇を受けることができるということだが、認定しないということは逆に日本国民と同じ待遇を受けさせないということでもあり、このことは同時に日本社会に受入れない、入り込ませたくない意志の表現と受け止めることもできる。

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