■神泉苑御霊会からの祭事
祇園祭、疾病祓いの伝統行事故にこの新型コロナウィルスCOVID-19においてもその意味合いを考えるところですが。
神泉苑での御霊会、疫病を引き起こす瘴気や死した人々が悪鬼怨霊とならぬよう、鎮める事を願って。しかし貞観5年の神泉苑御霊会はしかし、一説には一時的に疫病の流行を洛中から排する事が出来たともいわれるのですが定かでありません、次の騒擾が控えている。
貞観6年こと西暦864年、富士山が突如噴火する。聖武天皇時代にも歴史的な噴火を引き起こし溶岩流が山容を変えたともされる富士山ですが、事この貞観富士噴火は富士山が二つに大きく避け噴出した溶岩流は須走、青木ヶ原、山麓の原生林を一蹴し北へと流れる。
古富士噴火ともよばれる貞観富士噴火は、万葉集にも歌われた美しい山容は地獄の窯の如く一変させ、流れ出た溶岩はそのまま富士山麓の富士湖を多いつくし、激しく湧き上がる蒸気が晴れたころには既に湖は無く、五つに分断され富士五湖として今に至る程でした。
貞観11年の西暦869年、今度は陸奥の国が揺れる。千年前の東日本大震災、貞観三陸地震の発生です。この記録は余り多くが残っていません、何故ならば記録を残すべき当事者の多くが津波に押し流されてしまい海の蠢動に消えたため。多賀城からは朝廷へ急報が飛ぶ。
貞観三陸地震の被害は津波が多くをしめ、陸奥国の国府がおかれた多賀城には平成時代の調査により多賀城城下町の南北大路まで津波が押し寄せ、家屋を破壊した痕跡が発見されています。日本紀略類聚国史によれば内陸数十kmまで津波被害が及んだと記されています。
貞観10年の868年には播磨国地震が発生し姫路付近の被害が激甚照り山陽道の連絡が一時不通となり、貞観13年こと西暦871年には鳥海山が大噴火を引き起こしています。時の清和天皇は労役と租税の免除に関する勅令を発し、しかし貞観三陸地震には弱冠20歳という。
貞観18年の876年。朝廷は播磨国広峯の広峯神社から牛頭天王の神霊を遷座し、平安遷都後の安寧を祈る事となります。いや広峯神社には令和時代の今日も牛頭天王本宮を掲げている為に、遷座というよりは分祀といえるのかもしれませんが、牛頭天王を頼りました。
牛頭天王は仏教と神道の神仏習合による信仰であり、仏教では釈迦が生を受けた祇園精舎の守り神であるとともに、神道では素戔嗚尊、荒ぶる神スサノオの系譜にある神であり、朝廷は祀る社を洛中守護に奉じることとしました、これこそが今日の八坂神社なのですね。
元祇園社梛神社。祇園祭の原型は神泉苑での御霊会にあるのですが、山鉾巡行という洛中中心部を巡幸する祭事については原型が、そもそも朝廷の意図した祭事では無い転移特筆されます。元祇園社梛神社、中京区壬生梛ノ宮には八坂神社創建まで御旅所がありました。
牛頭天王の神霊をそのまま八坂神社に直行させるのではなく、壬生梛ノ宮に御旅所を備えまして休息ののちに遷座を、という神道の習わしではあるのですが、壬生の町衆からは牛頭天王の神霊への崇敬の念が日々高くなり、八坂神社への本宮入を慕って列を為した、と。
壬生梛ノ宮の御旅所より八坂神社へ神輿の御輿が列をなして巡行する中、壬生の町衆は花飾りの風流傘を立て、そして鉾を振って楽を奏しつつ八坂へ行列を為した、これが山鉾巡行の原型といわれます。山車こと山鉾などはなく、まさにその時の行列は自然的といえる。
風流拍子物。山鉾巡行の原型を辿りますと花園天皇宸記、鎌倉時代の歴史書に見い出す事が出来るのですが、富裕な町衆が競って風流拍子物を並べたといいます。此処に実は定型は無かったようで、それもそのはず、祇園祭は神輿の御輿による巡幸にこそ意味が在った。
鷺舞。この時代は朝廷が南北朝に分かれている時代故に、いわば多党政治か権力基盤薄弱という政治情勢でして、西陣舎人座が鷺舞という行列芸能を示したりで競うようになりゆくのですが、考えてみればこれは後に続く応仁の乱への下地が形成されたともいえますね。
久世舞車。室町時代になりますと、室町将軍家が山車を調進し、鎌倉時代の自由勝手に音楽を奏で賑わうという方式から、幕府が謹製の山車を町衆が飾り立てる、という、現在の祇園祭に近い形が形成されてゆきます。神幸祭の前に巡幸し掃き清める定型が出来て行く。
町衆。自治組織両側町として幕府から下町の自治組織が形成されるようになりますと、邪悪を打ち払う武具である竿状の鉾、そして羯鼓舞のような神楽を舞う稚児を乗せた屋台を合せた山鉾、とが形成されるようになりまして、いわば室町時代中期が転換期となる。
洛中洛外図。室町時代中期に洛中の情景をえがいた屏風絵、その現存するものを見ますと、山鉾を曳く今日の山鉾巡行の形が形成されていることが描写から読み取れまして、この頃には官側の八坂神社による祭事と山鉾巡行が一つの祭事二つの行事、となっていました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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祇園祭、疾病祓いの伝統行事故にこの新型コロナウィルスCOVID-19においてもその意味合いを考えるところですが。
神泉苑での御霊会、疫病を引き起こす瘴気や死した人々が悪鬼怨霊とならぬよう、鎮める事を願って。しかし貞観5年の神泉苑御霊会はしかし、一説には一時的に疫病の流行を洛中から排する事が出来たともいわれるのですが定かでありません、次の騒擾が控えている。
貞観6年こと西暦864年、富士山が突如噴火する。聖武天皇時代にも歴史的な噴火を引き起こし溶岩流が山容を変えたともされる富士山ですが、事この貞観富士噴火は富士山が二つに大きく避け噴出した溶岩流は須走、青木ヶ原、山麓の原生林を一蹴し北へと流れる。
古富士噴火ともよばれる貞観富士噴火は、万葉集にも歌われた美しい山容は地獄の窯の如く一変させ、流れ出た溶岩はそのまま富士山麓の富士湖を多いつくし、激しく湧き上がる蒸気が晴れたころには既に湖は無く、五つに分断され富士五湖として今に至る程でした。
貞観11年の西暦869年、今度は陸奥の国が揺れる。千年前の東日本大震災、貞観三陸地震の発生です。この記録は余り多くが残っていません、何故ならば記録を残すべき当事者の多くが津波に押し流されてしまい海の蠢動に消えたため。多賀城からは朝廷へ急報が飛ぶ。
貞観三陸地震の被害は津波が多くをしめ、陸奥国の国府がおかれた多賀城には平成時代の調査により多賀城城下町の南北大路まで津波が押し寄せ、家屋を破壊した痕跡が発見されています。日本紀略類聚国史によれば内陸数十kmまで津波被害が及んだと記されています。
貞観10年の868年には播磨国地震が発生し姫路付近の被害が激甚照り山陽道の連絡が一時不通となり、貞観13年こと西暦871年には鳥海山が大噴火を引き起こしています。時の清和天皇は労役と租税の免除に関する勅令を発し、しかし貞観三陸地震には弱冠20歳という。
貞観18年の876年。朝廷は播磨国広峯の広峯神社から牛頭天王の神霊を遷座し、平安遷都後の安寧を祈る事となります。いや広峯神社には令和時代の今日も牛頭天王本宮を掲げている為に、遷座というよりは分祀といえるのかもしれませんが、牛頭天王を頼りました。
牛頭天王は仏教と神道の神仏習合による信仰であり、仏教では釈迦が生を受けた祇園精舎の守り神であるとともに、神道では素戔嗚尊、荒ぶる神スサノオの系譜にある神であり、朝廷は祀る社を洛中守護に奉じることとしました、これこそが今日の八坂神社なのですね。
元祇園社梛神社。祇園祭の原型は神泉苑での御霊会にあるのですが、山鉾巡行という洛中中心部を巡幸する祭事については原型が、そもそも朝廷の意図した祭事では無い転移特筆されます。元祇園社梛神社、中京区壬生梛ノ宮には八坂神社創建まで御旅所がありました。
牛頭天王の神霊をそのまま八坂神社に直行させるのではなく、壬生梛ノ宮に御旅所を備えまして休息ののちに遷座を、という神道の習わしではあるのですが、壬生の町衆からは牛頭天王の神霊への崇敬の念が日々高くなり、八坂神社への本宮入を慕って列を為した、と。
壬生梛ノ宮の御旅所より八坂神社へ神輿の御輿が列をなして巡行する中、壬生の町衆は花飾りの風流傘を立て、そして鉾を振って楽を奏しつつ八坂へ行列を為した、これが山鉾巡行の原型といわれます。山車こと山鉾などはなく、まさにその時の行列は自然的といえる。
風流拍子物。山鉾巡行の原型を辿りますと花園天皇宸記、鎌倉時代の歴史書に見い出す事が出来るのですが、富裕な町衆が競って風流拍子物を並べたといいます。此処に実は定型は無かったようで、それもそのはず、祇園祭は神輿の御輿による巡幸にこそ意味が在った。
鷺舞。この時代は朝廷が南北朝に分かれている時代故に、いわば多党政治か権力基盤薄弱という政治情勢でして、西陣舎人座が鷺舞という行列芸能を示したりで競うようになりゆくのですが、考えてみればこれは後に続く応仁の乱への下地が形成されたともいえますね。
久世舞車。室町時代になりますと、室町将軍家が山車を調進し、鎌倉時代の自由勝手に音楽を奏で賑わうという方式から、幕府が謹製の山車を町衆が飾り立てる、という、現在の祇園祭に近い形が形成されてゆきます。神幸祭の前に巡幸し掃き清める定型が出来て行く。
町衆。自治組織両側町として幕府から下町の自治組織が形成されるようになりますと、邪悪を打ち払う武具である竿状の鉾、そして羯鼓舞のような神楽を舞う稚児を乗せた屋台を合せた山鉾、とが形成されるようになりまして、いわば室町時代中期が転換期となる。
洛中洛外図。室町時代中期に洛中の情景をえがいた屏風絵、その現存するものを見ますと、山鉾を曳く今日の山鉾巡行の形が形成されていることが描写から読み取れまして、この頃には官側の八坂神社による祭事と山鉾巡行が一つの祭事二つの行事、となっていました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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