■酒と核と梅花の神社
国際報道の現実に目を向ければ背けたくなる羅列ばかりが並びます故に情報の解釈咀嚼はこうした静かな場所にて平穏と共に一幕置きたい。

梅宮大社、この名前を聞いてどういった連想を広げるでしょうか。最近は難しいところで現代は多様性の時代というのですが、信仰と崇敬の多様化を感じる際にここ梅宮大社ほどのところというのはないのかもしれません、なにせ潜水艦さえ浮かぶのだから。

潜水艦なのだから浮かぶのは当たり前だろう、と思われるかもしれませんが歴史を深く知る方にとり、梅宮大社という名前を聞きますと橋本以行艦長が退官後に宮司を務められた神社、と思い浮かべられるのかもしれません。いや平成中期までご存命でした。

伊58艦長として重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した艦長さんです。巡洋艦を撃沈して人命を奪うなんて、と京都にお住まいのサヨクさんやシンポ的なチチキジンさんは思われるかもしれませんが、この巡洋艦が原爆を輸送していたと聞きますとどうでしょう。

インディアナポリスを撃沈、テニアン島へ広島原爆を輸送したアメリカ海軍の巡洋艦ですが、その帰路、機密保護のために護衛を伴わず航行していた為に伊58に捕捉され、魚雷攻撃を受け撃沈されました。撃沈が数日早ければ、広島原爆投下は無かったともいう。

京都は原爆攻撃の標的であった。別にインディアナリス撃沈が京都核攻撃からの回避に繋がった訳ではないのですが、核兵器と京都、というつながりを見せますと、伊58潜水艦の行動というものは、いろいろと考えさせられるものです。京都原爆攻撃は実際に。

荒勝文策博士、日本原子核物理学の始祖的存在で1941年に京都帝国大学時代、帝国海軍より核分裂兵器の開発を依頼されています、同時期に理研の仁科芳雄博士は陸軍から同様の研究を依頼されていて、いや一本化しろよ、とは思うものの研究はあった。

比叡山の山頂に観測所をつくった、荒勝文策博士は広島核攻撃を受け、調査団として8月10日に広島入り、当時爆発物の正体は不明でしたが核分裂兵器の完成を確信していた博士は土壌の放射線測定を実施し、ベータ線を検出、次の攻撃地を考えました。

京都が攻撃目標として適地ではないのか、あらゆる地形と共に核攻撃をするうえでの必要な定義に威力を確認するためにほとんど空襲が行われていない地域として京都が攻撃されるであろうとの予測を立て、その様子を徹底的に観測研究する施設を比叡山に置く。

新潟などでは次の攻撃目標と考えた市長の独断で避難命令が出され、駆逐艦響が治安維持と防空へ舞鶴から緊急出動する騒ぎがありましたが、荒勝文策博士には核分裂への興味の方が、つまり学究の価値が、市民の安全などよりも優先度が高かったといえる。

湯川秀樹博士は当時荒勝文策博士の助手であり、反核運動への参画などで知られている湯川博士の倫理観には当時の荒勝文策博士への反発が含まれていたのかもしれません。実際当時の京都は鉄道輸送の一大拠点、本土決戦前の大規模攻撃は予定されていました。

核兵器と京都、という簡単には扱えない命題ではあるのですが、核兵器と広島にはある程度のかかわりを持つ宮司さんの社殿、ということでどうしても印象深くなってしまうのです。もっとも、インディアナポリスは艦長の名誉回復というもう一つの話題もあるが。

香りたかい梅花とともに春の訪れを思い出しつつ、しかし報道に目を向ければロシアが再度、何度目か、NATOを核兵器で脅す報道が二月にも続いています。複雑な歴史をすべて織り込めたような春の景色と歴史の社殿と神苑を、こう散策した訳なのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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国際報道の現実に目を向ければ背けたくなる羅列ばかりが並びます故に情報の解釈咀嚼はこうした静かな場所にて平穏と共に一幕置きたい。

梅宮大社、この名前を聞いてどういった連想を広げるでしょうか。最近は難しいところで現代は多様性の時代というのですが、信仰と崇敬の多様化を感じる際にここ梅宮大社ほどのところというのはないのかもしれません、なにせ潜水艦さえ浮かぶのだから。

潜水艦なのだから浮かぶのは当たり前だろう、と思われるかもしれませんが歴史を深く知る方にとり、梅宮大社という名前を聞きますと橋本以行艦長が退官後に宮司を務められた神社、と思い浮かべられるのかもしれません。いや平成中期までご存命でした。

伊58艦長として重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した艦長さんです。巡洋艦を撃沈して人命を奪うなんて、と京都にお住まいのサヨクさんやシンポ的なチチキジンさんは思われるかもしれませんが、この巡洋艦が原爆を輸送していたと聞きますとどうでしょう。

インディアナポリスを撃沈、テニアン島へ広島原爆を輸送したアメリカ海軍の巡洋艦ですが、その帰路、機密保護のために護衛を伴わず航行していた為に伊58に捕捉され、魚雷攻撃を受け撃沈されました。撃沈が数日早ければ、広島原爆投下は無かったともいう。

京都は原爆攻撃の標的であった。別にインディアナリス撃沈が京都核攻撃からの回避に繋がった訳ではないのですが、核兵器と京都、というつながりを見せますと、伊58潜水艦の行動というものは、いろいろと考えさせられるものです。京都原爆攻撃は実際に。

荒勝文策博士、日本原子核物理学の始祖的存在で1941年に京都帝国大学時代、帝国海軍より核分裂兵器の開発を依頼されています、同時期に理研の仁科芳雄博士は陸軍から同様の研究を依頼されていて、いや一本化しろよ、とは思うものの研究はあった。

比叡山の山頂に観測所をつくった、荒勝文策博士は広島核攻撃を受け、調査団として8月10日に広島入り、当時爆発物の正体は不明でしたが核分裂兵器の完成を確信していた博士は土壌の放射線測定を実施し、ベータ線を検出、次の攻撃地を考えました。

京都が攻撃目標として適地ではないのか、あらゆる地形と共に核攻撃をするうえでの必要な定義に威力を確認するためにほとんど空襲が行われていない地域として京都が攻撃されるであろうとの予測を立て、その様子を徹底的に観測研究する施設を比叡山に置く。

新潟などでは次の攻撃目標と考えた市長の独断で避難命令が出され、駆逐艦響が治安維持と防空へ舞鶴から緊急出動する騒ぎがありましたが、荒勝文策博士には核分裂への興味の方が、つまり学究の価値が、市民の安全などよりも優先度が高かったといえる。

湯川秀樹博士は当時荒勝文策博士の助手であり、反核運動への参画などで知られている湯川博士の倫理観には当時の荒勝文策博士への反発が含まれていたのかもしれません。実際当時の京都は鉄道輸送の一大拠点、本土決戦前の大規模攻撃は予定されていました。

核兵器と京都、という簡単には扱えない命題ではあるのですが、核兵器と広島にはある程度のかかわりを持つ宮司さんの社殿、ということでどうしても印象深くなってしまうのです。もっとも、インディアナポリスは艦長の名誉回復というもう一つの話題もあるが。

香りたかい梅花とともに春の訪れを思い出しつつ、しかし報道に目を向ければロシアが再度、何度目か、NATOを核兵器で脅す報道が二月にも続いています。複雑な歴史をすべて織り込めたような春の景色と歴史の社殿と神苑を、こう散策した訳なのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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