北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

信太山駐屯地創立50周年記念行事 訓練展示準備編

2007-06-20 21:01:59 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■訓練展示準備

 陸上自衛隊の駐屯地祭において、観閲行進と共に行事の華が、空包を発射し車両が走り回る訓練展示(模擬戦とも呼ばれる)ではないだろうか。しかし、火薬を用いて、多数の車両が走る訓練展示は綿密な準備により安全を担保する必要がある。

Img_8652  観閲行進を撮影後、訓練展示準備の時間を利用し、昨年の撮影位置に展開しようとしたが、残念ながら既に入る余地は無く、陣地展開を断念し、撮影を続けることとした。しかし、ちょうど撮影位置隣には訓練展示参加部隊が待機しており、訓練展示に備え、出動準備の部隊を見ることが出来たのは望外であり、非常に興味深い様子を撮影できた。

Img_8526  信太山駐屯地名物、菊水太鼓。自衛隊音楽祭にも参加する部隊で、菊水とは第37普通科連隊の愛称である“菊水連隊”よりきている。七つの太鼓を並べ、後ろに二つの大太鼓、中央に幟と太鼓を配置している。かなり距離があったのだが、空気の鼓動が伝わってきた。

Img_8519  訓練展示準備、なんと準備を行う様子がそのまま撮影位置から望む事が出来た。写真は戦車大隊より派遣されてきた96式装輪装甲車のクルーと打ち合わせをする隊員、訓練展示に参加する為、顔にカモフラージュを施している。

Img_8525  顔に迷彩を施す隊員。96式は外部視察用窓を車体の人員室に配置しており、降車展開に先んじて状況を確認することが出来る。ただし、防御力を削ぐのではないかとの指摘もあり、実際のところは評価が分かれる。これについては諸説あるが、まあ触れずに、便利なので良しとしよう。

Img_8643  第三特科隊の隊員。牽引砲であるFH-70榴弾砲は人員が露出し操作する為、自衛用の火器の携行は必須である。そんな中でも、支援の要員だろうか、デジカメを出して記念撮影をしようとしている様子が面白い。

Img_8644  あたかも状況中とみえる一こま。軽装甲機動車から降車展開の練習を行う隊員。こう降りてこう構えて、こう撃つ!なんていう号令が聞こえてきそうである。背中に装備しているオレンジ色のはロープ投射器具。使い込まれた89式小銃が射手に応えるが如く、塗料が剥げ、鈍く光を放っている。

Img_8647  軽装甲機動車の車上にてMINIMI分隊軽機用の5.56㍉弾空包を準備する隊員。安全管理の観点から空薬莢を全数回収する旧軍の伝統は健在で、従って射撃前に何発装填されているかを数えるのも重要である。

Img_8668_1  同じ頃、グラウンドでは徒手格闘の訓練展示が行われている。ブッシュハットを被った隊員が近接戦闘における最後の武器、徒手格闘の模様を演舞の如く行っている。蹴撃は個人用防護衣に護られた対象に対し、有効な打撃を与える手段である。

Img_8661_1  徒手格闘訓練展示が開始された後にも、降車展開の訓練は続けられる。基本的に乗車戦闘に主眼が置かれた軽装甲機動車と、降車戦闘を念頭に設計された96式装輪装甲車では戦闘の概念が異なる、ましては車両は連隊のものではなく、事前訓練は入念に行われた。

Img_8660_1  獅子と三筋の爪痕は第三戦車大隊の部隊マークである。その前にて訓練を重ねる隊員。しかし、高機動車の配備開始から15年そこそこ、軽装甲機動車の部隊配備開始から5年程、5年後には通常の装甲車が普通科部隊広範に配備される可能性もあるわけだ。

Img_8670_1  徒手格闘の訓練展示は続く。写真は一本背負いの瞬間。武道としての演舞が実戦の近接戦闘にどの程度効果を齎すかに疑問符を付ける人もいるが、心の鍛錬を積み重ねることは、危機に動じない胆力を育成することは間違いない。

Img_8680_1  松板を一撃で割る訓練展示。

 こういった展示は間近で見ると一番迫力が伝わる。来年度は是非、観覧席前に横一列に並んでの徒手格闘訓練展示を期待したりする。

 この展示を終了後、全員駆け足にてグラウンドから退場した。

Img_8671_1  訓練展示状況開始!。号令一下、参加部隊を乗せた軽装甲機動車は続々と訓練展示へ展開していった。

 信太山連載の次回は訓練展示本編を掲載予定であるので、どうぞお楽しみに!。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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信太山駐屯地創立50周年記念行事 観閲行進編

2007-06-19 00:35:27 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■普通科部隊の観閲行進

 信太山駐屯地祭詳報は、部隊整列編に続き本日は信太山駐屯地祭観閲行進特集を掲載する。陸上自衛隊の作戦部隊体系の中核は、普通科部隊である。これは師団の作戦基本単位である連隊戦闘団が普通科連隊を中核として編成されることから端的に見て取れる。

Img_8708  普通科部隊といえば、無反動砲小隊と迫撃砲部隊のみが車両化され、本部管理中隊隷下の車両小隊により若干の部隊が自動車化される、とかつては解説されたが、今日では自動車化され、一部は装甲化、また火力もミサイルなどにより強化されている。その様子を、本日は写真にて紹介したい。

Img_8416  連隊幕僚が乗車した82式指揮通信車を先頭に会場に入る。掲げられているのは連隊旗で、後方に続く車両は本部管理中隊本部班の車両である。その後方からは徒歩行進部隊が続く。通常の普通科連隊による観閲行進では幕僚の乗車した車両に続き徒歩行進が行われる。

Img_8422  昨年と同じ場所から撮影。信太山駐屯地は観閲行進を一段高い高台から、しかも正面あら撮影することが出来、モータープールも高台、しかも勾配の向こうにある為望遠レンズを用いた圧縮効果で、様々なアングルから撮影することが可能だ。

Img_8432  中隊旗を先頭に普通科中隊の各小隊から代表の一個小銃班が集められ、小隊規模の行進を展示する。普通科中隊は37連隊には五個あり、各中隊は四個の小銃小隊と対戦車小隊、中迫撃砲を装備する迫撃砲小隊より編成されている。

Img_8434  普通科中隊は戦闘基幹部隊として近接戦闘にあたり、小銃を中心とする携帯火器を以て陣地に立て篭もる敵を掃討し、奪取し、地域を警備する。観閲行進を行う部隊。多くは着剣した89式小銃を携帯しているが、MINIMI分隊軽機を携行する隊員も見える。MINIMI分隊軽機とは小銃弾を用いる機関銃である。

Img_8446  続いて誘導隊の観閲行進。89式小銃の構え方から違う彼らは、紛争地帯に取り残された邦人の救出を担当する部隊で、各部隊が持ち回りで配置する。個人装備もやや重いが高い防護力を有する戦闘防弾チョッキ2型を着用している。

Img_8454  本部管理中隊車両部隊の観閲行進。本部管理中隊は、偵察を行う情報小隊、掩体構築などの作業を行う施設小隊、通信小隊、衛生小隊などより編成されている。師団隷下部隊から一切支援を受けられない状況においても即応して部隊が行動する上で必要な装備が集められた部隊といえる。

Img_8697  施設小隊のドーザー。通常のブルドーザーであるが、自走した場合には充分な速度を出すことが出来ない為、73式大型トラックに載せられ運搬される。小型ながら陣地という地形防御に頼り戦闘を行う防御戦闘を遂行する上では、陣地は火力を防ぐ重要な役割を有し、従って施設器材の重要性は高い。

Img_8701  ホイールローダー、そして資材運搬車が観閲行進を行う。不整地においても装備を運搬可能な資材運搬車は中隊本部にも装備されており、人力運搬不能な装備をまさかという場所に配置し有効な複合陣地を形成する。その後方からは衛生小隊の救急車が続く。

Img_8468_2  普通科中隊の観閲行進。写真は高機動車。10名の普通科隊員を迅速に展開させる車両で、バンパーに書かれた所属部隊は第2中隊とある。装甲こそないものの1990年代より急速に普通科部隊への部隊配備が進み、東北や北海道の一部の普通科部隊を除けば配備が行き渡っている。

Img_8469  第三中隊と第二中隊の73式小型トラック。いわゆるジープと呼称された旧73式小型トラックに代わり急速に部隊配備が進む車両である。三菱自動車のパジェロを母体とした為、路上性能は素晴しく、舗装の進んだわが国においては路上移動速度が事態拡大防止の観点からは重要である。

Img_8473_2  高機動車に搭載された81㍉迫撃砲。車載下状態では恐らく射撃を行うことは危険が伴う。5600㍍の射程を有する中型迫撃砲で、発射速度が早く、軽量でどこへでも分解し人力輸送が可能。普通科中隊の迫撃砲小隊に配備、第一線に木目細かな火力支援を行う装備である。

Img_8476  軽装甲機動車。2001年より配備が開始され、毎年100輌以上が生産されている普通科部隊近代化の代名詞。第三師団には2005年より配備開始、37連隊には昨年から配備が開始された。写真は第五普通科中隊の車両で、訓練展示には第二普通科中隊の軽装甲機動車も参加、このほか本部管理中隊にも配備されていた。

Img_8487  01式軽対戦車誘導弾を携帯。この他にMINIMI分隊軽機を搭載する車両がある。軽装甲機動車は一個小銃班を複数の車両に乗車させることで一個小隊の車両数を増加させ、木目細かな戦闘を可能とし、また、乗車戦闘により高い機動打撃能力を確保することにあったとされる(参考文献:次世代の陸上自衛隊 かや書房)。

Img_8716_1  重迫撃砲中隊の120㍉重迫撃砲RT。持続射撃能力や命中精度では105㍉軽砲には劣るものの、射程延伸弾で13000㍍の射程を有し、射程では軽砲を凌駕している。重迫牽引車により高い機動力を有しており、普通科部隊へ直接支援火力を供している。

Img_8723_1  姫路駐屯地第三特科隊のFH-70榴弾砲。牽引式の39口径155㍉榴弾砲であるが、自走も可能である。

 後方には同じく姫路駐屯地より展開した第三高射特科大隊の93式近距離地対空誘導弾が後続している。

Img_8727  第三高射特科大隊の81式地対空短距離誘導弾発射機。近年、新型であるC型の配備が進んでいる。

 後続するのは第三化学防護隊から拡大改編された第三特殊武器防護隊の化学防護車、続いてモータープールからは機甲部隊が姿を現している。

Img_8504  今津駐屯地より展開した第三戦車大隊の96式装輪装甲車と、74式戦車。96式装輪装甲車は、73式装甲車に代わり昨年度より第三戦車大隊に配備が開始されたもので、大隊本部の他、中隊本部にも配備され、大隊幕僚の他、必要に応じて戦車を掩護する普通科隊員を乗車させることもある。しかし可能であれば普通科連隊に中隊規模で配備が望まれる装備だ。

Img_8733  74式戦車。昨年より多い二輌が参加。第二世代戦車として開発された国産戦車で、夜戦能力とデータリンクによる協同交戦能力に限界があるが、新型105㍉砲弾の採用など攻撃力では第一線級の能力を維持している。地形防御を活用するべく車体を傾斜させる油気圧サスペンションを有しており、地皺を活かした戦闘が可能である。

Img_8736  観閲行進に続く祝賀飛行。やはり昨年より機数が多い。八尾駐屯地に駐屯する第三飛行隊の観測ヘリOH-6D、多用途ヘリUH-1J、そして方面隊直轄の第五対戦車ヘリコプター隊所属、AH-1S対戦車ヘリが明野駐屯地からそれぞれ二機、計6機が編隊飛行を行った。50周年ということもあり、規模が拡大した観閲行進であった。

信太山駐屯地祭詳報は更に訓練展示編、そして装備品展示編へ続く。お楽しみに!

HARUNA

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信太山駐屯地創立50周年記念行事 部隊整列編

2007-06-18 21:20:29 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■2007年4月15日

 今年度で創立50周年を迎えた信太山駐屯地には大阪府唯一の普通科部隊として警備任務にあたる第37普通科連隊や駐屯地業務隊、第三直接支援中隊、会計隊、基地通信隊、警務隊などが駐屯している。

Img_8313  信太山駐屯地祭へは、ひえ~氏一行と毛糸氏と併せ、地下鉄からJR線を乗り継ぎ、0855時には信太山駐屯地に到着した。小生はまず、小火器など携帯装備の装備品展示を見学して後、昨年と同じ撮影ポイントへ向かう。その途中目にした観閲行進準備の車両。第三師団隷下の各種車両が整列している。

Img_8318  0945時ころから式典に参加する部隊が会場周辺に集結を開始していた。この頃には名古屋から遠征されたC.ジョニー氏一行と合流し、久々の大規模合同調査(笑)の状況となっていた。写真は珍しい誘導隊装備の普通科隊員。50周年ということでどういった展示を行うかに期待が膨らむ。

Img_8324_1  0950時頃から部隊入場が開始される。89式小銃を装備した隊員の他に、110㍉個人対戦車弾を携行した隊員や、前期教育中ということで64式小銃を携行する新隊員などが入場し、あたかも自衛隊装備史的な雰囲気となっている。

Img_8333  部隊整列。中隊旗が前に掲げられる。連隊の下に普通科大隊を置かない編成を採用しており、この為、陸上自衛隊の普通科中隊は諸外国の歩兵中隊よりも規模が比較的大きいことで知られる。第37普通科連隊は本部管理中隊と五個普通科中隊、重迫撃砲中隊より編成されている。

Img_8344  1005時より指揮官による部隊巡閲。第37普通科連隊長兼ねて信太山駐屯地司令である川原光雄1等陸佐が車上より部隊を視閲する。司令は防大と幹部候補生学校卒業後最初の着任地がこの信太山であり、11師団司令部や陸幕勤務を経て2005年8月より現職にある(37RのHPを参考に作成)。

Img_8355  誘導隊装備の普通科隊員。着用しているのは小銃弾などに対する防御力を期した戦闘防弾チョッキ2型で、誘導隊の任務は紛争地などにおける在外邦人の非戦闘地域から安全な地域への誘導である。ゴーグルやプロテクターなどが物々しく、また頼もしい。

Img_8362  祝辞を述べる西村真吾代議士。大阪府選出の西村代議士は安全保障に関心が深く、北朝鮮による邦人拉致事案に対しては主動的に解決へ尽力したことで知られる。武士を思わせる豪快さと首尾一貫した価値観に基づき政治活動を行っている。

Img_8378  1035時、観閲行進準備の号令がかかる。即応能力を強化するべく後方支援部隊の改編を行い、更に後方支援部隊の第一線部隊への支援能力を急尾化する目的で、この信太山駐屯地にも第三後方支援連隊の普通科直接支援中隊が配属されている。

Img_8364 こちらは訓練展示に向けて整備に余念の無い車両。一年に一度の駐屯地祭であり、式典に参加する車両はこれでもかというほど磨き上げられている。留学生で徴兵を経験したという友人は多いが、彼らから写真の感想を聞いても整備の行き届き方は凄いとのことである。

Img_8383  着剣した64式小銃と、やや旧式となった66式鉄帽を装備した隊員。このまま行進しつつ会場から退場し、観閲台から左手のモータープールへ移動、そこから観閲行進を行う。

 この続きとして、観閲行進編・訓練展示編・装備品展示編を順次掲載予定である。お楽しみに。

HARUNA

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岐阜基地の航空機 三井城址より撮影

2007-06-17 19:48:47 | 航空自衛隊 装備名鑑

■岐阜基地一望の三井城址

 山城として栄えた三井城、昨日掲載した三井城址は、あたかも神明公園から小牧基地を一望出来るが如く、三井城址からは岐阜基地を一望することが出来る。

Img_7921  日本の航空基地は、人口密集地域が基地近傍まで拡大しており、市街地上空を自衛隊機が飛行するということも珍しくは無い。しかしながら、三井城址という山の頂上から見下ろすようにカメラを向けると、離陸した機体と航空機を一枚に収める事が可能となる。こういうアングルは稀有ではないかと思ったりする。

Img_7905  東から西へ伸びる岐阜基地の滑走路は、タッチ&ゴーの訓練を行う機体や、着陸に先立ち滑走路上空をフライパスする機体は、滑走路上空を通過してのち、少なからずこのF-15イーグルのように三井山の周囲を一周し、再び滑走路東端に向かってゆく。機体上面を見せつつ飛行する姿は中々の迫力である。

Img_7932  滑走路を上空から望むことが可能な三井山からは、離陸した機体が周囲を飛行し、その後に着陸、エプロン地区へ戻るまでの一連の流れを見ることが出来る。また、三井山は100㍍以上の標高があり、比較的高い視点から飛行する航空機を撮影出来る。徒歩で頂上まで10~15分を要するが、頂上からの眺望は疲労感を吹き飛ばす程のものだ。

Img_7934  着陸後、誘導路をエプロンに向かうF-2B。基地と市街地は国道を挟んでいるが、上空からの光景をこのようにしてみると、文字通り基地に隣接し高層住宅が立ち並んでおり、飛行機好きな人には堪らないだろうと思いつつ、かなりの轟音が新しく住む人には違う意味で堪らないのでは、と思ったりもする。

Img_2719  川崎重工から地上滑走試験の為に滑走路に入る海上自衛隊のP-3C哨戒機。こうした光景を見ることの出来る三井山であるが、小さな虫がおおく、時には熊蜂が羽音を響かせている状況と出くわしたことがある。特に熊蜂は刺されると大変なことになるので、冷や汗が出たこともある。

Img_2724  地上滑走を終え、工場へ戻る途上岐阜基地エプロン地区の前を通過する。銀色の塗装が眩しいC-1輸送機と通常迷彩のC-1輸送機が並ぶ。航空祭以外で、哨戒機、輸送機、戦闘機が並ぶ様子は那覇基地などを除けば恒常的に見ることが出来る基地は少ないのではないか。

Img_9036  川崎重工の社用機が岐阜基地を離陸し三井山の周りを一周するように飛行する。まさかタッチ&ゴーの訓練ではないだろうがかなり近くまで寄ってきたので慌ててカメラを構える。もしかしたら川重社内のテストパイロットが訓練にこの機体を使用することもあるのだろうか、と考えたりした。

Img_9047  着陸した社用機。岐阜基地のエプロン前を通過する。撮影したのは4月19日。岐阜基地エプロンには四日後にラストフライトを行い、全機無事故にて任務を完遂するT-3初等練習機が翼を休めている。自衛隊機として現役状態でのT-3を見たのはこの日が最後、ご苦労様でした。

Img_1887  その一ヵ月後、T-3退役後の岐阜基地エプロンには、後継機であるT-7の姿が見えた。300㍉望遠、場合によっては200㍉でも充分な写真を撮影できる小牧の神明公園と比して、三井城址からは300㍉でトリミングが必要、出来れば500㍉か300㍉に×2テレプラスが欲しくなるが、市街地と航空機、という面白いアングルの写真を撮ることも可能である。

HARUNA

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三井城址 この山高からずしかれども要害堅固定なり

2007-06-16 23:08:42 | 写真

■尾張を一望

 城郭とは、交通の要衝や産業上の中核地域といった地政学上の重要拠点から、防御拠点となる地域に配置され、抑止力として機能する施設である。1586年の大洪水により木曽川は三井山の麓から現在の位置に場所を換えたとされるが、断崖絶壁と傾斜のゆるい斜面には木曽川を抱えた三井山は尾張を一望する築城に最適の位置にあった。

Img_1883  三井城は、木曽川の北岸に聳える山稜の頂きにかつて存在した城郭の跡地で、すぐ隣には今日も防衛の要衝の一つといえる飛行開発実験団や第四高射群司令部の置かれた航空自衛隊岐阜基地や第369施設中隊の駐屯する陸上自衛隊岐阜分屯地という自衛隊施設がある。

Img_1903  三井城址は名鉄新那加駅や各務ヶ原市役所前から2km程(新那加はもっと近かったように記憶)、山そのものが三井山ふれあいの森として公園化されている。公園の入り口には貯水池のようなものがあり、ここは現在、公園化の工事が進められているが、御手洗があるものの飲み物の自販機は無いので予め購入しておくことをお薦めする。

Img_8024  公園の入り口から山頂までは440㍍、しばしの散歩道である。途中には三井山古墳というものがあり、小さな横穴なのだが墳丘は10㍍程、中央には石室があるとのことで、1400年ほど前に造られたと説明されている。かつて数十の古墳があったが多くは崩落して今に至る。

Img_9012  頂上に向かう途中カメラを名古屋市に向ける。光量などの関係で霞んでいるが名駅の高層ビル群が見える。距離にしてざっと33km、名古屋城やテレビ塔は確認できなかったが早朝の空気が澄んだ時間帯であれば見えたかもしれない。

Img_8035_1  山頂付近にある展望台。櫓のように見えなくも無い。三井山に城が築かれたのは室町時代、この地方の権力者であった土岐忠八郎、その家臣である三井弥一郎により造られたとされる。典型的な山城として機能したが、三井城は美濃国での斉藤氏による謀反に乗じて、1548年に織田信秀の東濃侵攻の際に落城している。

Img_1899_2  三井城はその頂上に本丸を有し、第一、第二、第三の曲輪が構築されていた。曲輪は第一曲輪が全周を構成しているが、第二、第三の曲輪は山の傾斜が比較的緩やかな東側に設けられていたとされる。また、第一曲輪の西側には溜池があったとされ、井戸の掘れない山城の持久戦に備えた準備といえる。

Img_8027  山の海抜は108.8㍍。三井城が築かれるまでは山頂に神社があったが、築城にあたって遷座され、御井神社と天神神社として現存する。江戸時代の文献には、この山高からずしかれども要害堅固なり、と記載されており、なるほど当時の木曽川の位置を踏まえればこの理解は妥当である。

Img_9001  頂上より小牧城を望む。小牧城に3月、展開した際には天守閣(型資料館)が工事中で入城することが出来なかった為、この城址の位置を確認することは出来なかったが、おそらく名古屋城、犬山城、岐阜城、小牧城が望見できたと思われる。

Img_1877_1  反対側を見渡せば航空自衛隊岐阜基地が広がる。写真は川崎重工岐阜工場で、次期固定翼哨戒機P-X、次期輸送機C-X、そして定期検査のP-3C哨戒機やC-130H輸送機が見える。Jwing誌2004年7月号にはここ三井城址から撮影したと思われる基地一望の写真が投稿されていたが、岐阜基地のエプロンには輸送機、戦闘機、支援戦闘機、練習機が翼を休めていた。

Img_3667  ところ変って犬山城。三井城址から15kmほどの距離にある国宝天守閣。三井城も木曽川が大洪水により流れをかえる前には、この犬山城のように河畔に天守閣をかまえていたということになる。三井山の天守閣について、浅学にして資料の有無を知らないが、山頂の説明では二層型の天守閣が描かれていた。

Img_3685  犬山城天守閣から望む岐阜基地の方角。

 管制塔がみえ、CH-47J輸送ヘリコプターがいままさに着陸しようと飛行している。機体の迷彩から陸上自衛隊の機体であり、川崎重工での定期検査にあたる機体であることがわかる。

Img_6100  三井山の方角。四つの稜線が見えるが、右から二つ目の尖った山が三井山である。その左隣、山頂に白いものが見えるが、これは第四高射群のミサイル陣地であり、ペトリオットミサイルが空を睨んでいる。写真の下に見える川は木曽川で、こちら側が愛知県、対岸が岐阜県。

Img_5725_1  再び所換わって対岸の岐阜県は金華山の頂上に威容を誇る岐阜城。織田信秀が東濃を制圧し、引き継いだ織田信長が築いた城郭である。犬山城と異なり、かつての岐阜城天守閣は岐阜城廃城後、加納城に移築されたため、現在の岐阜城は再建天守閣である。

Img_5826  岐阜城天守閣から三井山の方角を望む、が標高差が200㍍以上ある為に中々見つからず、岐阜基地を基点に探す。距離にしてざっと10km、広角レンズにて撮影したのだが、望遠レンズがあれば編隊飛行のような視認容易な被写体は撮影できそうな印象である。

Img_5751_1  三井山。写真右端にあるものがそうである。左端には岐阜基地の芝がみえる。三井山の周囲には幾つもの山が並ぶが、犬山城、岐阜城から三井城を眺めると、その中で高く、また傾斜がきついことが見て取れる。規模は小さいものの、文字通りの山城、航空宇宙博物館や岐阜基地などだけではなく、一つ立ち寄るに値する城址である。

HARUNA

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京都大覚寺 今に伝える絢爛な旧嵯峨御所

2007-06-15 23:33:09 | 写真

■嵯峨山の麓

 大覚寺は真言宗大覚寺派の大本山であると共に旧嵯峨御所としてしられ、京都市右京区、市街地からはやや距離があるものの、嵐山のすぐ北という立地から観光地としても有名である。

Img_1782  嵯峨山の麓、大沢池とともに広がる大覚寺は嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、嵯峨天皇が崩御した後の876年に離宮から寺に改められ、この際に今日に続く大覚寺の名前に改められた。昨日の大沢池掲載に引き続き、本日は大覚寺の中を紹介したい。

Img_1785  史跡大覚寺御所。

 院政や南北朝時代など、政策中枢の変化が生み出した寺院といえる。北大路通からきぬかけの路を経て広沢池、そして達した大覚寺は、アップダウンが多かったものの、広がる境内は映画や時代劇などに登場することで知られ、疲労を吹き飛ばすに相応しい情景をみせてくれる。

Img_1668  離宮から寺院へと換えた大覚寺は広く信仰を集めているというべきだろうか、その象徴的なものとであった。

 ロードレーサーを停車させ境内に入ると寄進者の名札が敷き詰められたものや、碑が建っている。

Img_1683  大覚寺境内へ。記憶では拝観料は500円であった。この着物が飾られている大玄関は江戸時代に京都御所より移築されたものであるとのこと。また、この玄関の障壁画は狩野永徳によって描かれた“松ニ山鳥図”である。国宝重文なども多くあるが、保護の観点から宝物庫に収蔵されているとのこと。

Img_1685_1  876年に離宮から大覚寺として改められた後、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王が初代門跡についたという。日本では最も古い門跡寺院であると説明された。

Img_1699  この大覚寺は、心経信仰の霊場であり、嵯峨御流華道の根本道場である。一時は荒廃したとのことだが、1307年に後宇多天皇が入寺し、寺院の復興に寄与し、この大覚寺からの院政を行うことで、所謂大覚寺統という皇室系統が展開された。

Img_1703_2  大覚寺は宸殿、御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などから形成されており、これら堂宇の中には絢爛豪華な襖絵が描かれている。

 この内、宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、重要文化財の指定を受けている。

Img_1704_2  江戸時代後期の公家女房正装。俗に言う十二単であるが、応仁の乱以降正統な形態が不明と成り独自の形態が生まれた。これは桃山時代から1843年まで維持された形態である。平安装束といわれる皇室の正装も時代と共に変化しているが、寺院とは異なり、中々その様子を写真に収める機会がないのは残念である。

Img_1708  平安装束が並べられた間。個々の着物にそれぞれ説明が記されており、背後に並ぶ襖絵とともに絢爛豪華な皇室文化の様子を今に伝えている。しかし光量不足で、フラッシュを焚くと平坦な画に、三脚は保有していない、撮影は困難を極めた。

Img_1713  大覚寺は入場した際の印象として公開区画が広くないようなものを受けたが、実際には広く、堂の中を木組みの通路が結んでいる。歩いてみると鶯張のような軋む音が聞こえるが、それが仕様であるのか経年劣化であるのかは知ることが出来なかった。ご存知の方はお教えいただければ幸いだ。

Img_1717_1  複雑な通路は、10㍉広角レンズが欲しくなるほどに独特の情景を見せてくれる。手前はフラッシュを焚くとその様子も見れるのだが、残念ながら標準装備のフラッシュでは限界があった。こういった場合の露光調整などは慣れておきたいものだ。

Img_1722  更に奥に進む。この先には写経を行う場所があるのだが、その区画は撮影はご遠慮下さいという旨の張り紙があり、カメラをケースに収めじっくりと拝観した。

Img_1733  この先にある写経殿は1925年に建てられたもので法隆寺の夢殿を模したもので、嵯峨天皇が記したものを初めとする多くの般若心経が収められている。これら経典は天皇の命により奉られた経典は60年に一度開封されるとのことである。

Img_1748  夏が近付くにつれて太陽の角度が高くなり、真上から射す陽光が室内を影で包み、独特の風景を醸しだす。

 夏季とは早朝や夕刻など時刻によってみせる情景を刻々と変えてゆく面白い時期である。

Img_1754  公開されているところから撮影できる角度は意外と限られている為、フレームの傾きや手を上に伸ばしての撮影方法などを試みる。そういえば厚木基地では一脚を高く掲げて機体の上面を撮影していたが、寺院でも一つの撮影方法といえるかもしれない。

Img_1762  先に述べた大覚寺統は、持明院統との間で皇位継承を争ったが、この南北朝の争いも1392年の両朝講和により一段落した。日本政治の形態は写真の通路以上に複雑であったが、その岐路となる場を提供したのもこの大覚寺である。

Img_1770  じっくりと襖絵を眺めたいが時間の都合もある。

 大覚寺へは鉄道駅からは若干距離がある為、28系統バスの利用がお薦めである。28系統バスは京都駅から阪急駅に接する四条大宮、松尾大社、嵐山公園を経て大覚寺に至る。

HARUNA

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京都大沢池 大覚寺から望む嵯峨院苑池

2007-06-14 17:21:31 | 写真

■日本最古の庭園の一つ

 暴れん坊将軍や水戸黄門といった国民的時代劇で、ロケ地として幾度も選ばれる大覚寺へ、先月、友人とともにサイクリングに展開した。サイクリングとはいっても時間的余裕は二時間から三時間、ゆっくりと観て回ることは出来なかったがその際の写真を掲載したい。

Img_1803  大覚寺境内の写真は次回に掲載するとして、本日は大沢池の写真を掲載する。とはいえ、残念ながらそこまで水質が良いとは言えず、時刻も夕焼けが撮影できる時間帯でなかったのが残念であった。機会を改め、空気の澄んだ早朝か、夕日の時間帯に撮影をしたいものだ。

Img_1789  大覚寺境内から大沢池に流れる水路。大沢池は、嵯峨天皇の治世下に造営された嵯峨院離宮苑池の一部であり、今日では大覚寺の境内に属している。情景としては冒頭の写真に掲載した心経宝塔が水面に映りこんだ様子が有名である。

Img_1839  9世紀に造営された池であるが、造営当時は泉、滝や名石などが並んだ優美なものであったとのことだが、滝は残念ながら枯れてしまっており、その跡や窪んだかつての小池が僅かに当時の面影を伝えるに留まっている。

Img_1840  同じく大沢池に続く水路の一つ。大沢池の周囲は桜などの木々が茂り、春は花の名所であると共に、秋には月見の名所であることでも知られている。大覚寺境内は拝観料が必要であるが、大沢池は自由に入ることが出来、池畔の散歩道には涼しい空気が流れていた。

Img_1842  この時期は、嵐山など市街地を離れた田園地域において田植えの時期にあたり、水を湛えた水田が都を囲む峰々を鏡の如く映している。この様子を写すべくロードレーサーを路肩に止めシャッターを押す。この情景ももうしばらくすれば稲が青々と水田を覆い、全く異なる面影を見せることとなる。

HARUNA

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京都三大祭 祇園祭 平成19年度予定

2007-06-13 12:28:46 | 北大路機関 広報

■祇園囃子の聴こえる季節

 今年も、京都に初夏を知らせる風物詩、祇園祭の季節がやってきた。京都三大祭として葵祭り、時代祭りと並べられる祇園祭であるが、巨大な山鉾が突如出現し、山鉾巡行において動く様は見る者を圧倒する迫力である。

Img_3976  祇園祭に関しては京都 『祇園祭』 祇園会鉾立・鉾引き染めを見ていただくとして、本日は、昨年の写真を用いて、今年の行事日程をお伝えしたい。

 七月十日から七月十四日まで山建及び鉾建で、巨大な山や鉾を組み立てる様子が、四条烏丸界隈を中心に繰り広げられる。

Img_4285_1  七月十四日から七月十六日まで、宵山。宵山とは、山鉾のライトアップのようなもので、宵山の日でなくとも、試験点灯のようなことも行われている。昨年は宵山でなくとも点灯している様子を見たが、宵山は物凄く混雑する為、通常の日の試験点灯の方が、ゆっくりと見物できたと思うのは小生だけであろうか。

Img_4297_2 七月十七日、山鉾巡行、0900時に四条烏丸を出発。同日、神幸祭。実を言うと、山鉾巡行を最後に見たのは、四年ほど前であり、当時撮影した写真が出てこない。烏丸御池駅周辺にて撮影したのだが、それ以降、行くことができなかった。今年は何とか、その様子を撮影したい。

Img_4212  七月二十四日、花傘巡行、還幸祭が行われる。祇園囃子とともに 京都祇園祭宵宵宵山に掲載したが、多くの観光客で賑わう。毎日、京都府警の発表をみると、あの入間基地航空祭の二倍は入っている。しかし、それだけ観るに値する壮大な祭事であり、皆さんにも一見をお薦めしたい。

HARUNA

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小田急電鉄特急ロマンスカーの旅 20000形に乗って

2007-06-12 21:41:01 | コラム

■ロマンスカー乗車紀行

 海上自衛隊厚木航空基地で行われた“ちびヤン”。早朝の新宿駅前に到着した小生は、新宿から厚木基地へ向かう移動手段として小田急ロマンスカーに乗車した。

Img_0568_3  関西圏の特急は、京阪神間の輸送では阪急、阪神、京阪と無料の私鉄が多く、比較的遠距離を走る近鉄、そして関西空港や高野山、和歌山を結ぶ南海などの例外を除けば、本数としては無料特急が多く、小田急、東武、西武、京成といった関東の有料特急体系とは異なったものとなっている。

Img_0536_4  小田急のロマンスカーは、ロマンスカーという語句が私鉄特急の代名詞的に用いられるほどであり、デザイン的にも名鉄7000形電車パノラマカーの影響を強く受けた車両や、独自の進化を遂げた車両など、見ているだけで楽しくなるような秀逸なものが多い。

Img_0548_1  今回乗車したロマンスカーは、20000形とよばれるもので、写真から見て取れるように運転台を従来型としつつ全面展望を確保したものである。JR線に乗り入れ、御殿場、沼津まで運転が行われる。かつて、3000形電車を用いて御殿場線連絡急行として運用されていたが、20000形導入を契機として特急となった。

Img_0550_3  七両編成である。、写真は、箱根行きのものだが、第一印象は、車窓が比較的高いところにあり、箱根方面への観光輸送に重点をおいた車両であることがわかる。これは従来型の二階に運転台を置いた場合で機内設計である。また、窓の大きさも心なしか大きく、車窓からの情景に期待が膨らむ。

Img_0551_1  小田急電鉄初のダブルデッカー車両。ダブルデッカー車両は近鉄のビスタカーで馴染みがある。二階部分は三列方式のスーパーシートで、やはり曲面ガラスを採用したことにより上方に対しても開放感のあるデザインとなっている。スーパーシートでは衛星放送などを楽しむことが出来るが、電波状況の関係で、トンネル内などでは視聴できないとのこと。

Img_0564  一階部分はセミコンパートメントとなっており、家族連れなど、個室を望む声に対応したのだろう。セミコンパートメントは、四人掛のガラスで仕切られた個室であるが、特急料金四名分を特急券購入時に申し出れば利用できるとのことだ。沼津乗り入れという長距離を運行する特急だけに車両限界や、サービスなどはJR東海の意向が反映されている。

Img_0552_2 ちなみに御殿場線乗り入れ時は、松田駅にて小田急職員とJR東海職員と運転を交代するとの事だ。また、お気付きの方も居ようが、スーパーシートとはJRでいうところのグリーン車である。3000形時代は座席指定は無く号車指定であったが、現在は全席指定となった。

Img_0553_1  新宿駅を発車したのち、あまり速度を上げることなく運行していたが、これは相模原に住んでいた後輩曰く電車が渋滞しているからとのことである。発車後、車内販売が早速始まる。考えてみれば新幹線以外で車内販売というのは久しぶりだ。

Img_0556_1  一般車のシート。シート間隔も充分あり、座席ごとの仕切りも装備されている。この一つ前の10000形ロマンスカーよりも間隔は30㍉伸ばされ10000㍉となった。また当然リクライニングシートである。

Img_0562_2  百合のステッカーが貼られた車両には売店があり、オーダーを受け、飲み物などを座席まで運んでもらうサービスがある。車内販売は、新幹線のようにワゴンを用いた販売も行われており、手元にないものであれば、売店カウンターからすぐに取り寄せてもらえる。

Img_0559_1  ということで、早速取り寄せてもらった。可愛らしい10000形特急電車。勾配の厳しい箱根への乗入を前提に短く纏められた連結構造が旨く再現されている。ロマンスカーグッズは、新宿駅の券売所の周りにも展示されており、歴代のロマンスカーがデフォルメされ、置かれていた。

Img_0571_1  御殿場乗入ということは、富士総合火力演習の後に関東へアクセスする場合など、利用することが出来、あれだけのサービス充実ぶりならば楽しめそうだという予感を持った。また、御殿場駅~足柄駅間では富士山と特急という写真を撮影できるポイントがあるそうで、機会があれば行ってみたいと思った次第だ。短時間であったがロマンスカーを満喫し、厚木基地へ向かった。

HARUNA

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ダイヤ改正に消えゆく八連パノラマsuper

2007-06-11 21:32:31 | コラム

■特急体系に変動?

 名古屋鉄道は、名古屋市を中心に、豊田市、岐阜市、豊橋市、常滑市などの周辺としを長大な路線網で結ぶ通勤交通機関としての一面と、犬山市、知多市周辺の観光地を結ぶ観光鉄道としての一面を有している。

Img_5973_1  さて、昨日、C.ジョニー氏より電話にてお教えいただいた話として、来月に行われるダイヤ改正にて、支線を中心に運行されていた1000形特急電車の運用が見直され、八連の重結状態での運用が終了するとのことである。したがって、回送電車を除き、下のような情景は観られなくなる。

Img_8205  基本的に、1000形特急電車パノラマsuperは四両全車特別車の編成と、本線を中心に運行されている一部特別車の編成があるが、犬山方面への輸送では、四両の全車特別車を連結し、八両編成での運行が為される場合があった。

Img_8005  今回は、空港連絡特急μスカイとその同系列の、つまり2000形、2200形の増強により代替されるとのことだ。これらについては、既報記事中部国際空港直通特急名古屋鉄道 μスカイを見ていただくとして、同時に7000形の減勢も進む為、より通勤需要に重点を置いた編成へ移行するようだ。

HARUNA

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