イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

罪悪感の原型!

2009-02-20 | 第四章「愛とゆるし」

 青春期までを過ごした家の裏庭は、ドクダミが繁茂し、大きなヒキガエルや蜥蜴がいたりで、ちょっと気持ちが悪い場所であった。しかし、遊び場としても、顕微鏡や天体望遠鏡をのぞいたりする研究?の場所としても馴れ親しんだ場所であった。

 中学に入ったころであったか、美術の課題があった。

 裏庭には、沢山の蟻がいて、中にはかなり大きな蟻もいた。ふとした思いつきで、画用紙を地面に置き、大きな蟻が這い上がって来たとき、ロウソクのロウをたらし、蟻を生きたままロウずけにし作品を作ろうとした。

 実際にうまくコトが進んだが、蟻の哀れな姿を見て、はっと罪悪感を感じた。結局は、美術の課題は別の作品を提出したが、その時感じた罪悪感は、不思議なほど蟻の姿とともに記憶に固定された。

 聖アウグスティヌスは罪を「神を無視することに至るほどの自己愛」と定義したそうだが、そんな自分に、暗い罪悪感のうねり経験した。

 若い頃、感受性の強いころの自分の罪悪感の記憶はこのようにあるが、今はどうなのだろうか、例えば現代でも世界で67億人以上いる中で、10億人位の人が餓えているといわれている。そんな現実の中で、あまり罪悪感を感じることもなく飽食をしている。

 罪に対する感受性の喪失は、実は一番恐ろしいことかもしれない。罪悪感を感じなければ、「自己を無視することに至るほどの神への愛」など生まれる筈はない。

罪悪感はめぐみの一歩なのかもしれない。

*参考文献:ペトロ文庫 「聖霊」(教皇ヨハネ・パウロ二世)

<自己否定、他者否定 1/6>

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