イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

いきがいって何?

2010-01-04 | 第三章「無意識の世界」

 「生き甲斐の心理学」の看板を背負っていると、様々な「生き甲斐」のイメージと向き合う。

 「昔は、企業が丸抱えで、厚生施設ばかりでなく、生き甲斐まで個人に提供していたのに・・・」

 「生き甲斐のない人をどう地域で活性化できるか?」

 そんなイメージ(馬のモチベーションを上げるためニンジンをぶら下げるような・・・ちょっと言い過ぎだが)に触れながら、生き甲斐(いきがい)とは何かと、今更ながら考えてみた。

 生き甲斐を、誰かが与えるべき(環境を整備する等を含む)だという、議論がある。企業の管理者や政治等の制度・システムを考える優秀な人に多い。福祉の世界など、人とかかわる仕事はいうまでもない。こうした議論は大切。今の時代、こうしたことを考えることはとても貴重だ。

 私も、かつて大企業で働いたり、福祉業界で働いたこともあり、興味深々で話に加わる。大切な部下をどうするか、大切な身近な人をどうするか?

 ただ、家でぼんやり一人で考えていると、そんなことを言う自分はどうだったのか?と過去を振り返り、自己嫌悪の微かなうづきもおこる。

 今記憶にある、2つの時期がある。一つは高校2年生ごろ。もうひとつは企業で働いていた40歳前半のころ。恐らく、そうした時期に、ちょっと魔がさせば自殺等をしてもおかしくなかった危機の瞬間があった。魔がささなかった幸運に感謝しているが、恐らく、その危機の瞬間に共通なのは自分の生き甲斐の問題だったように思う。

 自分の最深部に隠れているはずの生き甲斐が、見えなくなる。様々な防衛機制の鎧の中(必死に生きているので当然だが)で見えなくなってしまう。二つの時期とも、特に物質面で困窮していたことはなかった。傍から見れば幸福な状態。

 自分の歴史を振り返れば、そうした時期の後に不思議に、何かが見え始め、何か生き甲斐らしきものを見つけていく。生き甲斐は他人から与えられるものではなく、本質的には自分で見出すものなのだろう。しかし、奥が深い。

 いきがいって何?

(生き甲斐の創造 1/15)

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