先日取り上げた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(J.D.サリンジャー著 村上春樹訳 白水社)の中で、もうひとつ、今回読んで印象に残った一節がある。
主人公に生き甲斐探しで大きな影響を与えた、まだ幼い妹フィービーの日記の一部をホールデンが記している。
・・・
どうしてアラスカ南東部にはそんなにたくさんの缶詰工場があるのでしょう?
たくさんの鮭がいるから
どうしてそこには立派な森林があるのでしょう?
そういう気候があるから。
・・・(266ページ)
不思議なことに、私は7歳の時にアラスカの南東アラスカ、シトカに両親と暮らした経験があるが、そのアラスカの記述なのだ。この小説は1950年ころの小説であり、私がシトカにいた1958年のころとさほど変わっていない筈だ。
ある夏の日(8月の終わりごろか)に母とシトカの海岸で、小さなカニを見つけては牛乳の紙パックの中に、せっせと入れた思い出がある。その時、近くに古びた工場があったが、缶詰工場だったのかもしれない。何か汽笛のような音を鳴らしていたような記憶がある(怪しげな50年以上前の記憶であるが)。
自分にとっての愛の原型(自分が愛されたり、愛した名場面)と思える心象を、時どき思い出したり思索するのが、この何年かの楽しみである。キャッチャー・イン・ザ・ライも主人公ホールデンの愛の原型探しをするとちょっと面白いかもしれないが、自分の愛の原型ウォッチングが圧倒的に楽しい。
自分の日々の暮らし方を支配しているはずの、自分にとって愛の基準はどうなっているのかということで、日々の感情生活に影響したりする。また、思索を深めることで、時に愛の原型も変わっていくのである。
7-8年前の自分の愛の原型は、今の自分にとって、ちょっと受け入れがたい。今は、ある場面をこれだと記憶しているが、今日のカニ取りの場面はどうだろう。最近啄木に凝っていたこともあるかもしれない。
石川啄木の有名な短歌 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」の磯は北海道の函館の大森海岸という説(磯はないので別の説もある)が有力だが、なにか繋がる感じである。
私は、幼いころから、父の実家の近くの小川にも沢山カニがいたこともあり、カニをよく見た。サル・カニ合戦のカニでもある。私にとってカニはいったい何なんだろう?
(生き甲斐の創造 9/15)
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