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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

仲良しになるための≪腑に落ちる≫意味!(コミュニケーション 8/10)

2011-05-09 | 第九章「愛」

 昨日で、連休も終わる。大震災の影響で仕事や学校も足踏みしてきているが、連休も終わり今週からまた、再スタートするところも多いのだろう。

 昨日は、都心方面で母の日を祝ったり、娘夫婦たちのところで楽しんだりしたが、今日からは私も仕事である。

 先週行った動物園の動物達も、連休が終わり一息入れているかもしれない。

 さて、表題のことであるが、一昨日ある論文を読んで、≪ゆるし≫ という言葉について考えていた。臨床心理学などでは、受容という言葉が良く出てくる。宗教でも≪ゆるし≫という言葉が出てくる。両方とも、世の中で言われている機能的な言葉≪許し≫などとはちょっと違い。より身体的、体感的、感情的だと思う。

 また、≪ゆるし≫は、二者の間のことである。自分と他者(他人もあれば、神仏もあるかもしれない)の間のことである。ただ、良く考えていくと、自問自答な行為でも≪ゆるし≫があるようにも思う。≪ゆるし≫は身体的、体感的、感情的面を含んだ、ごく個人的なことだからだ。

 さて、ロジャースのパースナリティ理論で、このあたりのことを述べている箇所を引用してみたい。命題18である。

18:個人が、自分の感官的・内臓的経験の一切を知覚し、それを首尾一貫した統合されている体系へと受容するならば、そのときには、その個人は、必然的に他のひとびとをよりいっそう理解しており、かつ、他のひとびとをそれぞれ独立した個人としてよりいっそう受容しているのである。

>自分の体験を述べさせていただければ、やはり、自分が≪ゆるされている≫ことを体感して初めて、≪ゆるす≫ことが理解してくる。それは理路の問題ではなく、より身体的(ロジャース流に言うと、感官的・内臓的)な問題とも思う。タイミングがあるとはいえ、やはりどこかで、自分の暗い感情に向き合い、それを体験の解釈の変化の中で乗り越えるプロセスの経験が大事なのだろう。

 大震災のあとで、やっと浜岡原発の問題が出てきた。本当の公共の問題が論じられ始めている。こうしたときに、やはり命題18ではないが、単なる理路だけの言説に振り回されず、日本人なじみの言い方として、≪腑に落ちる≫という言い方があるが、≪腑に落ちる≫ための議論を展開していただきたい。また、私も、≪腑に落ちる≫ための活動をせねばと自戒している。

コミュニケーション 8/10

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