黒澤明さんの遺作、「まあだだよ」を昨晩観た。大学の仕事を辞して、好きな文筆業に専念する先生の物語だ。黒沢明の「生きる」も若き日のメメントモリ(ラテン語で死を想えということ)を追求した話のようだが、「まあだだよ」は年老いた日の氏のメメントモリだと思った。
「生きる」の最後の場面のブランコはどこか哀愁を帯びていると思うが、「まあだだよ」の子供時代のかくれんぼと夕焼けの空の美しさは、もっと透明な喜びを表しているように思えてならなかった。恐らく、死の解釈が変わっているのだろう。
自分のことを振り返っても、若いころ、特に青年時代は、自分の物事の解釈が、防衛機制のせいで非常に硬く。まあ、自分の解釈したことはもう客観的な事実であるかのごとく思えた時期があったようだ。今は、年をとり頭が固くなるといわれているが、解釈の面では逆に柔軟性がでてきたように思える。
例えば、日本国憲法の前文がある。この解釈も、専門家でない私がどう解釈するか・・・恐縮なのだが、昔はさておき今は意外に肯定的に解釈している。そして、これをさまざまな状況判断をベースに否定的に解釈する方の意見を聞くと驚いてしまう。同じ文章でも、こうまで人は違って解釈するのかと。それを知ると、解釈とは何かという問いかけがこころの内からふつふつと湧き立つ。
文章なので事実とは恐らく違う次元なのに、あたかの事実のごとく語る。こころのダイナミズム、信じて見える世界・見えなくなる世界・・・そんなことも頭をかすめる。ただ、解釈で喧嘩するのは人の常であるが、ほどほどが良いと思う。
解釈のこと 1/10