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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

愛のことを考える!(愛の問題 1/10)

2016-02-29 | 第四章「愛とゆるし」

 先日、テレビを見ていたら、血管を健康にする体操ということで、某お医者様が桃太郎体操を実演していた。椅子の上で身体をかがめ足を抱くようにして小さくなり、15秒後に、一気に背もたれに寄りかかり大きく手足を伸ばし手先をぶらぶら揺すたっりする体操だ。ネットでYouTubeで検索すると出てくる。それを、今朝一人密かに実施したところ、愛犬のノコちゃんが眼を丸くし、小刻みに震えていることに気が付いた。完全に怯えている状態であった。悪いことをしてしまった。

 犬も人間と同様に感情を持った生命体である。そして、恐らく人間の原初感情である「好きか、嫌いか」、「怖いか、怖くないか」をもっている。ノコちゃんに近づいて頭を撫でてあげると、ブルブル震えているが特に嫌がる風でもない。ノコちゃんの感情は、「好き-怖い」の状態になってしまったようだ。

 さて、人間様のことだが生まれ育つ中で、感情の傾向というのがでてくる。人間嫌い。人間恐怖症。人間好き。・・・いろいろある。大まかな傾向はあるが、そのほか日々の生活の中でノコちゃんのように、特定の人に嫌いや怖いという感情をもつことも多々ある。そして、単純に反応して避けたり逃げたりするのだが、避けたり逃げたりできない関係というのもある。その場合、どう対応するか。これは、人間観という大問題に入る生活の課題だ。

 人間観というと、何か難しい哲学書等を読んで理解する問題のように、若いころは考えたが、今になってみるとどうも違うようように感じる。それは、愛された体験(体験の解釈が実は大きい)と繋がるようだ。聖書であれば、サマリアの女のことを思い出してしまう。何人もの男性と暮らしヤコブの井戸に佇んでいたサマリアの女。見るからに孤独で見捨てられた存在だったが、ある日、イエスに出会う。そして、ほんの数分の会話で、心理療法的に見ても完全に癒されきちっとした人間観を持ってしまう。知的に本を読んだ経験から変わったのではない。

 今の日本は識字率が極めて高く、私も書を捨てて・・・など全く考えられない文字文化の住人だ。しかし、奈良時代以降に受容してきた仏教やキリスト教等のことを考えると、一般の信徒の多くは知的に書物を読んで理解して信仰と人間観を持ったわけではない。また、宗教界のリーダですら、体験の持つ意味は大きいようだ。文字のなかった縄文時代の高い文化も、土偶や土器などを見てわかるが、高い宗教性をもっていた。おそらく、近しい人から愛を学び、10,000年以上続く文化をはぐくんできたのだろう。

 旧約聖書にある、「ある神」(I am that I am.). この神の体験は実に深いと思う。そして、それは旧約の世界のみではなく表現は違うかもしれないが、縄文、メソポタミア、旧石器時代・・・にも祖先が経験した神ではないかと私は妄想してしまう。

 ノコちゃんを怯えさせた私は、たぶんノコちゃんにとって好ましくない存在だったかもしれない。そして、今はドストエフスキーの「罪と罰」を少しずつ読んで、ノコちゃんにとっても優しい存在になりたい。

愛のことを考える 1/10

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