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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

絶望感を祖先はどう乗り越えていったのだろうか?(新しい体験 7/10)

2016-06-19 | 第七章「光と復活体」

 何年か前に、曾祖母の50周忌の法事を行った。私が幼いころ瀬戸内海の祖父母の家に行くと。縁側でよく曾祖母が日向ぼっこをしていたのを覚えている。曾祖母については殆ど知ることがなかったが、父が生まれた年に曾祖父が亡くなり曾祖母は父のことをどこか曾祖父の生まれ変わりのように思っていた。そんなことを父が話していたのを覚えている。

 縄文時代の宗教や民俗学を勉強したりしていると、曾祖母の話がとても気になりはじめる。身近にも江戸時代の有名な生まれ変わりの話である、藤蔵・勝五郎の墓所(永林寺、高幡不動尊)があり気にもなっていた。

 そして、私もだんだんあの世?が身近に感じられるようになり、あれこれと死後の世界を思い浮かべてしまう。いろいろ考えるのだが、実際は死んでみなければわからないことなのだろう。でも、考えてしまう。

 私はカトリック信徒なので、その信条はあるが、それでも例えば曾祖父の魂が生まれ変わり父となったり、藤蔵が生まれ変わって隣の村の勝五郎になったりする輪廻(非転生)の思想にはこころが動かされる。今は人生80年とか90年とか言われ、人の死も意外に眼に入らない時代に生きている。しかし、一昔前は平均寿命は50歳台だったし、縄文時代などは30歳くらいとも推定されている。死が身近にあり、そして、縄文時代などはお墓が家の入口や村の広場にあり傍目には死者と同居しているようにも思え、実に死の世界との距離が近い。その中で、生まれる愛する人の魂が、またこの世にやってくるという想い。絶望の淵から見える光。

 実際は、先にも言ったとおり死んでみないとわからないが、この考えをむやみに否定するのもどうかと思う。

 少なくとも、祖先はエリクソンのいうところの最晩年の、「知恵・自我統合性・絶望感」に対する素晴らしい知恵をもっていたように思う。

写真は多摩動物公園のムササビ。昼間は寝ているが、今回訪れたときは、夕方だったので薄目を開けていた。

新しい経験 6/10

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