イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

日本人は木の家で暮らす!

2008-12-21 | 第二章「五感と体感」

 今から40-50年前は、普通の人は木造住宅に住んでいた。幼かった時の生活の記憶は、すべて木造の住居が背後にある。寒い冬は、炬燵や火ばちはあっても、アルミサッシなども当然なく、家の中はもっと寒かったようだ。

 家族全員の背丈を標した柱があったり。襖や障子はいたずらしたりで、良く穴が開いていた。父母が、正月前だったのか障子貼りをしていて、傍で神妙に観ていた記憶がある。

 先日行った、伊豆の松崎町の岩科学校や明治商家は、庶民の生活にしては立派過ぎたが、当時の生活をなんとなく思い出させてくれた。木の中の生活は、どこか暖かい。

 木は、日本人の心の奥の扉を開く何かがあるのだろうか。昔はもっと生活の隅々まで木に溢れ、時に薪や炭と形を変え・・・天井の木目は、幼かった私に、特別な世界を暗示していたようだ。

 想えば、隙間風も入らぬ密封性の高い、効率の良い住居が溢れるようになったのは最近のようだ。日本人はどれだけ長い期間、紙と木ので作った家に住んでいたのだろうか。1000年以上の歴史があるのだろう。源氏物語の世界も当然木造住居だった。

  年末となり、クリスマスが近ずいている。住宅地の夜も、クリスマスの個人のイルミネーションが美しい。昨晩も府中で、観光名所になりそうな個人の家のイルミネーションを見た。サンタや動物の電飾もよいけど、やはり私はクリスマスツリーが一番好きである。日本人がクリスマスを受け入れたのも、西欧が同じ木の文化だったためかもしれない。

 昨日、夕方に見た公園の木々。どこかクリスマスツリーのようであり、そして品があった。

<視覚4/4>

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☆の観察、こころの観察!

2008-12-20 | 第二章「五感と体感」

 夕方、住まいのマンションから見る冬の景色。写真には、明星がはっきり写ってないが、透明な眼差しのような明星(金星)の美しさにはっとさせられる。

 空海が明星を見て悟ったとか、あるいはキリスト教でも、明星とマリア様を結びつけたりする。昼と夜の境に煌めきを増すような明星は、それだけで人を不思議に導くようである。生と死の境をイメージするのだろうか。

 さて、私は小学生時代から、物を観察するのが好きになったようだ。本来はズボラで注意散漫な性格なのだが、親への反動形成なのだろうか几帳面になり、理科などで観察日記を真面目につけたりするようになった。課外活動では地学部で、気象観測までした。そのちょっとした修行?の中で、観る楽しさを知ってしまったというのが本当のようだ。

 顕微鏡を買ってもらい、庭の池の水や草木(あじさいの葉など)などを手当たりしだい見た。小学校5年には天体望遠鏡を購入し、これまた惑星、月、太陽などを見た。小さなもの遠くのもの見てトキメキ、わくわくしたものだ。

 57歳の今、眼も視力は弱まり、夜空の星も一等星などは観えても、暗い星は良く見えない。以前しし座流星群が来た時も、家族で河原で見たが、私だけは殆ど見えず悔しい想いをした。

 加齢等で細かいものを観察しにくくなったが、50歳ごろから「生き甲斐の心理学」の勉強を深めることにより、森羅万象を見て湧きあがる微妙な感情の動きが少しずつ観察できるようになってきた。湧きあがる感情を意識化するのは、結構修行が必要なのだ。

 今は星も心も楽しい。

 今朝、7歳の時にアラスカでお世話になった方の訃報が届いた。アラスカの海岸でその方が漕ぐボートに乗り、海底の黄色い大きなヒトデを眺めたのを思い出す。優しかったおじさんは空のキラ星になったのだろうか。

<視覚3/4>

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心に残る原風景!

2008-12-19 | 第二章「五感と体感」

 脳に日常的にインプットされる情報のうち、約8割は視覚情報だと言われる。聴覚は1割、あとは臭覚、触覚、味覚と続くらしい。

 そんなに多い視覚からの情報であるが、心に残る原風景といったものは覚えきれないほど沢山あるわけではない。

 暗い感情を伴う風景や、明るい感情を伴う風景の記憶、いろいろあるが、心の芯で捕えたような原風景といったものはどうだろうか?

 慈しんでくれた父母の記憶は、視覚だけでなく、聴覚や触覚など複合的な思い出としてある。私の愛の原型もその中にあるようだ。

 そして、不思議に人の生死に繋がる記憶も残っている。弟が生まれて初めて見た時の記憶、子供の記憶。一方、祖父や父の臨終の記憶もある。亡くなった方に最後にお会いしたときの記憶も。

 日々の沢山の視覚情報の中で、残されるもの。大事な意味があるのだと思う。

(写真は西伊豆堂が島 洞窟めぐり)

<視覚2/4>

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美しいものを見ることができる!

2008-12-18 | 第二章「五感と体感」

 美しいものを見ることができるというのは凄いことだと最近実感している。

 素晴らしい夕焼けを見たり、味のある草木や景色を見たりすると、それと同じような美しいもの(自然を支配する原理原則は変わらないので)を、昔の人も同じように感動したと想像するからかもしれない。時間を越える美の存在と言ったらよいのだろうか。

 先日西伊豆をドライブし、駿河湾の向こうに見える素晴らしい富士山を眺めた。夕方、沼津方面に国道17号線で海岸沿いを通っていたら、煌めきの丘というところがありたまたま車をとめた。

 既に暗くなってきたころであったが、駿河湾を一望できる高台で、近くに井田松江(すんごう)古墳があった。誰も居ないその古墳を一人で見物したが、円墳で横穴式石室を見ることができた。

 古墳時代後期の7,8世紀のころのものであるそうで、丁度読んでいた、平安時代の坂上田村麻呂やアテルイの時代と重なる。

 素晴らしい景色が一望できるが、大規模な墳墓を作るには多大な労力がかかりそうな場所で、地方の有力な豪族のものなのだろう。そして、こうしたところに墳墓を作った昔の人の、優しい心根に触れたようで熱い感動を覚えた。

 時間というのは、様々なものを運んでくるが、一方、今も昔も、美しいものがあり、そして美しいと感じる人が居る。そんな当たり前のことに最近感動してしまう。

<視覚1/4>

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自然体で生きる!

2008-12-17 | 第二章「五感と体感」

 40歳を過ぎてから、自分の死に臨んで、悔いのない人生とは何かと、時折考えるようになった。

 当初は、悔いのない人生の条件みたいなものを良く考えた。家族で楽しく暮らす経済的な条件、それからそれを支える仕事の条件、そして自己啓発等など・・・

 40歳半ばになると、そんな条件追及ではうまく行かないのではという疑念が浮かんできた。哲学書を読んだりすることも多くなったようである。また、二十歳ごろと比べて自分が全く変わっていないところを発見し愕然となったこともあった。

 自分のやるべきことは何か?この世に生を受けた幸福をどう御返しするのか?

 自分の中のステレオタイプ的傾向は、自分の真実をねじ曲げるところがあるようだ、それも自分を守るために必要なのだと思うが、自分が変わってくると、だんだんと現実の真実が見えてくるように思うことがある。

 より真実が見える時、より自己実現の方向が定まるように思う。

 昨日は、冬であるにもかかわらず、日中は穏やかであった。暖かい陽だまりで、のんびり昼寝をしてしまった。青空に雲がかかり、ちょっと寒くなって眼が醒めた。

<ステレオタイプ4/4>

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