イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

条件付きの愛、無条件の愛!(こころの援助を考える⑥)

2010-03-26 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 20歳台の入社間もないころ(30年くらい前か)。営業の仕事をしていたが、A部署では成績優秀者が、ご褒美(インセンティブ)をもらっていたのに、自分の部署ではそれがなかった。

 ある時、部長がお酒の席で、何故インセンティブをやらないかこっそり話題にした、人間の成長が大事であり、変なインセンティブは本人のためにならないと断言していた。そんなものかと、その時は思ったが、深い言葉でもあった。

 今の世の中、世間では眼の前の成果にとらわれることが多くなったのか、インセンティブは当たり前になってきている。そして、仕事をするうえで、私もいろいろインセンティブを考えたものだ。

 インセンティブはゲーム感覚的なところがある。人を操作する、操作されるを暗黙に認めている。そして、人の表層、深層というふうに考えると極めて表層の話なのかもしれない。決して人を深く捉えてはいない。

 今、我が家には娘と孫娘が来ている。娘がたまたま仕事をしているときに、孫娘が泣き叫んだりし娘が感情的になる。そして、条件付き的なことを言う。自分もそんな風にして育てたり、育ったのだなあと悲しく思ってしまう。

 しかし、自分の歴史を振り返ってみると、時には無条件(利害にとらわれない)の愛に近いものもあり、思わず感激する。孫娘にも、できれば無条件の愛を伝えたいものだ。

 さて、7歳の時のアラスカの話に戻ろう。相手の女性の先生は、色紙を見せて英語を教えようとしたようだ。ただ、何も答えられない私を見て困惑していた。一瞬の間があり、その時、日本語で答えればいいんだと思った。日本語で色を答えた。

 その時の自分の声は場違いで異様に感じた。違和感と不安感が覆っていた。

 それに対し、女性の先生は、丁寧に私の言葉を聴いていた。外国の小学校で英語を話す訳でなく、日本語を話す生徒の存在。それを無条件に受け入れてくれたのだ。これが、ロジャースの6条件の4つめ<無条件のPositive Regardを経験する>、<受容する>に近かい。

 その次に、次に先生は、私が話している言葉と動作から、その日本語が色を意味していることに気づき、眼を輝かせた。

 日本語でしか回答できない、自分の状況に共感し、私のこころの世界を理解しつつ、さらに私が意識化してなかった、日本語を話す私の個性を知り、すぐに周りに座っていた生徒達に、日本語で色を語らせた。

 同級生達は、先生と共に私をあたたかく受け入れ、わたしは安心した。自分の感情が不安から平安に心地よく切り替わったのだ。

 6条件の5つめの<共感>と6つめの<受容と共感の伝達>がなされ、私の問題(理想=英語を話すこと、現実=しゃべれない)が、(理想=現実=日本語を話しても優しく受け入れられる。)に変わったためなのだろう。

 今日は、ちょっと理屈っぽくなってしまったが、人生で大切な瞬間(自分の成長の時)は、カウンセリングルームだけで行われたのではなく、意外と身近なところで起こなわれていて、それが理論にのっとっているということをお伝えしたかった。皆さんの事例も教えてください。

(こころの援助を考える⑥(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 7/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!


誠実と信頼は人を開放させる!(こころの援助を考える⑤)

2010-03-25 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 対人関係の仕事をしていると、誠実とか信用ということの重大さに気付く。そして、努力の末一度信用を築いて、親しくなることができても、ちょっとしたことで、簡単に信用を失ってしまう恐ろしさも学ぶ。

 20歳台でセールスをしたときも、仕事に慣れて、ある程度経験をつむころが危険であった。その中でも優しい人がいて、私が表面的で実のないことばを投げかけると、今のはちょっと違うだろうと教えてくれた。誠実に怒ってくれる人の存在はありがたい。

 50歳代で介護や福祉の仕事をしても同じだった。馴れや奢りは過去の成功(ちょっとした)経験から生じ、今ここでの、自分の純粋さと誠実さをふっと忘れさせてしまう。いつも真剣勝負でやらなければならないのが対人相手の仕事だ。暮らしの中のカウンセラーや勉強会の講師も同じである。一生修行なのだろう。

 さて、私が7歳の時のアラスカの女性の先生との出会いに戻ろう。

 先生は日本人の少年に話しかけて、英語が全くできないことに、すぐ気付いたはずである。しかし、当惑してひたすら沈黙している私に対し、変にとりつくろうこともなく、困惑しつつも誠実に対話しようとした。大きな不安の中にあっても、誠意が伝わってきた。

 ロジャースのカウンセリングの理論である、必要かつ充分な6つの条件の3つ目、<治療者の純粋と一致>が成立していたのだろう。表面的にとりつくり、別の簡単で楽な方法もあったかもしれない。そうされなかった先生は何だったのだろうか。後日触れたいが、きっと愛の人だったと思う。私は噛みつこうなどとは微塵も思わなかった!

 写真は、国立近代美術館・工芸館の前のオブジェである。いつもこれを見ると、ギリシャ神話でヘラがイオを見張らせたアルゴスを思い出す。眼が沢山あって監視するだけの疑惑感の塊。誠実と信頼は、その対極で人を開放させるのだろう。

(こころの援助を考える⑤(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 6/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!


何故か隠れる自分のコタエ・・・(こころの援助を考える④)

2010-03-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨晩も娘と話をしていたが、自分の若いころと比べても、今の人はいろいろ悩みが多いようだ。しかし、悩む人は私も含め同じようなところがある。

 私が、最も悩んでいた40歳代のある日。苦悩という全く歯が立たない壁のような問題を実感していた。家に帰ると、そんな日々はパソコンで「信長の野望」を遅くまで遊んだ。それで、問題を忘れることができ、昼は仕事をすることで忘れることができた。本当はやるべきことがあるはずなのにである。ただ、自分の問題への回答が全く見えなかったのも事実である。

 今までの自分の経験の物差しがあって、それに囚われる。親しい周りの人からみれば何か変だと気付くが、自分の内にあるはずの答えが隠れてしまうのでしょうがない(心理学的に言うと、自己概念が答えを見えなくする)。ただ、先送りした問題は依然と残っている。

 さて、アラスカでの女性教師との出会いを振り返ってみよう。英語が全く出来ない7歳の私が陥っていたのは、「自分は英語の世界ではしゃべれない。」という深刻な問題であった(今だったら、ソフトランディングするための智恵を日本人は持っているに違いないが)。

 英語をしゃべれるという理想と、当然ながら今は全くしゃべれないという現実の間のギャップ(不安)を幼いなりに持っていたのである。

 ただ、優しいまなざしでこころを通じあうことができた私は、優しい先生を感じつつ、その不安を胸に実感し始めていた(先生の存在で実感できたと言ってよい)。

 そして、それは既に心理療法に必要かつ充分な6つの条件の2つまで辿りついていたのだ(心理的接触、不安を持つ人の存在)。

 自分の不安、問題に気付くのはとても重要だ。皆さんの経験に照らして考えてみたらどうでしょうか?

(こころの援助を考える④(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 5/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!


こころとこころが通じる!(こころの援助を考える③)

2010-03-23 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 先日、仕事場に行くために、駅で電車を待っていると、ベンチに座っていた男性が、大きな声で携帯電話で話しておられた。やがて、電車が来て、早速乗り込むと、先ほどの男性は、殆ど怒鳴るように電話をしている。

 周りの人も、皆怯えた表情で下を向いている(係わりはもちたくないのだろう)。

 こういうとき、電話で大きな声で話をしていても、こころとこころは通じていない。心理学的には「心理的接触」はないという。恐らく、電話の相手は恐怖の中で、防戦しているだけで、ロジカルなやりとりは出来ても、深い人と人との関わりは拒否しているだろう。

 さて、先日からの7歳の時のアラスカの続きをしよう。

 1958年。調べてみれば、当時のアメリカは公民権運動の最中であり、現在のオバマ大統領の出現など想像もできない社会であった。私の暮らしたシトカは平和な町であったが、ネイティブ・アメリカンの方もいる土地柄であった。また、当時はアラスカは準州であり、ロシアから移管され正式にアメリカの州になる前だったと思う。

 そんな中、私はネイティブの多い、分校のような小学校に父に連れて行かれた。父が帰り、私は一人教室に残された。全く英語ができない私は、担任の女性の先生の前に机を挟んで座り、幾つか質問をされた。

 何も判らない。私は、ただ途方に暮れていたが、その先生は、やがて、色紙を持ち出し、色について質問をし始めたようであった。言葉は判らないが、先生の優しい眼差しや、声色は理解できる。言葉はダメでも、コミュニケーションの努力をしようとしていた。

 やがて、色紙を何度もしめす(どういう目的でされたのか今でも良く判らないが)・・・その時、自分は日本語で、指し示す色を答え始めた。「アカ」・・・・

 自分の日本語の発声に、場違いな違和感を覚えつつ、低い声で答えたが、先生は、パッと明るい表情をされた。そして、周りの小学校1年の生徒に向かい、私を色を日本語で言うよう促した。私は違和感を感じつつも、先生に励まされ、色を日本語で答えると、周りの生徒たちも喜んでくれた。

 私は、その女性の先生に援助されつつ、教室にデビューできたのであった。

 今、振り返って考えると、その時の一連のこころの動きのプロセスは、言葉は全く通じないまでも、先生の優しいまなざしで、こころとこころが通じ、そして、日本語で回答しても受け入れられ(無条件の愛と呼ぼうか)、回答しようという努力に共感していただき、歓迎されるという、心理療法の6つのプロセスを経ていたのだった。

 そして、こころを通じさせる優しいまなざしのようなもの。50年以上経過しても、その時の有難さは忘れられない。皆さんの通じる体験はどうでしょうか?

(こころの援助を考える③(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 4/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!


噛みつき少年!ますます噛みつづける(こころの援助を考える②)

2010-03-22 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日から、心理的接触、あるいはラポールのことを考えたり、心理療法の必要にして充分な6つの条件について考えを巡らしていた。

 U先生からは、自己事例を深く勉強することこそ、心理学の実力養成のポイントと教えら、いつも考えるのだ(皆さんも、そうすると良い。自己事例を考えて初めて勉強になると思う)。

 そして、愛の原型にも繋がるような、昔の記憶を辿っていると、ふと7歳に両親と暮らしたアラスカの思い出がでてきた。随分昔の記憶であるが、それでも自分の中に刻み込まれている記憶である。それを、ベースに今回は進めて行きたい。

 尚、本シリーズはU先生の著書である、「生き甲斐の心理学」と「人の身体は神の神殿」(どちらもアマゾンで入手可)を終始参考にさせていただく予定である。ブログの左上に、U先生の「生き甲斐の心理学」の本の写真があるがクリックされ是非購入してください。

 さて、ぼちぼちお話をすすめたい。

 私は昔、噛みつき少年であった。

 幼いころの断片的な記憶の一つは、母の乳房に赤チンでかかれたお化けである。歯が生え始めたころ、母の乳首をよく噛んだそうで、乳離れを促すための母の苦労のお化けであった。

 幼稚園に通いはじめてからも、迎えにきてくれた叔母さんの手を噛んだ。鼻をつままれて息が苦しくなるまで噛むという、ひつこい子供でもあった。身体が小さいこともあり、そんなコンプレックスがあったかもしれない。

 小学校1年に入学したてのころ、原因は全く覚えていないが、担任のA先生の手を噛みついた。当時は一クラスが60人くらいであったが、60人が見守る中で噛んだのだ(A先生はこのこともあり、卒業するまで私のことを特別視していた。A先生ごめんなさい。)。

 そんな、少年であったが、その年の夏ごろ、突然父が、これからアラスカにパルプ工場の建設の仕事でいきたい、きっと、お前の人生にも役立つと言われ一家で行くことになった。

 両親も英語は片言状態。そんな中で南東アラスカのシトカに行った。そして、私は現地の小学校に入学することになった。アラスカでも噛み続けるのだろうか?(つづく)

(こころの援助を考える②(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 3/60)

 人気blogランキングへ <- 1クリックで燃えます!感謝しています!!!